How old are you?
未だかつて、俺の短い人生の中で一人暮らしなんて大層なことはしたことがなかった。だから、この沈黙も知らない。居住空間に、たった一人。
あたりは、いつになく静まっている気がした。時計の音がやけに大きい。
俺は耳を澄ませた。
だんだんと、隣の部屋から笑い声が聞こえてきた。上の階から、微かに足音も聞こえてくる。
そして、ここはアパートだということを思い出す。それから、ラグさんが大家だったことも。いままで、何故か意識の外に追い出されていた。
そうして、ラグさんのことを思い出していると、心の中にもやもやとしたものが生まれてきた。それは結局、次の日になっても取れないままだった。
「……ちょっと、あんたあたしの話聞いてるの? ぼーっとしちゃって!」
その怒りの声に、俺は現実に引き戻された。
「えっと、うん。アンの彼氏が二股してて、それがばれた時に……なんて言ったんだっけ?」
「違うわよ。その話はもう終わったの! 今は来週の研修の話をしてるんでしょう?」
エミリアは少し怒鳴り気味にそう言って、盛大にため息をついた。ちなみに今日は、眺めの巻き毛をポニーテールにしている。
「ああ、そうだった」
研修というのは、この大学の方針で創造性を養うために云々で、二週間だけ研究所に送られる。ちなみに、なんの巡り合わせか俺は、エミリアと同じ班になってしまったのだ。理由はとても単純。ただ単に、俺の両親が住んでいるところと、エミリアの両親が住んでいるところが同じだというだけ。それでなぜ同じ班になったのかというと、研修に行っている間にわざわざホテルに泊まるのもばからしいので、受け入れ先と研修期間中止めてくれる所が近いと、否応なくそこに回されるのだ。
久し振りに両親に顔を合わせるのも悪くないと思って、個人的には思っている。
「まったく! 大体なんで研修先が同じだからって一緒にレポートを出さなきゃならないの? って言うか、なんであたしと同じテーマを選んだのよ?」
理由は定かではないが、エミリア嬢はご乱心だ。
ちなみに俺が選んだのは、“バイオマスを変換する触媒を作る”というもの。
「最近注目されてるし、レポートも書きやすそうだし?」
そう言うと、エミリアはさらに僕を睨めつけてきた。
「そんなことだろうと思ったわよ! 大体ね、あそこの研究所の受け入れ人数は三人。同じテーマの中じゃ、トップクラスの研究所よ。もちろん、そこの研究所に行きたい生徒だってたくさんいたわよ。なのに、なんであんたなのっ?」
「研究所と実家が近いから?」
なんだろう、殺気を感じた。それもエミリアからだけではない、あちこちからだ。
「あんたね、そのうち殺されるわよ」
「え? なんで?」
そう言うとエミリアは、ダン、と講義室のテーブルを平手で叩き、こう言った。
「それもあるかも知れないわね。でも、重視されるのは成績よ、成績! なんで遅刻常習犯のあんたが、トップクラスの研究所に行けるのよ!」
なるほど、不真面目な俺が、それなりにいい所に行けるのが悔しいのか。でも、どうやら俺がさっきあげた理由は正しくないらしい。
「まあ、俺、レポートの判定はAからほとんど落としたことないしね。定期テストは、それなりだったし」
俺だって、遅刻常習犯なだけに、成績を危ぶんでかなり頑張って勉強したんだ。レポートも、資料や知恵を兄貴に借りたし。まあ、兄貴に手伝ってもらったレポートが、悪い評価を貰うはずなんてなかった。
だが、それでもエミリア嬢は俺を睨んでいる。
「何それ、嫌み? 嫌みなの?」
忘れていた。エミリアは、この大学に主席で入学した秀才なのだ。たしか、成績もずっとトップを維持し続けているはず。
「まさか。エミリアには到底敵わないよ。それに、トップの成績の人たちはほとんど、違うテーマに散り散りになってるじゃないか。僕は、きっとたまたまだ。せっかく同じ班になったんだから、よろしくね、エミリア」
そう言うと、今度は深いため息をついて、仕方ないやつ、と呟かれてしまった。俺は、この手の女の子は少し苦手なのかもしれなかった。
「とりあえず、研修の時には遅刻しないでよね」
「うん、分かってるよ」
話も一段落したようなので、立ち上がろうとした。
「あ、そうそう。恋の悩みなら、聞いてあげてもいいわよ」
その一言に、俺の動きが完全に止まる。ぎこちない動きで、先程とは一変し、楽しそうな表情のエミリアを凝視してしまう。
「何かあったでしょ? 分かるのよ、女にはね」
訂正しよう、俺はこの人が苦手だ。とにもかくにも、この状況から逃げたい俺には、なりふりは構っていられない。
「そんなことないよ。うん。じゃあ、俺はお昼ご飯を食べに行くから」
そう言うと、エミリアは勝ち誇ったような顔になって、何かを自分の鞄から取り出した。それは、俺が見慣れた物で。
「じゃあ、これはいらないのかしら?」
なぜこの人が持っているのか、全く理解できなかった。
「いえいえ、いります。いります。欲しいです」
それは、俺のお弁当袋だった。
慌てて手を伸ばしたけど、あっさりとかわされてしまう。
「あらそう? 今日は食堂のハンバーガーが食べたい気分なんだけど……」
「お、お、おごります。おごらせて下さい」
「じゃあ、私の聞きたいことにも、答えてくれるわね」
この時のエミリアの顔は、得意げ、なんて言葉がぴったりだろう。俺は渋々、食堂に連れて行かれた。
しかも、弁当持ちで。食堂のおばさん達に喧嘩を売っているようなものだ。視線が痛い。あげくに、エミリアに昼食をおごらされて、財布も悲鳴を上げている。
「ちなみにエミリア、どうしてこれを?」
俺は、作って貰ったお弁当を遠慮なく口に運びながら聞いてみた。
「うふふ。それはね、会ったからよ、そのお弁当を作った人に」
「ラグさんに?」
俺は驚きで身を乗り出した。
「ええ、なかなかいい男だったわね。少し小さくて、頼りないのが玉に瑕だけど」
エミリアはとても楽しそうだった。心なしか、潤っているような気もする。なにが、とは言わないが。ただ、ラグさんが狙われている、という危機感が俺を襲った。
エミリアは続ける。
「この間、会った時よりも痩せてたわね」
「えっ? ラグさんのこと、知ってるんですか?」
エミリアはにっこり笑って頷いた。
「知ってるわよ。でもさすがに、あの子の叔父さんから連絡が来ると少し驚くわね」
「なんて連絡が?」
「そんなに必死になっちゃって。……ええとね、何年前だったかしら。そうね、三四年前くらい?」
もしかすると、もしかするが、この人は俺より年上なんだろうか。
「えっと、エミリアって何歳?」
俺がそう言った途端、エミリアは眉間に皺を寄せた。何がまずかったのだろうか。
「あのね、ヴェルド? いい? 良く聞くのよ。女に年やら体重やらを聞いちゃいけないの。分かったかしら」
エミリアの後ろに見えるのは、サタンでしょうか。女の人って、たまにものすごく恐い。レイ姉にしてもそうだ。
有無を言わせないその声に、俺は何度も頷いた。
「分かればいいのよ、分かれば。ええとたしか、その時ね。解離性同一性障害なんだって聞いたの。まあ、その節はあったからね、妙に納得したわ」
「納得?」
「ええ。まあ、あの子も知られたくないでしょうから、あまり言わないけどね。そうね、でもいいわ。少しだけ教えてあげる。あの子の中の人格の一人と私は同族なのよ」
エミリアは、遠い目をしている。まるで昔を思い出しているようだった。
ええとですね、外国では初対面で性別を聞くとたいがい、怒られるそうです。それって日本でも変わらない気がしますが。いや、そう、特にアメリカなんかは、自由の国なので、人の年齢(男の人でも)、収入などなど、プライベートなことは聞かないのが普通……らしいです。行ったことがないので分かりませんが。
ところで、解離性同一性障害の有病率ってどのくらいか分かりますか?
実は、はっきりしていないんです。軽い症状のものを含めれば、人口の1パーセントだとか、それよりも多いだとか、学者さんによってそれぞれです。
また、性差もあるのかないのか、と言ったところです。
ただ、近年では、性差はなくなっているようですが、昔は女性が男性の五倍以上とされていた時期もありました。しかし、その差については、男性の場合、罪を犯して刑務所に入れられることが多く診断されないまま、と言うとこがあって、男性の方が発見されにくいために少ないんじゃないか、と言う説もあります。