ヴァン
とても良い夢を見た気がした。ラグさんの温もりを感じていると思った。
でも、俺は、ラグさんのうなされている声で目を覚ました。
「違う……俺は、……」
俺、そう確かに口にしていた。ラグさんは普段から自分のことを、僕と呼んでいたはずなのに。それに冬も近いというのに、汗がすごい。
「ラグさん? 大丈夫ですかっ?!」
俺は、慌ててラグさんを起こしにかかった。ラグさんの肩を揺する。
「兄ちゃん、俺……ただ」
ラグさんは目を覚まさない。
「ラグさん! 兄ちゃんって何ですか! 起きて、ラグさん!」
俺はさらに、強く肩を揺すった。
「え?」
やっと、ラグさんの目が薄く開いた。
「……兄ちゃん?」
「え?」
今度は俺が、え? なんて言う番だったらしい。
「兄ちゃんでしょ? あれ? でも、ここってどこなんだ?」
その一言に、俺は一番恐れていたことが起きていたと、そう悟った。
「……ええと、今日はもう遅いから、寝ようか?」
まさか、二回目でなれたとは言わない。でも、他に言葉が見つからなかった。
口調も、認証も違うこの人に、動揺せずにはいられない。
「そうだな、一緒に寝るの久し振りだしな、兄ちゃん。おやすみ!」
俺は一体誰に間違われているんだろうか。『お父さん』さんに続き、『お兄ちゃん』さんまで登場してきて居ることには、驚き、の一言に尽きる。
「うん、おやすみ」
そう言うと、ラグさんは布団に潜り込んで、俺にすり寄ってきた。しかも、この人は、寝付きが良いらしく、もうすでに、スースーとリズムの良い音が聞こえてきている。
それを見ていて、俺は馬鹿みたいに静かな気持ちになって、布団に入った。
次の日の朝、俺はラグさんにたたき起こされた。
「兄ちゃん、ヴェルって言うんだな! メシ作ったから、さっさと大学行けよな」
そう、文字通りたたき起こされた。布団を突然はがれて、がくがくと揺すられる。
「え? ああ、おはようございます、ラグさん」
俺は、かなり混乱しながらも上半身を起こした。ラグさんは機嫌が悪いのか、眉間に皺が寄っている。
ラグさんは、昨日の夜のことを覚えているのかいないのか、俺をヴェルと呼んだ気がする。
「ラグさんじゃねえ。ラグナって呼んで」
なんだか、いつもより少し態度か大きめだ、なんて言ったら怒られそうだが。
「はあ」
俺は、覚醒してくる意識の中で気のない返事を返した。そう言えば、声も少し違うような気がする。そう、さっきからそんな気がするだけ。
「お前、ヴェル! ヴェルの大学は九時半からなんだろ? もう九時だぜ?」
「ええっ!」
俺は、一気に目を覚まし、付けていた腕時計を見た。確かにもうすぐ九時になろうとしている。
「や、やばい!」
俺は慌てて着替え始める。
「弁当作ってやったからな、持ってけ」
着替えて、リビングに行った時に丁度ラグさんが……ラグナが俺にお弁当を渡してくれた。
「ありがとう、行ってきます」
我ながら、慌ただしい朝だと思う。寝坊して、ラグさんがまた違う人になって、でも、お弁当を作ってくれていることにすごく舞い上がりそうになって。
あげく、好きな人に何か起こっている時に学校へ行くというのもどうかと思う。でも実は俺とラグさんの間で、ちゃんと大学には行くこと、と言う約束が交わされていたりする。だから俺は、今日もこうして大学に走っているわけだが、正直とても心配だ。帰ったら居ないかも知れないし、また違う人になっているかも知れない。
でも、ありがたいことに今日はいつもより早く帰れそうな日程だった。
「あ、ヴェルド! おはよう。最近真面目に来てるじゃない?」
講義室に入った途端、俺に話しかけてきたのは、エミリア・カールソン。とても可愛らしいくて礼儀の正しい人だ。
「うん、ちょっと約束したからね」
「あら? 恋、かしらね。ついに本命が出来たの? この間なんか、こそこそしちゃって寂しかったわ」
この人は、無駄に勘が鋭かったりする。エミリアのブロンドの巻き毛が眩しい。何だろう、若返ってる気がする。しかも、俺がラグさんを発見した時に近くを通ったのもこの女性で、ばれているようだ。
「あー、ばれてたんだ。何か、ルートガー教授と仲よさそうに歩いてたからさ」
「あら、気付いてくれてたのね。なに? そうしたら無視してたのね、あたしのこと」
女の人ってどうしてこう、面倒なんだろうか。前の彼女もそうだった。でも、面倒なだけなら良い。対処に困るのは非情によろしくない。
「その辺で勘弁して下さいよ」
そう俺が言うと、ふふふ、と上品に笑って悪魔みたいなことを言う。
「また今度、聞かせて貰うわね」
誰か助けて下さい。
俺は話を強制終了させ、いかにも真面目そうなふりをして席に座った。後、十分ほどで
本当のことを言おう、俺はあまり真面目な方じゃない。大学も適当にやって、気分で休んだりする。だから教授には目を付けられているはずだし、成績もよくない。不良の十歩手前くらいだったりする。だから、もちろん勉強は嫌いだし、講義もかったるい。
俺は、そんな講義もそこそこに、午後二時には大学を出た。ラグさんの家の前に着いたのは午後三時十五分前。
「おい、エミリー。ちょっと来い」
俺をいじり倒した鬼畜な女性は、ものぐさそうな教授に呼ばれた。無精ひげが生えてるし、髪もぼさぼさで、着ている白衣も皺だらけだ。この人が、ルートガー教授だったりする。しかも、これから始まる講義を担当するはずの教授だ。こんな時間に何をするんだろう。
エミリアは、この時間にあり得ない、とでも言いたそうな顔をして、早足でそちらに向かった。結局、この講義をエミリアが受けることはなかった。教授はやけに楽しそうに、協議の時間が半分ほど過ぎてから戻ってきて、ぐだぐだな講義を始めたのだが。一体何があったのだろう。
俺はその後も、半ば夢の世界への入口を探しながら講義を受けて、最後の講義が終わると早々に大学を出て、ラグさんの家まで急いだ。ラグさんの家はもう目の前。
俺は、少し近付いたところで足を止めた。ドアの前に人がいたのだ。それはラグさんが『お父さん』と呼んでいた人で、なにやら焦っているようだった。どうしようか、と迷っている間に、その『お父さん』さんがこちらの存在に気が付いたようで、近づいてくる。
「やあ、君は確かアリーのお友達の……」
「どうも、こんにちは、ヴェルダンディーです。また会いましたね。どうかされたんですか?」
そう聞くと『お父さん』さんは、俯いてしばらく考えるそぶりをしたあと、少し真剣な顔になって、話し始めた。
「最近のアリーの様子はどうだった? 何かおかしいことがあったかい?」
俺は、話さなくちゃ行けない気がして、昨日のことから今朝のことまで全て話した。その間に、『お父さん』さん……ヴァン・トールステンさんの顔がどんどん険しいものになっていくのが分かった。
「……そうか、最近は大分落ち着いていたんだけどな」
「どういうことです?」
俺は、あの人のことをもっと知りたい。
ただ、それだけだ。
「……それについては、後ほど話そう。今は、家の中に入ることが先決だ。ヴェルダンディー、鍵を持っているか?」
ヴァンさんは、すごく焦っているようだった。俺もつられて焦りだす。ラグさんの何かあったと、そう悟って。
俺は、幸いなことに合い鍵を貰っているので、それでドアの鍵を開けた。
「ありがとう」
そう言って、ヴァンさんは早々に家の中へ入っていった。俺もそれに続く。
が、俺は立ちすくんでしまった。部屋の中に漂う異臭と、その規格外な色に、部屋の中に散らばっている引き裂かれた何かに。
「これは、……」
何が起こったんだろう。俺は何も考えられなくなる。
「救急車だ! 救急車を呼んでくれ!」
突然怒鳴り声が聞こえてきた。聞こえてきた方向に目を向けると、赤の中にラグさんが転がっている。頭の中が、真っ白に染まっていくのを感じた。
「何をしている! 早くしろ!」
その声で、現実に引き戻された。慌てて、携帯を取り出す。手が震えている。
それでも何とかボタンを押し、救急車を呼んだ。
「よし、血は止まってるな」
ヴァンさんは、俺とは打って変わってとても落ち着いていた。そう、不思議なくらいに。
「な、何でそんなに……落ち着いていられるんですか?」
足に根が生えたように動かない。
「……君は、何も知らなかったんだね」
その言葉が、妙に突き刺さって、その痛みに無視することすら出来ず、この状況の原因を全力で探した。
しばらくして、救急車のサイレンが聞こえてきた。