叫び
大原千草は、既視感に首を傾げた。
ショッピングモールからの帰り道。歩道に立っている男が居る。
何の変哲もない白いTシャツとハーフズボン。何処にでもいるような風貌の男が立っている。
勿論、知り合いではない。
男が千草の視線に気が付いたかのように顔を向けると、口を開いた。
何かを叫んでいる。
しかし、その声は聞こえない。
男は顔をしわくちゃにしながら、全力で叫んでいる。
聞こえない。
その時、パァッとクラクションの音が響いた。見れば、信号が青に変わっていた。
千草は慌てて車を発進させた。
ちらとサイドミラーを見ると、男が叫ぶ姿が小さくなっていった。
何故、既視感を覚えたのか。ショッピングモールですれ違ったのだろうか。
考えても判らない。
千草は、その日の内に男のことなど忘れてしまった。
しかし、男は再び千草の前に現れた。
現れたというよりは、千草が発見したというのが正しい。
男は駅の反対方面のホームに立っていた。以前歩道で見た時と同じように白いTシャツとハーフズボンという出で立ちである。荷物は何も持っていないようだ。
あれ、と見つめる千草の視線に気が付いたように、男はゆっくりと顔を向け、口を開く。
何かを叫んでいる。
しかし、その声は聞こえない。
丁度千草の乗る電車がホームへと入って来たからだ。
千草は電車に乗り込むと、向かいのホームの様子を何気ない風を装って窺い見た。
男は叫んでいた。
だが、周りの人々は一切気にしている様子ではなかった。
男だけが、顔をしわくちゃにしながら千草に向かって叫んでいる。
いや、叫ぶ振りをしているだけなのかもしれない。そうでないなら、周りの人々の反応は、あまりにも普段と変わらない。
それだけでも十分異常な状況だと判断した千草は、男から視線を逸らした。視界の端で男の姿がぼんやりと映っているが、意識を向けないようにする。
その内、電車が動き出した。
窓の向こうに居た男は、瞬く間に見えなくなった。
──あの男は……。
千草は考えた。
どうして既視感など覚えたのか。
改めて思い出そうとしても、その顔は詳細には思い出せない。
よく居る顔、だからだろうか。それさえも詳細に思い出せないとなっては判断が付かないが。
だが、同一人物だということだけは判る。
同じ格好で同じ異常なことをする他人が二人も居るとは考えにくい。
深刻に考えそうになった千草は、緩く首を振ってそれを頭から追い出そうとした。
居るのかもしれない。あることをしなければ気が済まないといった様々な事情を持つ人が。多くの人々はそれが判っていて、特別問題視はしないのだ。
千草も幼い頃、近所のおばあさんが息子を失くして以来、被害妄想に囚われ、叫んだり暴れたりしているのを見たことがある。同級生が突然肩を掴まれ怒鳴られたとかで、警察を呼ぶ事態になったこともあった。世の中には、そういった人達も居るのだ。
気の毒だけれど、それだけのこと。
千草はこれ以上その男について考えるのを止めた。
しかし、男は千草に忘れさせてはくれなかった。
実家に向けて高速道路を走っている時、男は路側帯に現れた。
これは、もう、異常だった。
そんな所に、人が立っている訳がない。車の故障なりしたのなら、すぐ近くに車を停めている筈だ。それもなく路側帯に立っている男は、千草に気がついたように顔を向け、口を開いた。
叫んでいる。
男が、叫んでいる。
その声は聞こえない。
「っていうことがあったの」
千草が言うと、おもむろに立ち上がった母が、仏壇の前に座り込んだ。
線香を立て、お鈴を鳴らす。両手を合わせてから、のっそりと立ち上がる。
「やぁねぇ。おじいちゃんおばあちゃん達に、千草のこと宜しくって頼んでおいたから」
千草の母にはこういう所があった。何があってもひとまずご先祖様にお願いする。それでも、今の世の中できちんと仏壇の世話をして毎日祈っているのだから、珍しくとも親孝行、先祖供養にはなっているのかもしれない。
ちら、と仏壇から手元のお茶に目を移した千草は、そっと息を吐いた。
あの男は、一体何者なのか。
千草に憑いて来ているのか。
思い当たる節がない。
千草は慎ましく、見方を変えれば地味に生きてきた。
何の因縁も、由縁も持たず、ある時突然何かに憑かれてしまうということはあるのだろうか。
千草は、怪談などの怖い話は得意でないから、詳しくない。調べようにも、怖さが勝ってしまってなかなか出来なかった。
「そう、考えてると、引き寄せちゃうわよ」
母が顔を顰めて言う。
「そう、だね……」
それでも気分が晴れない千草の様子を見ていた母が、手を鳴らした。
「今日は折角アンタが久し振りに帰って来るから、美味しいもの沢山準備しておいたのよ。良いお肉も買ってきたんだから。すき焼きよ、すき焼き」
時計を見た母は、「そろそろ準備しようかしらね」とキッチンに向かった。
「そんな大げさにしなくていいのに。いつも通りで」
「もう、アンタは昔っから遠慮しいなんだから。いいのよ。それにお母さん達だって食べたいの、良いお肉」
ガサガサと冷蔵庫を漁っていた母が、「あれっ」と声を上げた。言いながら冷蔵庫の中身をテーブルの上に出すと、「やだぁ」と大げさな声を出す。
「やだわ、お豆腐買い忘れちゃった。千草ちょっと買って来てくれない?」
「うん、いいよ。他に足りないものは?」
食材をキッチンの台に取り分け、母は頷く。
「大丈夫。お豆腐だけ。あれがないとお父さんの機嫌が悪くなるからね。宜しくね。木綿よ、木綿」
「うん、判ってる」
千草は財布とエコバックを持つと、スーパーへと向かった。
スーパーまでは徒歩十分程。小型だが周辺の人々に長く愛されている店だった。千草も子供の頃はよくお使いで訪れていた。
そこまでの道すがら、千草は足を止めた。
何があった訳ではない。ふと胸に沸いた恐怖だった。
この道を行って、もしあの男が居たら。
車に乗っている訳ではない。電車のような遮蔽物がある訳でもない。そして、中途半端なこの時間に、人通りは殆どなかった。
ゴクリ、と喉が鳴る。
──ただ、お豆腐を買いに行くだけ。
千草は恐怖を振り払うように道を歩き出した。
恐怖を覚えてしまうと、何てことのない小道や空き地さえ怖く感じてしまう。
路地に通りかかる度に怯えながら、ついにスーパーへと辿り着いた千草は、ホッと息を吐いた。スーパーには、まばらではあるが、それでも人が居る。
籠を持たずに店内へ入り、木綿豆腐のパックを持ち上げた千草は、ふと上げた視線の先に目を釘付けた。
白いTシャツとハーフズボン。
男は、ゆっくりと振り返る。
その顔を見た千草は、飲み込んだ息を長く吐き出した。
呼吸が苦しく、手が震えていた。
──違う。
振り向いた男は、あの男ではなかった。
顔の思い出せない男であったが、それでもあの男ではないことは判った。
視線の先に居る男は、妻らしき女と連れ立って歩いていく。
「ちょっと、貴方大丈夫?」
突然声を掛けられた千草は、豆腐のパックを取り落とした。慌ててそれを拾い「大丈夫です」とレジへと向かう。柱に取り付けられた鏡には、すっかり青褪めた自分の顔が映し出されていた。
ベッドに横になった千草は、ふぅと息を吐いた。
酒が入り、旨い肉を食べた今、満たされた心地だった。
千草が実家を出た後に、妹の手によって整えられ随分と趣が変わった部屋なのに、天井を見つめていると、子供の頃に戻ったような気分になってくる。
そうして子供の頃の記憶に浸っている内、千草は眠りに落ちていた。
誰かが、手を振っている。
「誰?」
そう訊いても、答えない。
いや、違う。
反対の手を口元に当てて叫んでいる。
それなのに、その声は届かない。
「なに、何て言ってるの?」
千草は叫んだ。
誰かが──男が、手を振り、叫んでいる。
「おーい」
千草は体を起こした。
息が上がっている。まるで首を絞められていたみたいに首が痛み、強く咳き込んだ。
汗が体中を流れ、不快だった。
枕元の机に置いていたコップの水を飲み、息を整える。
──ちょっと深酒しすぎたかな。
トイレに行こうと立ち上がった千草の耳に、ある音が届いた。
ビクリ、と体が震え凍り付く。
動けない体の中で、耳の感覚だけが冴えていく。
また、聞こえた。
千草はゆっくり振り返った。
ベッドの向こうに窓がある。
その窓の向こうから、その音は聞こえていた。
震える手で、千草はカーテンに手を掛けた。
「おーい」




