第九章:「弔い」
一日に二人が追放された日から、四日経った。
その週の狩猟班は、山の東側を周ることになっていた。朝餉を食べ、身支度を整え、川上へ向かって川沿いを辿る。雨は降っていないのに地面が濡れている。落ち葉が水を抱え、靴裏にまとわりつく。沢の音だけが一定で、耳の奥に涼しく響いた。山へ入ってしばらくして、鮎川の鼻が先に違和感を拾った。
鉄の匂い――。そこへ、酸っぱいような甘いような腐りが薄く混じる。湿った土と、獣の巣のにおい。喉の奥がひりつき、胃が反射的にきゅっと縮んだ。羽音が、妙に近い。
「……止まってください。近寄るな!」
伊佐山の声が低く落ちた。次頭の佐藤が片手を上げ、残りの二人――古賀と森下も足を止める。誰も理由を聞かない。ここでは、聞く前に気づいてしまう。
川の曲がり角の手前、藪が不自然に踏み荒らされていた。石に擦れた跡。折れた枝。湿った土に、黒い毛が絡んでいる。鮎川が一歩、踏み出しかけたとき――佐藤の指が袖を押さえた。
「触らないでください。……見なくていいです。見ずに済むなら、そのほうがいい」
佐藤はそう言ってから、視線だけは逸らさなかった。柔らかい声なのに、躊躇がない。藪の向こう。赤茶の落ち葉の上に、ひとつの形が転がっていた。人間の形を、途中でやめたような――。胸から下が潰れている。肋のあたりが裂け、内側が露出し、乾きかけた黒い血が葉に貼り付いていた。腕は一本、肘の先がなく、骨だけが白く覗く。腹はわずかに膨れ、肌は土と体液で斑に濡れて、緑がかった鈍い色を帯びている。顔は横向きで、頬が泥に沈み、片方の眼窩がぽっかり空いていた。
蝿が、執拗に寄っては離れ、羽音が群れになって耳の内側を叩く。森下が喉を鳴らし、こみ上げるものを噛み殺した。古賀は眉一つ動かさない。伊佐山はすぐに地面へ視線を走らせた。足跡、引きずり跡、獣の爪痕――「原因」を確かめる目だ。鮎川の胃が遅れてひっくり返った。酸が喉までせり上がり、口の中が苦い。
「……手ぬぐい」
伊佐山が短く言う。佐藤が腰の手ぬぐいを外し、口と鼻を覆った。古賀も森下も同じように布を当てる。鮎川も慌てて袖で口元を押さえ、息を浅くした。布越しでも匂いは刺さり、目の奥が熱くなる。
伊佐山は屈み、地面の筋を指でなぞった。指先に湿った土と毛がまとわりつく。
「ここで襲われて、引きずられた。――まだ近い。川へ寄る熊だ。戻ってくる可能性がある」
今年は木の実が乏しく、秋が暖かいまま長引いていた。腹を空かせた獣は、川沿いの匂いに引かれて下りてくる。人も同じだ。言い終えると同時に、伊佐山は古賀へ目配せした。古賀が斜面側へ半歩ずれ、背中合わせに周囲を見張る。森下は息を押し殺して、川の流れのほうへ耳を立てた。水音の切れ目に、何かの足音が紛れ込んでいないか――それだけを探す顔だった。
「……江波だな」
伊佐山が言った。佐藤が息を吐く。
「あの荷の袋……昨日、北橋から出たものです」
鮎川の視界の端に、小さな布袋が見えた。裂けて、中身が泥に散っている。噛み破られた粗い布。その周りに干し肉の破片が転がり、唾液と土で黒く固まっていた。布は繊維が毛羽立ち、引きちぎられた端が湿って光る。そのそばに、薄い紙切れがいくつもある。水を吸って文字は滲み、配給の控えだったらしい名残だけが残っていた。
「……持ち帰れるものは、ないな」
伊佐山の声には情も軽蔑もない。事実の確認だ。
「回収して、記録する。――残したら、次の穴になる」
胸の内側に黒いものが落ちた。怒りではない。嘆きでもない。――「手順」に馴染んでしまう感覚だ。(追い出したのは、この村だ。喰ったのは、山だ。拾うのは……俺たち)その三つが淡々と並ぶ。並んだまま崩れない。刃物を握るときの無音に似ていた。感情を抜いた分だけ、世界がよく見える。
「勝手に動くな」
伊佐山が鮎川へ言う。叱責ではなく、手順の声だった。
「位置を記録する。回収は――村長の指示を受けてからだ」
佐藤が小さく頷き、森下へ顎を向ける。
「森下。村まで走れますか?」
森下は唇を噛み、頷いた。
「……行きます」
森下が踵を返す。踏み荒らしたくない場所を避け、川の石を選んで跳ぶ。水の音が、彼の足音を飲み込んだ。
残った四人は動かずに待った。ただ待つだけなのに時間が重い。匂いが濃くなる。虫が寄ってくる。羽音が布越しに刺さった。
川岸の石に薄い苔が貼り付いている。水が触れるたび、苔の表面が一瞬だけ濃くなる。たったそれだけの変化を、鮎川はぼんやり見ていた。佐藤が川辺へしゃがみ、掌を濡らした。濡れた指で口元を拭う。乾いた唇に、水の冷たさだけが残る。
「匂い、頭に残りますよね。……一度、水で切り替えましょう。少しは楽になります」
言い方は穏やかだが、やっていることは処置だった。
ほどなくして、塀のほうから足音が近づいた。現れたのは警備班の男二人と、火を扱う当番の女だった。森下が少し遅れて続く。肩が上下し、目が赤い。警備班の男が淡々と告げる。
「村長の指示だ。遺体と荷物は全部回収。残したら、次の穴になる」
『穴』という言い方がこの場に似合わなかった。けれど、この村では死も生活の一部として『穴』になる。
男の一人が、小さな帳面を開く。白い紙の束――回収の記録だ。当番の女が腰から木札を出し、帳面の脇へ並べた。名ではなく札で数える。ここでは、人の顔より手順が先に立つ。帳面には木札の番号、時刻、場所、回収の対象が並ぶ。書く人の指先は墨で黒く、紙の端を揃える癖がある。ズレがあると、あとで指摘される。
伊佐山が一度区切るように言った。
「立ち会いを揃えろ。――あとで村長の帳と照合する」
誰かが書いている間も、俊平の体はそこにある。社会の手順が死体の上に降りてくる。鮎川は、それが気持ち悪いのか、救いなのか、判断できなかった。
森下が呟く。声が掠れている。
「……目、欠けてる」
佐藤が俊平の顔のあたりを見たまま言う。
「落ちたものが、どこかにあるはずです。残してしまうと、また獣が寄ってきます」
警備班の男がためらいなく言った。
「探せ。規則だ」
――規則。
その言葉が刃みたいに立つ。
六人は、葉を一枚ずつめくるように周囲を探った。血が染みた葉。黒ずんだ土。細い根の間。鮎川が指先で何か硬いものに触れた。ぬるり、と滑る。掌に、冷たい球体の重さ。反射で握りそうになって、佐藤の声が飛んだ。
「素手で掴まないで。布で」
佐藤が布切れを差し出す。鮎川は布越しにそれを包み、掌の上に置いた。丸い。柔らかい。けれど確かに「眼」の形をしている。布の隙間から覗いた白に、胃がひきつった。
伊佐山がそれを見て短く頷いた。
「……揃えた。行くぞ」
担架が持ち上がる。葉の下で何かがずるりと滑った。重さが腕へ来る。散っていた布袋と紙切れ、噛み裂かれた布もまとめて拾う。使えるものはない。――それでも、残さないために集める。
◆◆◆
塀へ向かう途中、空堀の縁に近づくと風が変わった。村の匂いがわずかに混じる。堀の側、塀沿いの砂利が乾いた音を立てる。踏むたびに音と跡が残った。
――ここは、抜けられないように出来ている。生きていても、死んでいても。
東側の入口が見えてくる。北東の見張り台から視線が落ち、門番が橋脚脇へ出てきた。担架を見ても表情は変わらない。外番帳を開き、木札の番号を目で追う。
「回収一件。出、六。戻り、六。――時刻、記す」
短い声。印が紙に落ちる音が、やけに大きい。門の内側へ入る手前で、警備班が足を止めた。
「中へは持ち込むな。――遺体も、盗った物も。匂いを残せば獣が寄る。人の心も荒れる」
担架は外の地面に下ろされ、布が掛けられた。佐藤が布の端を押さえ、風で捲れないようにする。たったそれだけの動きが、ひどく丁寧に見えた。
当番の女が言った。独り言ではなく、作業の宣言だ。
「いつも通り、焼きます。骨になるまで焼きましょう。匂いを残せば、山がまた寄ってきますから」
遺体は、塀の外を回して川下へ運ばれた。
東側の跳ね橋の外。ふだん熊を解体する場所の近くに、石で囲った焼き場がある。
そこにはすでに、呼び出された男たちが薪を組んでいた。乾いた硬木を井桁に積み、火持ちを良くするために炭も混ぜる。
焼き場の脇には、浅く掘り下げた炉が口を開けていた。火床のまわりを石で固め、土を寄せるための鍬と籠が並ぶ。
燃え上がった熱を逃がさないために――最後は土で覆い、息を止めるように焼き切るのだ。
獣の処理と同じ手順で、人も『処理』される。
担架から体を移すとき、誰も目を合わせなかった。目を合わせれば、手が止まる。拾い集めた布袋も紙切れも、噛み裂かれた布も、薪の隙間へ押し込んだ。使えるものはない。残す理由もない。布に包んだ眼も、そのまま薪の間へ落とした。
火打石が叩かれ、乾いた火花が落ち葉より軽く跳ねる。火のそばに残るのは五、六人だけだった。番表に沿って二人ずつが交代し、残りは黙って離れる。
やがて火が噛みつき、はぜる音が増えた。煙の匂いが、村の匂いへ変わっていく。肉の焦げる匂いが混じり、風がそれを運ぶ。
「火守りは二人一組。交代は一刻ごと」
警備班の男が帳面に線を引きながら言う。時間と札。引継ぎの言葉は短い。目線は合わせない。合わせれば、揺れる。昼を越えても火は落ちない。薪を足す。炭を足す。鉄板をかぶせ、土で縁を押さえる。熱を逃がさないための手つきは、冬の燻し窯と同じだった。
日が傾くころ、骨はまだ赤い。焼けた脂が音もなく落ち、煙の色が一段濃くなる。夜になっても火は残り、番が続いた。鮎川は井戸で汲んできた水を飲んだ。冷たさが体の奥へ刺さり、少しだけ意識が戻る。佐藤が水筒を差し出す。
「飲んでください。ここで倒れてしまうと、余計に長引きますから」
言い方が現実的で、優しかった。
夜明け前、火がようやく息を弱めた。
土をどけると、灰の底から白いものが覗く。残っている熱が冷えていくのを待つ。
六人が並び、火箸と板を持ち、布を巻いた手で骨拾いを拾っていく。長い骨は割れ、小さな骨は砂と混じって見分けにくい。拾うたび、木箱の底が小さく鳴った。熱が布越しに指先を痺れさせる。拾い終えたあと、灰を薄く広げ、残りがないか目でなぞる。拾えるものは拾って、残りは灰に戻す。揃えたものは揃えたままにする――それが、この村の整え方だった。
箱の蓋が閉まると、匂いが一段減った。それでも焼けた匂いは指に残る。鮎川は掌を見た。黒い筋が、なかなか消えない。西側の墓地へ向かう道は無言だった。
墓地は山の斜面を削っただけの場所で、石が冷たい。土は硬い。掘るたびに根が絡みつく。穴の底へ木箱が置かれる。古賀が土を戻し、森下が黙って踏み固めた。伊佐山が石を一つ、箱の上に置いた。名を刻む石ではない。位置を忘れないための重みだ。
当番の女が回収帳を折りたたみ、墨の乾き具合を指で確かめた。
「外番帳と、村長の帳――三つ揃えて残します。回収品はゼロ。火へ入れた分も、記録は残す」
言い切ることで、揺れを止めるみたいに。伊佐山が短く言った。
「これで終わりだ。――戻るぞ」
――終わり。
そう言われた瞬間、鮎川の胸の奥に遅れて何かが落ちた。俊平は盗んだ。追放された。熊に喰われた。回収され、焼かれ、骨になり、埋められた。それは、どこまでも整っていた。整えたのは、生き残るためだ。泣けば穴が開く。怒れば穴が開く。置き去りにしても穴が開く。穴が開けば、そこから山が入ってくる。この村の理屈は単純で、冷たい。
西側の墓地からの帰り道も、誰も口を開かなかった。井戸の横で手を洗った。水は痺れるほど冷たく、指の隙間の黒を流しても、焼けた匂いだけは残る。布で拭うと、布がすぐ灰色になった。
◆◆◆
夕方、いつものように配給の列が出来ていた。
鮎川は列の端を見た。そこに、俊平の場所はない。最初から無かったみたいに、列は進む。佐藤が囁く。
「ここは、そういう場所です。――空いた所は、すぐ埋まります」
埋まる、という言葉が、さっきの土の重さと同じ響きを持っていた。鮎川は、土で汚れた自分の指を見た。指の間の黒い筋が、なかなか消えない。
山の風が吹き抜け、墓地の草が揺れた。その揺れだけが、世界の側の普通に見えた。けれど、その普通がなぜか怖かった。目を逸らせなかった。
――切ってきた。刃を入れた瞬間は、音もなく終わる。
だが、切られた末の形は、いつまでも残る。胸の奥がざらつくのに、顔は動かない。
(……それでもだ。あのとき止めたら終わりだった。俺は、間違ってねぇ)




