第十二章:「終わったように見える朝」
夜が明けた。だが、陽が昇っても森は光を拒むように沈んでいた。霧が低く垂れこめ、土の湿りさえ重く、その湿り気に混じる鉄の匂いだけが、昨夜の出来事を静かに語っていた。
村に満ちる空気は、朝の清澄さから程遠い鬱重さを帯びていた。誰もが口を閉ざし、昨夜の決断に触れようとしなかった。罪責と安堵と恐懼が絡み合い、言葉にならない。畑の土の匂いでさえ、今日はどこか冷ややかだった。見張り台に上がった鮎川は、昨夜は闇に紛れて見えなかった森の有様を一瞥し、昨夜の『結果』を悟った。
森の斜面に点綴する濃赤。羽片めいて散った布片。片腕だけが、木の枝に引っかかって揺れている。
(……)
昨夜、ヒグマに追い散らされ森へ逃げ込んだ半グレどもの残滓だった。谷から村へ上がる道には、引き摺られた痕跡が幾筋も走っている。獣が獲物を運び去った痕だ。
「……生き残りは、いないでしょうね」
見張り台の階段を上がってきた佐藤が低い声で呟く。鮎川は言葉を返せなかった。佐藤は遠くを眺めながら、呟いた。
「……生きるって、容赦がない」
彼の声は、屍を見たわけでもないのに、死と向き合った人間そのものの震えを帯びていた。自分たちが生きるためとはいえ、彼らにも、名前、家族、過去、誰かに必要とされた時間があったはずだ。それらすべてが、森の中で血に溶けた。気づくと、伊佐山が鮎川の後ろに立っていた。
「……これが現実だ。自然より――人が造った世界のほうが、よほど冷たい」
淡々としているのに、その声の奥には微かな疼きがあった。
――人が造った世界のほうが、苛烈で冷酷だ。
鮎川の胸の奥に、小さな棘のような痛みが刺さった。
『生き残る』ことと、『生かされている』ことの違いが、朧げながら輪郭を得はじめていた。
佐藤がぽつりと呟く。
「これで終わりだといいんですが……外は、今どうなってるんでしょう。今年のヒグマ、どこか……おかしいですよね」
鮎川は息をのんだ。
――変ですよね。
佐藤のその一言は、鮎川の胸に引っかかりが残した。
――変。
そう呼んだ瞬間、むしろそれが近づいた気がした。
(外で、何かが起きている――?)
鮎川は、まだ名づけられない気配が、こちらへ滲んでくるのを感じていた。
冷たい風が葉を揺らし、すぐ止んだ。
◆◆◆
三日後、夜明け。村全体が異様な静寂をまとっていた。
「今日、一気に行くぞ」
狩猟班の代表が短く告げる。
村にとって脅威だった半グレ集団の問題は決着したが、村にはまだ緊張が残っている。
――今年は、山に、ヒグマが多すぎた。
「今年は投入の頻度が異常だ」
伊佐山が呟く。例年の投入は週一、二度程度だが、今年は日々、投げ込まれていた。そして、ヒグマの体躯が冬眠明けの状態だ。
鮎川は、数日前に見たヒグマの姿を思い返す。
――肋骨が浮き、冬眠前とは思えないほど痩せ衰え、骨張った肩だけが不気味に盛り上がっていた。
(この時期で、あの体つき……ありえねぇ)
「……外が荒れてる。だから、ここにも来る」
佐藤が熊槍を握りながら言った。
(餌がない。追い詰められて、里へ出るしかない)
鮎川は答えられないまま、胸の奥でじわりと不安が広がっていくのを感じた。
(あのヒグマの異様さ……外界の『前触れ』ってやつか?)
乾いた風が頬を撫でた瞬間、その思いが一度だけ胸を打った。
昨夜、村総員一致で『凶暴化し残った個体を一気に狩り尽くす』と決まった。
「行くぞ!」
一斉に村の男たちと、体力に自信があるという女たち数名のチームが動いた。鍬。槍。弓。火縄を応用した焙り煙玉まで用意されている。森の入口に立っただけで、土の奥から響いてくるような獣の気配が漂った。
「北側に三頭、東に二頭。南側にも一頭、下りかけてるみたいです」
「去年の倍以上じゃねぇか……」
その言葉に、ひりつくような寒さが走った。鮎川は胃の奥に、黒い石がひとつ沈んだような感覚を覚えた。
斥候の位置報告に、チームが分かれて動き始めた。狩猟は淡々と、しかし残酷なほど迅疾だった。
矢が放たれ、熊が怯んだ隙に複数人で槍を突き出す。血が飛び散り、地面はじきに赤黒い泥へと変わる。だが村人たちは誰も悲鳴をあげない。現場に混乱はない。淡々と連携し、熊を仕留めていった。
「そこ! 右から来るぞ!」
「押さえろ、下がるな!」
「大丈夫だ、致命傷入ってる!」
冷静で、正確で、生活のために必要な手つきだった。
鮎川も槍を構える手が震えていたが、後ろから聞こえた佐藤の声で集中が戻った。
「鮎川さん、無理に前へ出なくて大丈夫です。いまの位置を、守ってください」
「……はい」
二人のすぐ脇を、巨大な影が倒れる音がした。ドサァ……
地面がわずかに揺れた。
「仕留めた!」
歓声ではなく、任務を終えたという静かな声だった。鮎川は、『生きるために奪うこと』を身体で理解しつつあった。
◆◆◆
その日の午後、解体場は、淡く湯気が立ちのぼっていた。壁のそばの川下に、臨時の解体場が設けられていた。通常解体にあたっている女たち、そして職人班が中心となり、皮を剥ぎ、肉を切り分け、黙々と処理をしていく。
一人がため息をついた。
「今年の熊、ほんっとに肉が薄いわね。干し肉にしても量が全然ないわ」
周りも苦笑する。
「まあ、毛皮はけっこう綺麗に取れたし。去年より、冬はみんな暖かく眠れるだろ」
「そうね。収穫だわ」
肉の匂い、血の匂い、皮の匂い、全部が生活の匂いに変わっていった。
鮎川は、解体場から立ち昇る湯気を見つめていた。
――死が備えへ転じていく、村の強さと冷たさ。
それを同時に見ていると、鮎川は、ほんのわずかに守るための奪いを肯定しかけていた。
◆◆◆
熊狩りが終わり、数日後、村の空気はゆっくり落ち着きを取り戻していた。秋の名残が続く中、空気の奥にはかすかな冬の匂いが混じり始めている。
干し肉の棚に吊るされた薄い肉片が風に揺れている。小屋では、今年狩った熊皮の処理が進められている。干し上がった熊皮を広げ、使える部分を裁断していく。日常が回り始めていた。
「こっちは今年の分ね、こっちは去年と合わせて防寒具用」
淡々とした声が飛び交う。朱莉がいた頃より効率よく静かに進んでいた。村の生活は、誰が欠けても止まりはしない。ただ、それぞれが少しずつ負担を増やし、今日を回すために動き続ける。
(……ここでは、誰かが消えても、日常は続くんだな)
淡々とした手の動きに、その現実が滲んでいるのを、鮎川は黙って見つめていた。
職人小屋では、熊の毛皮を干す竹竿がぎっしり並び、職人たちが冬の備えを整えている。
「今年は肉の量が少なかったからな。干し肉は足りるか心配だが、毛皮の質は悪くない」
伊佐山が熊皮を手に取りながら言う。
「これなら、去年みたいに寒さで倒れる奴は減るな」
日常は日常のまま、淡々と進んでいく。それがこの村の強さであり、優しさでもある。
だが同時に、その淡々さが、ふと不気味に見える瞬間があった。
まるで村だけが季節と切り離され、世界のほころびから取り残されているような。
洗濯場からは水の音。どれも、村を構成する生きている音だ。
炊事場からは煮込みの香り。畑には冬野菜の芽が伸び、若者たちの笑い声がかすかに響き、作業場からの石割りの音……日だまりには冬支度の道具が並び、人々の動きに、どこか柔らかな気配が漂っていた。
鮎川は、干し場の影に立って、風に乾いていく肉片をただ眺めていた。
(……静かだ)
血の匂いばかりだった日々のあとで、この静けさは、むしろ胸の奥を無遠慮に掻き回した。同時に、村の空気に、少し温度が戻ったのを感じた。
佐藤が隣で言う。
「……こういう日、悪くないですね」
「……ええ」
(悪くない。……こんな日が、続いてもいいのかもしれない)
瞬時に、(……いや、違う。俺は一日でも早く、控訴して――無罪を勝ち取らなきゃならねぇ)
――鮎川の心は順調に立て直されていた。
◆◆◆
鮎川が井戸のそばを歩くと、そこには澪が、静かに水を汲んでいる姿があった。
彼女はいつも通り、顔を伏せたまま、人との距離を保っていた。完璧なまでに近づこうとしない。それは今も変わらない。ただ――以前のように、鮎川を見るなり逃げ出すことはなくなった。鮎川が軽く会釈すると、澪は小さくうなずき、声にならないほどの声で「……おはようございます」と返した。それが、彼女にとってできる最大の接触だった。
距離はある。恐怖はまだ深いところに残っている。だが、そのわずかな反応が、鮎川の胸に、冷たく刺さるものが残った。
そして、変わらない日常が始まる。日が傾くと、村は柔らかく息をつく。作業を終えた鮎川は、井戸のそばで腰を下ろした。煮炊き場からはスープの匂いが漂ってくる。静かな夕暮れだ。心の奥に溜まっていた黒い水が、わずかに澄む。
(……こんな「なんでもない日」を、俺が過ごすことになるなんて思わなかった)
なんでもない日は、つまらない日であり、自分にとって生産性のない日。
失笑だ。ほんの短い安息。だが、確かに存在するひと時だった。
そのとき――上空を横切った影に、鮎川は目を上げた。
一羽の鳥が、時期には早すぎるほど低く、どこか慌てたように飛んでいる。
――何かから逃げるみたいだ。
風はいつもより乾き、夕暮れの空は理由もなくざわついて見えた。胸の奥に、微かな不安がひとしずく落ちる。
冬の気配は確かにある。だが、その裏に、かすかに冷たい影が混じっている感じがした。
風が冷たく澄み、鮎川の胸の奥に、すとんと落ちる何かがあった。
――生きることは、理屈じゃない。ただ――続いていくものだ。
◆◆◆
その冬はいつもより短く、春のような気候と厳しい寒さが繰り返す、変わった気候だった。
三月に入ると、灰根村の周囲の山肌は、例年より早く雪解けが進んだ。畑では、農耕班の男たちが黙々と鍬を入れ、作付けの準備が急ピッチで進む。冬の厳しさを思えば、春の暖かさは歓迎すべきはずだった。
――本来であれば。
「……今年、雪解けが……早すぎませんか」
井戸端で澪が呟いた。彼女は相変わらず顔を上げない。しかしその声には、いつもより強い違和感が滲んでいた。それに返事をしたのは、澪の横で桶を洗っていた年配の女だ。
「ええ。私も少し気味が悪くてね。ここに来て長いけど……こんな年はなかったわ」
鮎川は、その会話を少し離れた場所で聞いていた。(狂っているのは季節か。それとも、俺たちのほうか)胸の奥に、小さな石のようなざらつきが落ちた。
朝の点呼後、作業の割り振りが行われた。畑班は春の作付け準備、狩猟班は周辺の巡回、職人班は熊皮の仕上げと道具の補修。
その日の鮎川は、畑手伝いを任された。
「こっちは土が固いから気をつけろよ」
鍬を入れると、冬を越えた土が重く抵抗してくる。汗が額を流れるが、その重さがむしろ心地よかった。
佐藤が、いつもの柔らかい笑みで言う。
「だいぶ慣れてきましたね、鮎川さん」
「……まあ。少しは」
鍬を振るう動作に、わずかなあい成感が混じっていた。
午後、鮎川は畑の境を歩いていた。
踏み固められた土の上に、季節外れの枯れ葉が散っていた。(この時期に……枯れ葉?)手に取ると、ぱらりと崩れた。冬の乾燥しきった葉ではない。秋に散るはずの葉が、今になって落ちてきているのだ。
すぐそばで、農耕班の男が首をひねった。
「山の上の木々……枯れが早いんだよな、今年。樹液の流れが変なんだとよ。動物も例年より痩せてるらしいし」
佐藤は空を見上げてぽつりと呟いた。
「……最近、変ですよね」
「何が、ですか?」と鮎川が返すと、
佐藤は少し考えてから言った。
「季節だけじゃなくて……山の音が、違う気がするんです。鳥の声とか、風の鳴りとか……なんか、落ち着きがないっていうか……」
鮎川は黙った。佐藤の感覚は、案外正しいことが多い。
(……そういえば。去年のヒグマも、あんな感じだった)
鮎川の心臓が、音を立てた。あの、骨ばった肩、冬眠前ではあり得ないほどの空腹、生き延びることだけを叫ぶような、あの動き。
あれは偶然ではなかったのかもしれない。木の影、岩陰、斜面の一点一点を、まるで何かを探すように。
――山が、何かおかしい。
春のはずなのに、風が山肌を抜けるたび、どこか冬の匂いが混じる。季節が乱れている。自然がざわついている。
――少しずつ、
外界の「崩れ」が村の境界まで滲んできている。
――この山の外で、何かが起きている。
そして、それはじわじわと村を包もうとしている。
それを村の誰も、まだ正しく理解できていなかった。
まだ、村の平穏は保たれていた。まだ、笑い声もある。食事も温かい。作業も進む。
空をかすめる風が、春の匂いと、どこか焦げたような不穏さを混ぜていた。
――平穏の影で、檻は静かに形を変えていた。




