夕飯
え? 教えないと駄目ですか?
いや口には出さないけど、でも言いたくなんて無い。もし、こいつがちゃんと学校で公民を習っているのなら、プライバシーとか、人権とかを尊重してくれるはずなんだけど。だってそれは、義務で権利だからね。
「教えてくれないなら、それはそれで良いですけど」
どうやら、公民は習っていたらしい。良かった。ありがとう、こいつに公民を教えてくれた先生。
「お前は、何であんな所にいたんだ?」
あの時間に手ぶらで買い物ってもの分かるが、こいつが買い物をしそうには見えない。
「えー、ふふっ」
わ、笑った? つくづく恐ろしい男だな。一体何をしてたんだ、あんなところで。
「知りたいですか?」
「いや、いい。むしろ知りたくな……」
言い終わる前に、その答えを口に出そうとする。だから僕は、それに反抗する。
「あなたを追いかけてきたんですよ、ラグさん」
「わーわーわーって……は?」
なんて言った? 見事な反抗のおかげで、うまく聞き取れなかった。
「だから、俺はあなたを追いかけてたの」
ピピピピッ
「ああ、そうなんだ」
丁度、パイが焼き上がったようだ。
僕は逃げるようにしてキッチンへと駆けていった。
なんで、とか、どうして、とかはなんだか恐くて聞けなっかった。
オーブンを開けるといい具合にパイが焼けていた。
さっそくそれを取り出す。それから、さっきパイと一緒に作ったらサラダとスープをそれぞれの食器に盛ってテーブルに運んだ。
「ヴェルダンディー、出来たよ」
「あ、はい」
ヴェルダンディーは立ち上がって料理を見るなり驚いた顔をして言った。
「うわ、スゴイです。ラグさん!」
「普通じゃん?これくらい」
一応、飲食店を経営してるんだけどね。
「でも俺にはできません。だから、すごいです」
「ま、食べなよ」
温かいうちが一番美味しいから。この言葉も、なぜか口には出さなかった。
「はい、いただきます」
美味しそうに食べるヴェルダンディー。こういうところは、まだ少し幼さが残ってるって言うか、唯一、年上だって胸張って言える瞬間だ。
さっきのことを気にするかとも思ったけど、そうでもなさそうだ。僕はその事にほっとした。
「あ、ラグさんは食べないんですか?」
「いや、僕は……。僕は後でいいよ。先にシャワー浴びてくるから」
誰かとご飯を食べた記憶がただの一度も無いから、慣れてないから、なんて言えるはずもなく、そそくさとシャワーを浴びに行った。もしかしたらあったのかも知れないが、もう思い出せないから、無いのと同じだ。
実は、シャワールームも誰かが使った後は使たいくなかったりする。まあ、絶対って訳じゃなくて、できれば位だけど。
湯温を少し高めにして、コックを捻った。
そのまま水が温まるまで待ってから、シャワーを浴びる。
体に当たるお湯が心地いい。
なんだか今日は、珍しく人とたくさん話して疲れた。普段からあまり人と話す機会がない訳ではない。何と言っても、バーのマスターをやっているのだから、人と話す機会は、人一倍多いように思われる。けれど、僕の店に来るのは殆どが紳士的な年配の人で、誰かと話すと言うよりはのんびり時間を過ごしていく人が多い。
だから、名前なんてよっぽどじゃないと聞かない。
でも、お客の顔は大体把握しているつもりだ。常連さんが多いからだが。
「そろそろ……」
上がろう。髪も体も洗ったし。
服を着て髪を拭きながらリビングに向かう。
「?」
途中で、カチャリ、と言う音を耳にする。
まさか、そう思って足を急がせた。
「ん? あ、ラグさん。上がったんですか」
「ああ」
もしかしたら、勝手にキッチンを使われているかも、と思ったが、まだ未遂だった。
危ない。もし使われていたら、明日、どうにもキッチンを徹底的に掃除しないとすまないような気分に苛まれていただろう。
「食器、シンクに置いときましたから。洗っちゃおうと思ったんですが、何かラグさん、意外に潔癖症で俺帰ってから、俺遣った物、全部洗われそうな気がしたんで、止めときました」
あれ、バレてる。
ヴェルダンディーはニヒルに笑った。
「あ、そう。後シャワー、シャンプーとかも好きにしていいから、好きな時に入って」
「その辺は大丈夫ですよ、一式持ってきましたから」
訳分からん。でも、衝動的に起こした家出はなさそうだ。
と言うか、一式って、あの大荷物はそれだったのか。とんでもない計画性だな。
「ああ、そうか」
なんにせよ、自分の物をよく知りもしない相手に貸すよりはいい。はるかに、いい。
だって、今まで、明日はバスルームを大掃除して、シャンプーなんかの類いを全部買い換える覚悟だったんだ。
これで、大掃除は変わらないにしても、シャンプーなんかを全部買い換えることは避けられそうだ。