シルア
「ああ、こんばんは。今日はどうしました?」
もうその声は業務用のもので、少しばかり胸の奥が痛んだ。それでも、白衣姿のシルアに見とれている自分が居て、それはなんて愚かなことだろうかと自虐的な思考が勝手に活動を始めだした。
「いやさ、俺の布団を探してくれてたら、上の物が落ちてきて、下敷きになったんだ。で、手が痛むんだって」
黙っている僕を見かねて、ヴェルダンディーが状況を説明してくれた。
「手、ですか。見せてください」
言われた通りにする。
すると、シルアは僕の手を取ってまじまじと見つめた。心臓か、ドキドキして音がシルアに聞こえやしないかと心配だった。それが診察ってモンなんだろうけど。
「あ、腫れてますね。レントゲン、撮ってみますか。少し待っててくださいね。ヴェルド、悪さするなよ」
シルアは、ヴェルダンディーのことをヴェルドと読んで出ていった。
僕は、シルアが触れた手から、どうも身体中に熱が広がっていくような気がしてならなかった。
少しと言うのは本当に少しで、あっという間にシルア戻ってきた。それから、レントゲンを撮ってみると、手の甲の骨が、折れてこそいないもののヒビが入っていると言うだった。
一応、痛み止の薬と包帯やら何やらで手当てをしてもらった。
「まったく、ヴェルド!出ていったと思ったら、人に迷惑をかけて!!」
手当が終わった途端、シルアはヴェルダンディーに怒鳴りだした。
先程のやりとりを見ていて思ったが、兄弟には何か憧れる物がある。それは、僕が一人っ子だからなんだろうが、それでも、自分で分かるくらいに兄弟等物に対しての執着は狂的だった。
「兄貴だってだろ! こないだ、酔いつぶれて、この人に迷惑かけてたじゃんか!!」
「くっ…い、いやあれは……あの、その節は大変ご迷惑をおかけしました」
急に頭を下げられて恐縮してしまう。
「いえ、大丈夫です。お気になさらないで下さい」
「いやはや、兄弟揃いも揃ってご迷惑を……えーっと……」
そう言えば、この男は僕の名前を知らない。
「あ、ラグナード・A・トールステンです」
「ラグナードさん、本当に申し訳ありません。お詫びと言っては、なんですがどうぞ治療費は、私達で出させてください」
名前を初めて呼ばれた。そのことに、胸が高鳴る。
「そ、そんな訳にはいきません!僕の不注意ですから……」
魅力的な申し出ではあるが。
「いいんですよ、ラグさん。俺らが出したいだけですから。な、兄貴」
結局、折れたのは、骨でもこいつら兄弟でもなく、僕だった。
「こんな遅くに、すいませんでした……シルア先生」
名前を呼ぶとすこしむず痒い気分になった。
「いいえ、医者ですから。お大事になさってください」
医者、か。なんて悲しい響き。本来、医者なんて言ったらこんな悲しい響きじゃないのだろう。ある人は憧れて、ある人は憎んで、またある人は感謝するような感じだろう。
「はい。では、これで失礼します」
出ていくとき、病院の電話がなった。シルアはその電話にでるなり、レイアと焦ったように呼び掛けていた。それは、最愛であろう妻の名前だった。
少しだけまた、心が軋む音がした。その音は、シルアとレイアが結婚した時から始まった。それ以来耳を塞ぐことも出来ずに、拷問のようにその音を聞き続けている。
医者ですから、それにレイアと言う女性、ああ、なんて望みのない恋。それもそうだ、シルアが結婚した時から、もう終わった恋なんだから。
レイアと言う女性には、嫉妬の念を抱かずにはいられない。が、美しい人だった。シルアが、尻に敷かれるのも仕方ないと思えるほどに。
医院長室の机の上に、緑色の写真立てが置いてあった。そこには、幸せそうな笑顔を浮かべる一組のカップルが写っていた。男の方は、シルア。金髪の美女はおそらくレイアだろう。
二人は本当に幸せそうで、自分の入る隙がないことをハッキリと認識させられた。そう、二人は、僕の愛している人は、今幸せなのだ。もし、その人を本当に愛するなら、その人の幸せを願うべきだと、そう思うのが正しいのだろう。でも、どうしようもなく、壊れてしまえばいいような気がした。
もし、その人のことが好きなら、その人が幸せなら、自分も幸せになれるだろうか。そうであるのが、正しい気はする。でも、自分のそばで、自分によってもたらされた幸せで、幸せになって欲しい。僕を見て欲しい。僕だけを。
もし、その人のことを本当に愛しているなら、その人が、愛した人も愛せるだろうか。僕には出来そうにもない。激しい嫉妬心が、僕の中で渦巻いている。
こんなにも、こんなにもシルアを好きだったなんて。
最初から、告げるつもりのないこの思いは、僕の中で随分大きくなっていた。もう、想像もできないくらいに。
「……ラグさん、着きましたよ? 大丈夫ですか? やっぱり痛みます?」
「え、あ、いや。もう大丈夫だよ。鍵、今開けるね」
気付いたら家に着いていた。慌てて鍵を開ける。
「傷ついた?」
中に入るなり、ヴェルダンディーが聞いてきた。
「え?」
思わず、聞き返し、見上げた顔は、とても、真剣なもので。
「兄貴と兄貴の結婚相手の間に入る隙が無いどころか、眼中にもないことを知って、傷ついた?」
それなのに、この真剣な目からは、悪意すら感じられた。そう、追い詰められた訳でもないのに逃げられなくなったような。
言葉が、胸に突き刺さる。そんな音がした気がする。そこからは、どうしようもなく、痛みと悲しみが溢れて、渦巻いていた嫉妬心さえも凌駕しようとしていた。
けれど、言葉も涙も出ては来ない。
「……」
いつもは心地良いはずの沈黙が、こんなにも重いと感じたのはいつ以来だろう。
「……、知らないよ」
だって、ホントは、この恋心すら嘘か本当か分からないんだから。
愛しい人の幸せを願えない。もし、人を愛することに、その人の幸せを願うことが含まれていたら。 僕の、あの人への思いは何なのだろう。恋でも、ましてや愛でもない。
それでも、僕はあの人が好きなんだ。
だから、傷付いてるかどうかなんて、正直分からない。それに、どうでもいいじゃないか。
「もう、遅い。今日はもう寝よう」
それだけ言って、寝室に入った。
カチャリ
いつものように鍵をかける。
その途端に、なぜか夕日のことを思い出す。
「……あ、……れ?」
さっきまでは、忘れていた。それ以前に、よく考えたら、さっきまで、夕方ヴェルダンディーと会ったときの記憶がなかった。どうして、不審にも思わなかったのか。
買った物はどうしたんだろう。
不意に、あの時感じた不快感がよみがえる。
「……ぅ……」
手がジットリと赤く染まっている。
僕は誰を、殺したんだろうか。考えなければならない気がした。
けれど、いつのまにか、床にうつ伏せになっていた。
それから僕は、寝てしまっていた。