寂しい
俺は、今、
「……寂しい?」
言ってみて納得する。確かに寂しいかもしれない。
「お前、ガキじゃあないんだから」
「うお!」
急に後ろから声が聞こえて来て、驚く。振り返ると、そこには兄貴の姿が。
「そんなに驚くなよ。俺も驚いたじゃないか」
兄貴はおどけたように、そう言った。両手は、白衣のポケットに入れられている。
「何しに来たんだよ」
俺は、恥ずかしいのと驚いたのを隠すために、少し声のトーンを低くしてそう言った。
「カーテン、閉めに来た。あと、様子見だよ」
兄貴は、苦虫を噛みつぶしたような笑みを浮かべている。白衣のポケットから手を出して、ボリボリと頭をかく姿が、余計に歪な笑みを強調していた。そのことに、兄貴も焦って動揺しているのが何となく分かった。普段の兄貴なら、病院の中でそんなことはしない。いつも緊張感に満ちていて、冷静さを失わない。
「そう。なあ兄貴、ラグさん、ラグさんな、解離性同一性障害ってのなんだって。でも、俺、ラグさんのこと好きだから、大好きだから、逃げたりしないって決めたんだ」
昔からそうだった。俺たち二人は、何か心に決めたことがあったら、お互いにこうやって言い合ってた。それは、たまに重苦しくのし掛かることもあったけど、でもそれに助けられたことの方が多い。兄貴が医者になるって決めた時も、俺に話してくれた。両親よりも、その時の担任よりも先に。何だかんだ言っていても、俺たちは結局兄弟で、きっと誰よりも信頼しあえていると思う。少し、大げさかもしれないけど。
「そうか、分かった」
それから、お互いに無駄に手助けしないのも、暗黙の了解だった。きっと、医者としてはサポートしても、よほどのことがない限り兄貴としては何も言わないだろう。
兄貴は、閉められたカーテンの向こう、そこにあるはずの夜空が見えているかのように、カーテンを見つめている。それは決して、遠い目なんかじゃない。
「なんか、お前、無駄にデカくなりやがった。ちょっとむかつくかも」
兄貴はこちらを向いて、おどけたように笑っている。
「なんだよそれ。俺、まだまだ成長期だし!」
嘘ではない。実際、未だに成長が止まっていない。さすがに、一年で二センチ伸びるか伸びないかくらいだが、確実に伸びている。
「だよな、どんどん着れない服が増えていく。……って、何か違うぞ。まあ、いいか。じゃあ、俺はそろそろ行くわ。それと、そろそろ帰ったほうが良いんじゃないか?」
「あ、うん」
兄貴は、それだけ言うと出て行ってしまった。
でも、ラグさんが目を覚ましていないのに、帰るのは少し、いやかなり心配だ。だから帰る気なんてない。まあ、追い出されてしまえばそれまでな気もするが。
ラグさんの手を握る手の力を、少し強めた。冷たい手だ。水場の管理もしているからか、手は少し荒れているし、ヴァンさんが昔は活発な少年だったと言うだけあって、それなりに男らしい手をしている。
どれくらいの時間、待っていたのか、ラグさんが寝ている時間が延々と続くような気がしてきた。それでも、握った手はなさない。この手が冷たいままなのが、たまらなく嫌だった。
握った手を、少し動かしてみる。反応はない。本当に起きないんじゃないかなんて、考えちゃいけないようなことまで考えてしまう。
早く起きて欲しい。早く、俺の名前を読んで欲しい。その目に、俺の姿を映して欲しい。
「ラグさん」
呼んだ名前には反応がないけど、それでもかまわない。
「ラグさん」
きっと、これは自己満足にすぎない。早く起きて欲しい。ラグさんの手に縋り付くように、前に屈んだ。その手から少しだけ香る洗剤の匂いが、俺を妙に安心させてくれる。
僕はまたしても、いつの間にか眠ってしまっていた。
「……ねえ、ちょっと起きて」
誰かに揺すられて目を覚ます。薄目を開けると、辺りはまだ暗かった。
「ちょっと、ヴェル、重いってば」
「え?」
俺は、声のした方を見た。まじまじと。
「え? って、僕が聞きたいんだけど。ここってどこなの? なんか頭痛いし」
暗くて表情は見えないけど、この声は確かに一番初めのラグさんの声だった。
「あ、よかった。起きないかと思って、俺、心配しました……」
俺は、衝動的にラグさんの腰当たりに思いっきり抱きついた。
「うわっ! ちょっと、何なの?」
抱きつくと、さっきまでの不安が消えて、凄く落ち着けた。
「いや、ここにいるなあ、と思って。ところで、他に痛いところはありますか?」
「ないかな、頭痛が凄いけど。で、ここってどこなの?」
そう言いながら、頭に手をやるような仕草をするラグさん。それを見て、俺はハッとする。
「俺、先生呼んできますね。ここ、病院なんですよ。それじゃ、待って下さい」
俺は、少し急ぎ足で病室を後にした。それから、この階のナースステーションに向かい、ラグさんが目覚めたことを伝えた。その時に見えた時刻は、八時過ぎ。寝始めた時間が分からないが、ぐっすり寝た気がする。
先生はすぐに来てくれて、ラグさんはすぐに退院出来ると言う事だった。でも、今日はもう遅いから、退院は明日になってしまう、とのこと。そのことに少し不満を抱えながらも、何とか納得した。
「トールステンさん、何かあったらこれで誰か呼んでくださいね」
その、眼鏡の医者はにこやかに笑いながら、兄貴と同じ説明をラグさんにして、足早に出て行った。ラグさんは、その間中医者の首に掛かっている聴診器が気になるらしく、ちらちらとそれを見ていた。
その医者がしたこと言えば、その説明と電気をつけたことくらいで、ほとんど何もしていかなかった。
電気が付いて、見えたラグさんは前よりは幾分か顔色が良くなっていた。そのことに少しだけ安心する。
「ところで、ヴェルはさ、帰らなくて良いの? 明日、講義あるんでしょ」
それまでの興味の対象がいなくなったため、ラグさんの視線は俺の方に向けたれた。たしか鍵あげたよね、と続けるラグさんは本当に罪だと思う。だって、上目遣いで見上げられて小首を傾げられたら、こちらとしてはたまらない。俺も一応、健康男子だから。
「そうですね、ありますよ」
俺は、あるワガママを思いついた。
「じゃあ、早く帰って寝なよ? お弁当は作れなさそうだけどちゃんと……」
俺はラグさんの言葉を遮った。
「えー、ラグさんのお弁当食べれないなら、大学行きません」
そう言うと、ラグさんは少し驚いた顔をしてから、深くため息をついた。
だって、退院しても一日くらいは一緒にいたい。
「仕方の無い子だね、君は。ヴェルが言ってるのって、たしか駅の向こうの大学だろ?」
少し、いやかなり子供扱いされている気がするが、そんなことまで覚えていてくれたのが嬉しい。
「はい、そうですよ」
「じゃあ、お弁当、届けてあげるから、ちゃんと学校行きなさい」
俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。でも、その意味を理解して、話が違う方向に進んでいるのが分かった。
前話の後書きに引き続き、症状の説明をさせて頂きたいと思います。
今回は幻聴についてです。これも、そこそこ知られていそうな症状ですね。
正確には、幻聴や(自分の)内部の声が聞こえる、と言うことです。なんでも、人格交代の反響で、患者さんの頭の中で生じていると知覚され、思考に近いと表現されることもあるそうです。
また、自分の行動にコメントがつく、と言うこともあるそうです。例えば、顔を洗っていたら「顔を洗っている」と言うような感じだそうです。
今更ですが、私は複数の資料を基に症状についてどうのこうのと書かせて頂いていますが、万が一誤りがありましたら、教えて頂けるとありがたいです。