第十章: 「彼は、最後まで間違っていなかった」
――ガタンッ! ガコッ!
エレベーターの到着音が、山の朝に沈んだ。誰かが来たことを知らせる、重い合図だ。
金属の継ぎ目が、微かに鳴った。
しばらくして、東側の跳ね橋の向こう、霧の薄いところから一人の男が歩いてきた。
背筋は伸び、無駄のない歩幅。細身だが、重心の置き方に癖がない。服も髪も整い、眼鏡越しの視線は落ち着いた知性を宿していた。
よどみない足取りで、橋を渡り、村に入ってくる。
「……久世理人と申します。以後、どうぞよろしくお願いいたします」
久世と名乗った男は、ゆっくり周りを見回し、己に向かって歩いてくる男に目をとめた。
「榊原だ。ここを預かっている」
久世は、静かに軽く頷き、榊原を見ながら、どこか慣れている動作で会釈した。
「しばらくご厄介になります。――ご迷惑はお掛けしません」
声の調子は柔らかいく、一歩下がって相手を立てるような口調と丁寧な態度。だが、目だけが、笑っていなかった。
その眼に、佐藤がわずかに眉をひそめた。
(……この人、なんか……変だな)
気配を薄くしすぎている。人にどう見られるかだけを、極端に意識する人間の匂いがした。
(丁寧すぎる。礼儀が整ってるほど、腹の中が読めない。こういう人が一番、厄介だ)
佐藤は胸の奥でつぶやいた。
榊原は淡々と告げた。
「村に入る前に一週間、北の隔離小屋だ。――ルールだ。道は一本。北へ行けば着く。食い物は山で探せ。ここでは、誰も用意しない」
久世は穏やかな笑みを浮かべた。
「承知しました。適応には……自信があります」
『適応』その言葉だけが、妙に柔らかすぎて、逆に冷たい。
◆◆◆
北へ進むと、林の陰に小さな小屋が一軒あった。床は土。壁は隙間だらけ。寝床は藁だけ。
久世は中を見回し、眉ひとつ動かさず言った。
「……質素、ですね」
その口調は、文句でもなく、感想でもなく、「これをどう利用するか」を考えている時の声だ。
彼は肩にかけていた袋を置き、腹を押さえた。
(まずは食料だな)
小屋にあるのは空の甕だけ。
――空腹は拙い。上品な仮面に、ひびが入る。
◆◆◆
久世は、刑務所へ向かう車内、その中の村へ向かう道中さえ、焦りとは無縁だった。普通の人間なら取り乱す状況で、彼はただ、風景を観察するだけ。
(ま、贄の順番が俺に回ってきただけだ)
その認識に、怒りや悲しみは一切ない。
むしろ『そういう世界の仕組みだ』と微笑む余裕すらある。
組織にとって不都合な真実ほど、一番声の大きい奴の責任にされる。自分も何度も部下をそうやって切り捨ててきた。だから、自分がそうされても不思議ではない。
(……俺の番、というだけの話だ)
罪悪感も反省も、存在しない。
久世は警察を――『正義を掲げた巨大な商社』――くらいにしか思っていない。正義は商品。犯罪者は在庫。成績はノルマ。部下は使い捨て資源。そして、自分はその流通のプロ。
(正義は、売れて初めて正義になる)
この価値観こそが、彼が悪だと思わない悪として生きてきた理由。
だから冤罪を作ることも罪ではなく「調整業務」。同僚を売ることも「職務上の最適化」。
(善悪を決めるのは、いつだって勝った側だ)
久世は本気でそう思っている。それが、組織悪の中で生きてきた久世の哲学だ。
◆◆◆
翌朝。山に、山菜採りの女たちの声が響いた。
「この根、いい感じに育ってるよ」
「もう少し掘ったら持ち帰れるね」
籠を脇に置き、夢中で土を掘っていた。
そこへ、足音を殺して近づいた。
(……今だ)
女たちは彼に気づかない。久世は籠に手を伸ばし、山菜を数握り、服の内側へ滑らせる。
その瞬間――木陰で、わずかに枝葉が揺れた。巡回の目があった。久世は気づかないまま、森へ消える。彼らの視線には意図はなく、事実だけが冷たく残った。
久世は山菜を盗んだまま、静かに森の奥へ消えた。
◆◆◆
村の入り口で、久世を見た伊佐山の身体は凍り付いた。
(なぜ、あいつが。ここに)
顔を見られないように背を向け、呼吸を整える。
――だが、胸の奥が冷えていく。
久世が隔離小屋に入れられた翌朝、伊佐山は北側の巡回路を歩き、籠から山菜を盗む久世を見た。
「……厄介なのが来たな」
溜息と共にが零れ落ちた言葉を残し、伊佐山は巡回を続けた。
昨夜の雨に濡れた落ち葉は、踏むたびに、柔らかい泥の匂いをふっと立ちのぼらせる。その匂いが、胸の奥に沈めていたはずの夜をゆるやかに呼び覚ました。
(……まただ)
森の中でも、まとわりつくのはいつもあの冷たい蛍光灯の光だった。
――警視庁。
あの巨大な組織の内部にいた頃の自分が、ぬらりとした影のように姿を現す。
部署の廊下はいつも乾いた匂いがして、夜間はコピー機の低い駆動音が、遠くの海鳴りのようにぼんやり響いていた。伊佐山は、その静けさを正しさの証明のように思っていた。秩序は保たれ、真面目に働けば報われ、悪事は裁かれ、公は私より強い。
――すべて幻想だったと知るまで、時間はかからなかった。
「伊佐山君。君は……見えすぎるんですよ」
久世の声は、いつも落ち着いていた。怒鳴ったことなど一度もなかった。穏やかさの裏側が、『冷たく計算された沈黙』で構築されていることに、若かった伊佐山は気づけなかった。
あの夜――一件の内部不祥事が発覚した。
署内の裏金処理、篭絡された議員との裏取引、部外者の死亡事故の隠蔽。書類には、想像以上に黒い線が走っていた。それを見つけたのが、若い伊佐山の不運だった。
「久世さん……これは……」
言いかけた瞬間、久世は、深い溜息をひとつつき、優しい声色でこちらを見た。
「伊佐山君。あなたは真面目すぎる。――ただ、残念ながら『正義』は現場で通貨になりません。そういう世界です」
そして、久世は笑った。光のない笑みだった。
あの日から、組織の空気が、少しずつ、確実に変わっていった。
上層部との小部屋での密談が増え、伊佐山が関わった案件の証拠がなぜか紛失し、彼の発言が一部切り取られ、見たこともない供述記録が作られた。
いつの間にか、伊佐山だけが悪の位置に置かれていた。
(贄は、こうして選ばれる)
久世は穏やかに言った。
「世間体を守るには、誰か一人が泥をかぶる必要がある。今回は――あなたでした。それだけです」
その時、伊佐山は知った。正義は道具で、使い方を知らない者は、それで殴られる。伊佐山は、抵抗した。無実を訴え、同僚に話し、上司にすがりつき、証拠集めにも奔走した。
だが一つとして、誰も耳を貸さなかった。
理由は一つだった。
『警視庁という巨大な体が、伊佐山という細胞ひとつを捨てる方が、生き残るのに都合がいい』
ただ、それだけだった。
久世が最後にかけた言葉だけが、今も耳に貼りついて離れない。
「あなたは政治が読めない。『正しさ』を振り回す人間は、組織にとって雑音になる」
その笑みは、まるで慈悲のようで、中身は氷点下だった。
ふいに、森の風が強く吹いた。落ち葉が一斉に揺れ、今いるはずの山道の景色がかすかに歪んだ。
(なぜ俺は……こんなところにいる?)
答えは単純だ。伊佐山は正しい側にいたつもりで、実際は使い捨てられる側だった。それだけだ。
――それでも。
この山で久世を見た瞬間、伊佐山の胸の中に決着の炎が、静かに灯った。
◆◆◆
久世が村に来た日の昼。午前の仕事を終え村に戻ってきた鮎川は、入口で、榊原と話す久世を横目に見た。物腰が柔らかく、身のこなしが徹底している。妙な親近感を覚えた。
――完璧だ。
その完璧さが、鮎川の過去を連れてきた。アメリカ留学から帰国した、鮎川は外資系企業に入り、数字と英語とロジックの世界に身を置いた。そこでは、「結果」がすべてだった。人柄も、年功も、家庭の事情も、ほとんど意味を持たない。売上、利益率、効率。資料の中で踊る数字が、そのまま人事評価になり、昇進になり、降格になり、退職になった。
そのルールは、鮎川にはむしろ心地よかった。
「愛されること」ができないなら、「結果を出すこと」で生き残ればいい。水を得た魚のような環境だった。
会議室で流暢にプレゼンし、上司の意向を先読みし、部下には負荷をかけ、数字を搾り出す。三十歳を前に、管理職への昇進が見えたころ、鮎川はそれまで付き合っていた女たちとの関係を、ひとつひとつ静かに切っていった。丁寧な言葉で、相手のためを思うような口ぶりで、しかし一切の情を残さずに。丁寧に人を切り、丁寧に人生を整えた。丁度、父親が亡くなり、その遺産で、家を買った。
そして、満を持して、綾乃にプロポーズ。綾乃は、本当に嬉しそうに泣いた。結婚式の日、綾乃は本当に幸福そうに笑っていた。鮎川は、その笑顔と涙を見ながら、「これで俺の人生は正解ルートに乗った」と静かに思った。娘が生まれたときも、鮎川は「家族を愛している」と考えていた。
『自分の人生が順調だ』という確認できた。
家族という幸せなパッケージ。
――完璧に近い人生。
(……俺も、あっち側で歩いてた。あの日までは)
――なのに、奪われた。
胸の奥で、昔の価値観が息を吹き返す。落ち着いた環境にいるほど、心は元の形に戻っていく。
「――鮎川さん?」
二の腕を軽く掴まれ、鮎川は我に返った。
「どうしました? あまり食べてないですね」
「ええ……少し。大丈夫です。考えごとをしていただけで」
鮎川は飯を掻き込み、午後の仕事へ向かった。
◆◆◆
久世隔離六日目の夕方。
夕方、村へ戻る道に足を踏み入れると、巡回路の奥から足音がして、佐藤が息を切らしながら駆けてきた。
「伊佐山さん。ここにいた。村長が呼んでます――新入りの件で、判断を下すって」
――判断。処遇。決着。
伊佐山は長く息を吐いた。
(逃げるか、向き合うか……今日が『決着』だ)
背後で風がざわめき、木々の葉先が薄く震えた。
それは、長い闇の終わりを告げる合図のようでもあった。
◆◆◆
翌朝。久世隔離七日目。
小屋の木戸を開けた瞬間の光に、久世は少し目を細めたが、すぐにいつもの、すべてを見透かしている風の穏やかさを取り戻した。
久世は榊原の前に立った。
「では……今日で隔離期間も終わりですね。そろそろ村へ――」
榊原が、その言葉を切った。
「久世さん。あなたを村には入れない」
久世の笑みが、一瞬だけ止まる。
久世は眉ひとつ動かさず、息を軽く吸い、丁寧な声音で返した。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
「隔離に入った翌日と三日前、山菜取りの籠から盗んだと報告があった」
久世は驚かなかった。目がゆっくり細め、
「報告、ですか。……証拠はございますか?」
榊原は淡々と返す。
「ちょうど通りがかった警備班が、見ていたよ」
ただ、少しだけ笑みの角が鋭くなった。
「なるほど、『ちょうど』ですか。……よく出来ていますね」
「隔離小屋の周囲は、新入りが躓きやすい。だから巡回の目も厚くしている」
榊原は淡々と言い切った。
「この村じゃ、証拠より見たという証言が重い。嘘を混ぜれば共同体が壊れる。分を越えて取る者に、居場所はない」
久世は短く息を吐いた。
「……結構です」
久世はゆっくり息を吸い、吐いた。
「承知しました。――あなた方は、それを公正と呼ぶのですね」
柔らかな笑みを貼り直し、穏やかに言った。会釈のような優しい角度だったが、その奥には、『お前もいつか側へ来る』とでも言いたげな影が滲んでいた。
その言葉に、佐藤は小さな毒を感じた。鮎川は少し離れたところから、その一部始終を見ていた。久世と目が合う。
(……承知した、のか?)
榊原が北側の跳ね橋を開け、久世に告げた。
「ここから先は山だ。ヒグマもいる。北には半グレが棲みついている。自己責任で生きろ」
(半グレか)
これは使い道があるモノが見つかった。久世は心の中でほくそ笑み、塀の外へ踏み出した。歩き方は静かで、乱れなく、背中だけが冷たく重たかった。その背が森の影に溶けるまで、誰も口を開かなかった。
◆◆◆
久世が村から追われたあと、伊佐山はしばらく沈黙していた。その横顔には怒りとも安堵とも違う影が差していた。
(……やはり、お前は変わらない)
久世の失墜を見て、伊佐山の胸に去来したのは勝利ではない。正義が通った――ただ、それだけだった。
(俺があの時、上に逆らって失脚したんじゃない。――『正しいことをしたから』落とされた)
警察という組織は、真実より都合を選んだ。久世はその都合のために平然と人を売り、上層部はそれを利用した。
そして――最終的に久世は、この山で『正しく裁かれた』
それを見届けた瞬間、伊佐山は静かに確信した。
(……俺の正義は、間違っていなかった)
その確信は、声に出さずとも、長年胸に溜めていた澱をわずかに洗い流すほどの力があった。
◆◆◆
「……たかが二度、食い物を『摘んだ』程度で。随分と大仰ですね」
(空腹だ。食えるものを食っただけだろう。何がおかしい)
――人間として、当然の行為だ。
一人になった途端、久世は本来の姿で毒づき始めた。
盗みが見つかったと榊原に告げられた時、久世は内心、堂々と笑った。
(へぇ。あなた方の村は、人の生より規律が大事らしい)
皮肉でも怒りでもない。ただ純粋な観察。
(……結局、どこも組織は似ている)
村に入れなくても、絶望も恐怖もない。
(なら、別の場所で『上手く』やるだけだ)
こんな状況ですら、彼の中では、『次の駒の打ち場所を変えるだけ』の話だった。
◆◆◆
山に入って二日。久世は、疲れ切った足を引きずり、川沿いの岩に腰を下ろした。昼と夜の寒暖差に、体力が思った以上に削られていた。
警視庁で守られていた頃は、人間の生活というものを実感したことがなかった。警棒を握らずとも、警察手帳ひとつで威圧できる世界だった。だが今、その権威は、山の夜風の中でなんの役にも立たない。それでも、久世は焦らなかった。
(警察手帳はない。だが――言葉がある。理屈がある)
(どこだろうが、上に上がる手はある)
どこに置かれても他者を利用し、自分の座標を上へ上へと持ち上げる能力。
(半グレの頭に、俺が乗れないわけがない)
◆◆◆
夕刻。森が薄闇に沈む頃、久世はそれらしき人影を見つけた。
若い男が四人。痩せて骨ばっていて、目の奥に飢えと暴力の影が淀んでいる。背中にくくりつけた布袋から、乾いた草片が覗いていた。
(……妙な甘い匂いだ。……大麻か?)
久世は半グレ集団を見た瞬間、彼らを利用価値のある駒として見た。
人の心の綻びを裂くのは得意だった。
(頭は悪そうだが、動かしやすい。――まとめられる)
男の一人が、久世をねめつける。
「……おっさん。ずいぶん深ぇところまで来たな」
久世は、微笑んだ。
「迷ったわけではありません。あなた方を探していました。――仲間に加えていただきたい」
「はぁ?」
一気に空気が変わった。
だが久世は一歩も引かない。探していた新たなる『組織』がやっと見つかって、久世は内心安堵し、滑らかな声で続けた。
「私は『元・警察』です。ですが敵ではありません。むしろ……話ができると思いまして」
戦略のつもりではなく、空気を吸うように自然な発想、だった。しかし、彼の都市型の狡猾さは、野生化した半グレたちには通用しなかった。
その瞬間、空気が、ピシリと割れた。
「元・警察、だぁ?」
最年長らしい男、その額には、明らかに警棒の古傷があった。久世の笑みがわずかに硬くなる。男は低い声で吐き捨てた。
「俺たちがここに入れられた理由、知ってるか? 全部、警察のせいだよ」
「てめぇの仲間が、俺たちの家族や女や仲間を散々殴って。口封じに、俺たちをここに捨てたんだ」
久世は、静かに眉を動かした。(……想像以上に恨まれているな)
「元警察は見つけ次第潰す。そう決まってんだ。俺らはぜってぇ許さねぇ」
別の男が淡々と言い放った。
久世の微笑は消えた。かわりに、薄氷のような沈黙が広がる。
(……選び間違えた)
男たちの瞳を見た瞬間、そのすべてが役に立たないと気づいた。理屈も理性も映っていない、恨みだけが粘りつくように沈んでいる目だ。
男たちは、じわじわと距離を詰めてきた。久世は、自分が相手を選び間違えたと悟った。村であれば、嘘や計算で人を丸め込めただろうが、この山の『北側の影』は違った。ここは、彼の知っている組織社会より、もっと単純で、もっと残酷だった。
久世が一歩後ずさった瞬間、煙を吹きかけられた。
「さぁ、返してもらおうか。警察に散々やられた痛みってやつをよ」
久世の鼓動が、はじめて乱れた。
――誤算だった。
「……痛みを返してもらう」
その言葉とともに、男のひとりが久世の胸ぐらを掴み、無造作に地面へ叩きつけた。背中に土の硬さが刺さる。だが、それよりも胸を焼いたのは、無価値に扱われた事実そのものだった。
久世は言葉を探す。
「どうか落ち着いてください。私はあなた方の敵では――」
「敵だよ」
最年長の男が低く、割れた声落ちる。
「三年前、俺の弟を殴り殺した警察の仲間だ」
久世の呼吸が止まった。思い当たる事件が、頭の隅で形を持つ。
(弟……? ……あの事件か?)
――三年前。
暴力団の一斉摘発。逃走した男を確保する際に、機動隊が過剰制圧をした事件。警察は公式には認めていないが、現場では噂になっていた。
久世は、喉の奥を掻くような息を吐いた。
(組織の隠蔽……上層部は封じた。世間に漏れぬよう、贄も立てた。……なのに、なぜ知っている)
「弟は死んだ。黙ってりゃ隠せると思ったんだろ。てめぇらはいつもそうだ。失敗は、誰かに押しつけて隠す」
久世の頭の奥で何かが、沈む音を立てた。彼は素早く立ち上がり、逃げようと身をひねったが、手首を掴まれ、地面に引き倒された。
土の冷たさが、頬に伝わる。
そこから先は、音だけの世界、になった。
世界が一拍、無音になった。
殴打音。誰のものかわからない荒い息。怒号にも似た呻き。骨の軋む嫌な音。痛みは、場所が分からなくなるほど散らばり、体の輪郭が曖昧になった。
久世の頭の中に、ひとつの光が揺れる。それは、久世の走馬灯だった。
無音が、数秒だけ落ちた。
幼いころ、父親に言われた声。
「お前は賢い。周りの人間なんぞ簡単に扱える」
その言葉だけを、久世はずっと信じて生きてきた。人を利用し、切り捨て、調整し、勝つ。怒りも、涙も、すべて他人事だった。
警察で出世し、人を操り、嘘で塗り固め、どの場所でも役に立つ人間を演じてきた。なのに、今、この闇の中で向けられる憎悪は、紛れもなく彼自身に向けられたものだった。
(……なんで、俺が?)
だが、その問いはどこにも届かないし、答えは出ない。殴られ、蹴られ、転がされ、死が近づいてきていても、久世の思考は崩れなかった。
(……まあいい。贄の末路なんて、こんなものだ)
苦痛はあるが、恐怖はない。むしろ、自分が利用してきた世界から利用されて死ぬ事を、それが正しいのかどうか考える気力すら、もう残っていなかった。
息を吸って、吐いただけだった。
久世は、どの瞬間で死んだのか、自分ではわからなかった。ただ最後に、鱗雲の切れ間から覗く、薄い月が見えた。その光は、彼を裁くでもなく、救うでもなく、ただそこに在るだけだった。
久世は、その静けさに、奇妙な安堵を覚えた。
(俺は間違っていない。――賢く生きただけだ)
反省の欠片もなく、久世は最期まで久世のまま。久世は最後の瞬間まで、自分の死を敗北とは捉えなかった。そのまま、光は静かに遠ざかり――久世という男は、山の影に溶けるようにして消えた。




