名前
しかも、荷物もないのに。あ、でも、弟君はやけに大荷物。
「ここでいい。世話になったね」
それだけ言って、立ち去ろうとした。が、
「あ、そうだ、俺今日、兄貴とケンカして家に帰れないんですよ~。困ったなあ」
ワザトらしくそう言われる。
「へぇ? だから、なにかな?」
しまった、足が止まってしまった。
「泊めて頂けませんかね?」
突拍子もない話しに呆れることしかできないが、返答に困る。
もしかしたら、はじめからそのつもりで声をかけてきたのかもしれない、なんて疑ってしまう。
「え、あ……いや、その……」
出来ることなら、ぜひお断りしたい申し出だ。
「いいですよね?」
向けられた笑みはなんとも恐ろしいもので、
「あ、ああ」
気付いたら頷いていた。どうか、こんな僕をヘタレのチキンだと思わないで欲しい。
さっきの凍り付くような、冷たい、有無を言わせない笑みを向けられたら誰だってYesと言ってしまう。ただ、それが年下だと自覚したときは少なからず落胆の色を隠せないのはたしかだが。
「あ、そうだ。マスターさん。名前、教えて欲しいな」
「いや」
腹いせに即答してやった。
「ヒドッ」
弟君は、あからさまに傷ついた顔をして、それからいやらしく笑って、僕の耳元で囁いた。
「……ねぇ……」
――兄貴の名前、知らないんでしょ?知りたくない?
「え? 」
一瞬、なにを言われているのか分からなかった。
「……あ。なっ! 」
しばらくして、その言葉の意味を理解する。それはつまり、僕の恋心はバレてるってことで。顔が赤くなるのが自分でも分かった。
苦し紛れに、弟君を睨み上げた。
「ね?」
違和感バリバリな笑みを浮かべている。僕の反応を肯定と取ったのだろう。なら、笑みの違和感も理解できる。男同士なんて、あまりいいイメージは無いに決まっている。
「……。ラグナ、だ 」
「うそ」
「は?」
まさかの否定に間抜けな声が出た。
「だから、違うんでしょ?俺は、あなたの本名が知りたいの」
確かに、本名ではないが、なぜ分かったのだろう。恐ろしい男だ。
しかし、人生諦めもカンジン。
「ラグナード、ラグナード・A・メリッサ。これで文句はないだろう? 」
「ラグナード…ふうん?じゃ、ラグさんで」
「はあ? 」
何なんだその、ラグってのは。
「あだ名ですよ。長いでしょう? あ、ちなみに俺の名前は、ヴェルダンディー・コーディアル。
ま、好きに呼んでください。で、兄貴は、シルア・クジョウ 」
シルア、か。はじめて知った。あいつの名前。
「兄弟なのに名前が違うんだな」
「ええ、まあ、諸事情によりって感じです。あでも、血は繋がってるんですよ。
ほら、髪の色も同じでしょう? 」
「ああ、そうだね」
これが、あいつ、シルアと同じ色の髪。綺麗だ。そう思うとなんだかとても触れたくなって、気付いたらてを伸ばしていた。
触れると、手には柔らかい感触が伝わってくる。
あいつの髪もこんな感じなんだろうか。
そう考えて、またヴェルダンディーが違和感のある笑みを浮かべていることに気付く。
とっさに手を引いた。また何か裏があったら困るからだ。
「あ、わるい。つい……」
目を合わせたくなくて俯いた。
「気にしないで下さい」
「あ、うん。そ、そうだ、家に泊まるんでしょ?こっちだよ」
この状況を何とかするために話題を変えた。
振り向きもせずに、店の裏側に回る。
そこには二階建てのアパートがある。僕は、そこの一階の一番右端の部屋に住んでいる。それから、このアパートの大家と言うものをしていたりもする。
鍵を開けて、なかに入る。
「あ、あがって。狭いかも知れないけど、我慢してよね」
そう言うと、ヴェルダンディーは律儀にお邪魔します、と言って入ってきた。
「お夕飯、作るよ。何がいい? 」
気付かなかったが、日はもう沈んでいて、辺りはずいぶん暗くなっていた。
「そうですね、ミートパイとか食べたい気分です。あ、それ、兄貴も好きなんですよ」
「あ、そう。分かった。適当にテレビでも見てて。」
なんて図々しいやつだろう、そう思ったが、兄貴も好きなんですよ、その言葉に一瞬ドキリとして、まあいいか、と許してしまった。パイ生地は作り置きの冷凍したやつがあるし、肉もまだ少し残ってたはずだ。冷蔵庫を開ける。中には、レタス、トマト、ナス、チーズ、肉、マッシュルーム、その他諸々。
何とかなるだろう。
「えーっと、後は?」
パイ生地、が冷凍庫にあれば大丈夫。
冷凍庫を開けると案の定、冷凍されているパイ生地があった。僕はさっそく作業に取りかかった。途中、ヴェルダンディーが手伝いを申し出たが、他人に自分の台所を使わせたり、台所を共有することがとても嫌なのでお断りした。そして、若干二人分の量に手間取りながら、あとはオーブンで焼き上がるのを待つだけになった。
後約30分。長いような短いような。
僕は何となく、リビングでテレビを見ているヴェルダンディーの隣に座った。
「ねぇ、ラグさん。ラグさんはどうして兄貴が好きなの?」
いきなりの質問に息がつまる。振り返って、見たヴェルダンディーの顔はもうテレビを見てはいなかった。
ただ、いつになく真剣で、それでいてどこか責め立てるような目で僕を見つめている。
「さあ? 話す義理なんてないだろ」
何とか言ってやった少し苦しめな返答は、ひどく情けない声になってしなった。でも、本当に誰かにこの気持ちを話すことなんてしたくなかった。もちろん、シルア本人にも話すつもりはなかった。話してしまったら、何かが壊れていきそうな気がした。
なぜだろう、今のヴェルダンディーの目はとても嫌な目だ。少なくとも僕はそう感じる。
「そっか、やっぱり好きなんだ、兄貴のこと」
「え?」
カマかけられただけなの。確証があった訳じゃないの?
今もカマかけてるの?だって、さっきみたいな違和感のある笑みを浮かべているから。
「で、何で好きになったのか、教えてくれないんですか?」
ヴェルダンディーはもう、さっきの嫌な目はしていなかった。