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壁の山  作者: 朝霧 瑠璃
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第十一章:「答えのない正しさ」

 気配は、風よりも先にやって来た。


 十一月の山は、いつもより早く冷え込みを深めていた。木々の葉は落ち、森は透けて見えるほどに痩せ、獣道には、複数の蹄跡と爪跡が幾重にも刻まれていた。


「……今年は、本当に多いな」


 畑班の男が呟くと、伊佐山が小さく頷いた。

「外も荒れてる。冬眠前に腹を満たせなかった熊が里へ下りる。捕獲されて、ここへ放り込まれる……それの繰り返しだ」

 佐藤が木の枝を払いながら言った。

「外の人は、『この山が勝手に餌を出す』とでも思ってるんでしょうね。こっちの暮らしなんて、知りもしないのに」

 声は軽いが、その奥に疲れが見えた。


 熊の投入が続くということは、山の餌が枯渇してきたということ。つまり――熊が人間を餌と認識する境界が揺らぎ始めている、ということだった。

 

◆◆◆

 

 その日の夕方、北側の警備台から警報の合図が鳴った。木槌を二度、短く打つ音。

 

 ──異変あり。

 

 榊原が最初に駆けつけ、続いて警備班、そして鮎川と佐藤も急いで集まった。

「……何が見えた?」

 警備台にのぼった若い男が言った。

「北の尾根……山影のところで、焚き火の煙が三つ。ふだんの半グレの動きじゃない。まとまってる」

 その言葉だけで、場の空気が一瞬にして研ぎ澄まされた。伊佐山が顎に手を当て、低く言う。

「……群れる時は、狙いがある。冬前の追い込みか、食糧の奪い取りか……どっちにしろ、こっちへ寄せてくる」

 佐藤も表情を引き締めた。

「備蓄は多い。狙うなら、まずここでしょう」

 鮎川は無意識に背筋が伸びた。村での生活に慣れつつあった彼だが、外の暴力を目の前にしたときの胃の底の冷たさは、まだどうにもならなかった。榊原が周囲を見渡し、短く言った。

「話し合いを開く」

 

◆◆◆

 

 集会所に人が集まると、まずは状況が説明された。

「半グレが集合していることを確認した。冬前で窮迫している。――この村を襲撃してくる蓋然性は高い」

 ざわ……と声があがったが、即座に榊原が手を上げた。

 

「静かに。……ここからが本題だ」

 全員の視線が一斉に榊原へ向いた。榊原は深く息を吸い、粛然と告げた。

「――今年は熊が多い。飢えが深い。こちらが狩らずに放置すれば、半グレの動きに引き寄せられる恐れがある」

 場が、一瞬静まり返る。

 ――半グレと直接戦わずに済む可能性の提示。

 伊佐山が低く確認した。

「つまり……熊を狩らない。そういう判断ですか」

 心臓がドクンと音を立てた。

「そうだ」

 

 ――沈黙。

 反対は出なかった。

『守るための行動』――牙が、卓の上に置かれた、と皆が理解した。

 

 皆の顔を見つめていた榊原が、但し書きを付けた。

「ただし、熊が集まる『道』を決めねばならない。村の匂いを遠ざけ、奴らの方へ流す」

 伊佐山が地図の上に手を置いた。

「北尾根だ。半グレの根城からこっちへ来る道に、熊が通う獣道がある」

 榊原は頷いた。

「そこに食い残しを置く。熊は血の匂いに集まる。――奴らが村へ来る前に、熊を動かす」

 

 誰もが思い描いても口にしなかった言葉を、聞いた瞬間、鮎川は、胸の奥にざらついたものを感じていた。

(殺さないために、見殺す……)

 ――外の世界で、自分も同じ種類の判断をしてきたことを思い出していた。

 

 榊原が最後に言った。

「明日の朝、実行する。全員、準備に入ってくれ」

 村の空気が、ひとつの覚悟で張り詰めた。


 外は風が吹いていた。冬の匂いを含む、鋭い風。その風の向こうに――

 『崩壊の予兆』が、確かに潜んでいた。


 ―― 空腹の獣、見張り台から見た地獄。


 薄曇りの空が、じわじわと山の色を暗くしていく。

 

◆◆◆

 

 翌朝、鮎川は、北東の見張り台の上から、山肌をなめるように流れていく雲と、その下に広がる木々の影を見つめていた。隣には佐藤、反対側には警備班の若い男が一人つき、遠く北西の台には伊佐山たちが立っているはずだった。狩猟班から戻ってきた斥候の報告では、ヒグマは谷から北側の道を上ってくる見込みだった。

「半グレも……同じ筋から来る」

 榊原がそう言ったとき、鮎川は、そこでぶつかる 光景を想像するしかなかった。その「想像」が、今、現実になろうとしていた。


 最初に聞こえたのは、かすかな葉擦れ音と、不規則な足音だった。

 

 ガサ…… ガサ、ガサッ……

 

 木々の間を抜けてくるその気配は、獣の動きとは違っていた。妙に左右へ揺れ、時おりよろめくように乱れている。

「……来ます」

 佐藤が小さく呟く。目を凝らすと、森の切れ間の向こうに、半グレたちの一団が見えてきた。ここからだと、顔の細部までは分からない。だが、体の傾き、肩の沈み方、足取りの重さが、彼らが満身創痍であることを雄弁に物語っていた。

(あれが……熊とぶつかった後の……姿……)

 胸のどこかが冷たくなる。彼らは、それでも村へ向かっていた。生き延びるために、何かを奪わなければならないという強迫観念だけに突き動かされているようだった。

「……数、思ったより落ちてますね」

 佐藤が、どこか青ざめた声で言った。

「だが、脅威は脅威だ」

 北西の台から伊佐山の声が飛んでくる。距離があるのに、その声だけは妙に鮮明に届いた。

 

 次の瞬間だった。

 ――ズシン。

 

 地面の奥から、ゆっくり腹の底を震わせるような衝撃が伝わってきた。風が、一瞬止まる。

「……来た」

 佐藤の声が、かすれた。山の木々の陰から、巨大な影がひとつ、ぬっと現れた。ヒグマだった。ただのヒグマではない。遠目にも分かるほど、肋骨が浮き、毛並みは逆立ち、肩の筋肉だけが異様に盛り上がっている。


 本来、冬眠を前にした熊は丸太のように太り、脂を幾層にも蓄える。だがその体には、脂肪ではなく『削げ落ちた影』しか残っていなかった。


 外の世界の荒れ方が、この森にまで及んでいる――。木の実は不作が続き、川の魚影も薄い。獣たちは食うものを求めてさまよい、捕らえられ、ここに投げ込まれてくる頃には、みな同じように骨ばっている。


 飢えた山が生んだ、異形の熊だった。まるで、飢えそのものが四肢を持って歩いているようだった。もう一頭、少し小ぶりな影が続く。背を丸め、鼻先を地面に近づけ、血腥い匂いを追っている。

「二頭……いや、もっと奥に……」

 北西の台から、誰かの押し殺した声が聞こえた。

 

◆◆◆

 

 半グレたちがようやくその存在に気づいたのは、距離がもう、目測で二十メートルを切った頃だった。細い腕がひとつ、熊のほうを指すのが見えた。その直後、見張り台にまで届く悲鳴が、空気を裂いた。

「うわあああああッ!」

 次に何が起こったのか、鮎川には細部までは見えなかった。だが、熊が跳んだ のだけは分かった。重いはずの巨体が、地面を蹴った瞬間、あまりにも軽々と浮き上がる。そして、一人の男めがけて落ちた。バキッ。

 

 骨の折れる音が、風に乗って届いた。続いて、肉が千切れるような、湿った破裂音。

「ぎゃああああッ!」

 男の悲鳴は、一度だけ高く上がり、その後は呻きに変わった。


 熊の肩が大きく振れるたびに、何かがぶら下がっているのが見えた。腕なのか、布なのか、ここからでは判別できない。ただ、飛沫が土の色と違うことだけが、はっきり分かった。

 

「……矢だ。撃ってる……」

 佐藤がかすかな声で言った。半グレの一人が弓を構え、熊の肩あたりに向けて放つのが見えた。ヒュッ。矢は確かに当たった。だが、遠目にも分かるほど浅く、熊の毛に引っかかった程度だった。その瞬間、熊が振り向く。怒りをまとった影が、標的を変えるのがはっきりと見えた。

「やべっ……!」

「こっち来るぞ!」

 悲鳴混じりの叫びが風にちぎれて届く。


 次の跳躍。熊の体が横に流れ、数メートル先の木の幹近くで何かが弾けるようにして倒れた。ドンッ。木が揺れ、その根元に崩れ落ちた男の体が、不自然な角度で折れ曲がっているのが見えた。その周囲に、黒と赤と土の色が滲む。

(これが……本物の、『生き延びる力』……)

 

 距離があるぶん、血の匂いは届かない。だが、音と、動きと、動かなくなっていく影だけが異様なほど鮮明だった。

 

 熊は止まらなかった。倒れた男の体に一瞬鼻面を押し当てたあと、舌を出し、何かを引きちぎるような仕草をした。


 遠目には、肉なのか布なのか区別がつかない。でも、そのたびに地面に赤い筋が伸びていく様子だけは、見張り台からもはっきり見えた。喉奥が、きゅっと窄まる。

「……生きるために、あの熊……必死なんだ……」


 佐藤の呟きは、憐憫とも、戦慄ともつかない響きを帯びていた。


 熊は、逃げようとする『動く影』を次々と追いかけた。走り出した半グレの背中に飛びかかり、そのまま地面へ押し潰す。枝ごと押し折られた木が、ひしゃげた音を立てる。別の一人は、斜面を転がり落ちながら、途中で何かに足を引っかけ、そのまま動かなくなった。熊はそれ以上追わない。よく動く獲物を優先しているのが、遠くからでも分かった。

「……減っていく……」

 北西の台から、伊佐山の低い声が届いた。

「半分……いや、もっと持っていかれてる」

 彼の声は淡々としているのに、その淡々さが逆に、状況の重さを際立たせていた。

 

 ヒグマが半グレの一団へ突進し、骨と肉が砕け散る音が森の冷気に溶けていく。鮎川は見張り台からその光景を見つめていた。自分の胸のどこかが、冷え切っているのがわかった。生の姿でも、死の姿でも、もう驚きはしない――そんな自分がいた。

 ――生きたいから逃げる。

 ――生きたいから震える。

 

 ヒグマの咆哮が森を揺らした。鮎川は視線を奥へ向ける。そこでは、命が潰れ、命が奪い、命が生き延びようと暴れていた。

 

 しばらく続いた激闘のあと――熊たちは、満足したのか、あるいは獲物が動かなくなったからか、ゆっくり森の奥へと引いていった。その背中が木々の影に完全に溶け込むまで、誰も声を出さなかった。

 

 地面には血痕が点々と続き、倒れた影が散らばっている。かろうじて這って逃げようとする者もいるが、その動きからは、もう村まで辿り着けないことが見張り台からでも分かった。


 見張り台から降りてきた佐藤たちは無言の内に集まっていた。重苦しい空気が流れる。

「……これが自然の断罪なのか……それとも、私たちが仕向けたものなのか……?」

 誰かの震える声が聞こえた気がした。伊佐山が、短く息を吐いた。

「判断は正当だ。……だが、後味が悪い」

 佐藤は、遠くの血に染まった地面を見つめたまま、呟いた。

「……生きるって、残酷ですね」

 

 鮎川は、言葉が出なかった。

(……そうだ。力がなきゃ、こうなる)

 だが、胸の奥で、何か黒い渦がうねっている。

(……生きるってのは、守って、奪って――それでも息をすることか)

 どれが正しくて、どれが間違いなのか、答えは落ちていなかった。


「――距離を誤れば、牙になる。……それだけだ」

 榊原の一言が皆の心に刺さった。


 遠くで、まだかすかに呻き声が続いていた。

 

 その声さえ、やがて風に薄まり、夕方の山の静けさに溶けていった。

 ――助かったのは、誰かを喰わせたからだ。この静けさは、代償だった。


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