早く、早く
多重人格、解離性同一性障害、そう言った言葉は所詮スクリーンの向こう側のことでしかないと、そう思っていた。まさか、現実にそんなことがあるとは、と。人格の交代と言われてもぴんとこない。
正直、母親に嫌われたことのない俺には、そうそう理解できないのかも知れない。もちろん、両親とはよく喧嘩していた。それは、次の日にはもう忘れているようなものから、家出してしまったようなものまである。でも、どんなに、もう二度と帰ってくるな、と言われても、帰ってこないと心配されたし、本当に帰らなかったことなんてなかった。
俺は、家族の愛っていう、ありふれたものに囲まれていて、身近に感じていたのに今更それに気付かされている。そう、俺は一瞬でも、この人に比べたら俺の人生はまだ……、なんて思ってしまった俺自信が許せなかった。ラグさんを可哀想だと思ってしまう自分も、これからどうしたらいいのか分からない自分も、どうしても許せない。
俺は、先程とは少しだけ質の異なった静寂の中に、自信が溶け出していくのを感じていた。
「ヴェルダンディー、君はあの子の側にいてくれるかい?」
ヴァンさんが、それにそう尋ねてくる。
「……俺に何が出来ますか」
正直、こんな自分がラグさんの側にいて良いとは思えなかった。
「君は気付いていないかも知れないけど、あの子はすごく警戒心が強くてね、特別な人以外は、絶対に胸の内を明かしたりしないんだ。ましてや、家にあげるなんてことは滅多にしないんだよ」
「それは、ヴァンさんも同じじゃないですか」
どんどん、自信がなくなっていくのを感じる。
「俺は……、俺はあの子を裏切ってしまった。もう、あの子は俺のことを信用しないだろうなあ。だから、君だけなんだよ、あの子にとって信用できるのは。この世界にたった一人だけ」
ヴァンさんの顔が、夕日に照らされて、表情がよく分からない。
「あの子にとって、人なんてのは嘘と気まぐれの塊にしか見えないのかも知れない。でも、君が言っていた、人称が、俺、の男の子の人格は、あの子の一番初めの人格なんだと思う。その人格……彼は、大体十歳くらい。自分をラグナードだと名乗っていた時から、少しも変わっていないなら、だけどな。彼は、自分が安心できるって、そう判断した時にしか出てこないんだよ。彼が一番最初に、傷ついて、治らないくらい傷ついてしまった、ラグナードなんだ」
心が、心が治らないくらい傷つくって、どれくらい痛いんだろうか。治らないって、壊れてしまうってことだろうか。
「きっと、きっとすごく痛いんじゃないかと、思います。でも俺、想像するだけで何も出来ないし……」
もし、一緒にいたとして、俺はラグさんの重荷になりはしないだろうか。側にいても、俺にはどうすることも出来ないし、むしろ距離を置いた方が良いとさえ思ってしまう。
「それで良いんだよ。きっと、あの子は全てを理解されることを望まないだろう。それに、今、あの子の世界には、君一人しかいないんだ。きっとあの子は賭をしているよ。今度、今度誰かを信じてそれでダメだったら、きっと自分はここにはもう必要ないって……」
ヴァンさんはそこまで言うと、少し言葉を濁した。どうしたのだろう。
俺は、少し後ろを振り返った。閉められていたはずのドアの隙間から、兄貴が通り過ぎていくのが見える。俺は少し考えた。前よりも幾分か、頭の中がすっきりしている気がする。
「それは、誰から?」
そう言えば、この人が家の前で焦っていたのも不思議だ。この人は、全てを語らない、と言っていたが、これは知っておきたい。それに、俺はどうせもう後戻りなんて出来ないし、する気もない。思い出したんだ、とっても大切なこと。
―お前、ラグナードのこと、愛してるか?
その兄貴の質問に、俺は、
――愛してる。愛してるに決まってんだろ……。
そう、答えたんだから。あの時から、どんな覚悟も決めていたし、何もかも受け止めるつもりでいたんだ。
「そうだな、昔、ラグナードが一番信用していた人かな。ある人格は、今でも……一番に慕っている」
ヴァンさんは、そう言いにくそうに答えた。それで、何となく分かった。きっと、ラグさんは、兄貴が初恋ってわけじゃないんだろう。きっと、その人は、ラグさんのなかの誰かが今でも、恋い慕う人なんじゃないかと思う。
「そうですか。俺、ラグさんの側にいて、出来ることを探してみようと思います」
ヴァンさんは、俺の意志の変わりように驚いたようだった。
「そう、か。良かった。もし、君まであの子の下を離れてしまうようなことがあったらどうしようかと、思った」
「そんなこと、しませんよ。絶対に。俺、ラグさんのこと大好きですから」
自信なんてものはいらないのかも知れないと思う。ただ、ラグさんのことを好きだと言う、事実がそこにあればいい。
なんだ、結構簡単なんじゃないか。
俺は、確実に何かが吹っ切れた。それは、劣等感に煽られた俺だったのかもしれないし、不安でたまらない子供みたいな俺だったのかもしれないけど、もう俺には関係無い。後戻りをしないのだから、後ろを今振り返る必要はない。
握ったラグさんの手は冷たくて、日も、もうすぐ沈んでしまうけど、俺はこの人を幸せにしたい、そう思った。
「さて、じゃあ、俺は行くとしますかね。頑張ってくれ、少年」
ヴァンさんは急に立ち上がり、それだけ言うと病室から出て行ってしまった。まさに、有無を言わさず、なんて言葉が似合いそうな感じで。
そう言えば、ラグさんはすぐに退院出来るのだろうか。もし出来ないのなら、着替えやら何やらを持ってこなくてはならないのだろうか。誰か、親しい人が入院なんてしたことがないから、まったくその辺の知識がなかった。どうすれば良いんだろう。
「……ラグさん、早く起きてくれないと……」
あれ、俺は今なんて言おうとしたんだろう。着替えとか、持ってこなくちゃってことを考えてたのに、ラグさんが起きてくれないと、どうなるって言うんだ。どうなる、今、どうなっているだろうか。
解離性同一性障害について、後書きのスペースをいただいて少しずつ私なりに説明していこうかと思います。説明、なんてたいそうな物になるかは分かりませんが。
今回は、症状の一つ、同一性変容、についてです。
患者さんの言動が別人のようになったり、その人が知らないはずの外国語が話せたり、自分に対して三人称を使う、といった症状です。
この症状は、躁うつ病や境界人性格障害などでもこのような行動の変化は見られるんだとか。
その他にもあるのですが、今回はこのくらいで失礼します。