この幼稚な思い
ラグナードについて大体のことを話し終わると、ヴェルドは暫く黙っていた。妙な沈黙が部屋の中を支配する。が、その沈黙を破ったのは意外にもヴェルドだった。
「……そうかよ」
とても静かな声で、やつはそう言った。
「……ああ」
俺は、それしか言うことが出来なかった。
「そうかよ!!」
最後に、ヴェルドはそれだけ叫んで、出て行ってしまった。
無理もないだろう。やつが、ラグナードを好きだと、愛してるのだと言っているのに、俺は挑発でもするようなことを言ってしまったのだから。
――――俺は、俺は……あいつのことを愛していたかもしれないなぁ。
何度思い出しても笑える台詞だ。まさか俺がこんな餓鬼っぽいことを口走るなんて、そんなこと、思いもしなかった。
だが、そうだな。悪くない、時間だったなあ。もう戻れないのが、とても惜しいくらいには。
そう、たしか、あいつに初めて会ったのは生徒会の顔合わせの時。たしか、新学期そうそうに、仕事を押しつけられたのを、今でも忘れていない。
「……はいっ、と言うわけで、今年もそうそうたる顔ぶれだね~。さすが、優秀な人材が集まってるよね。じゃ、先生はこれで退散するので、生徒会総会の要項とか進行とか、その辺は任せるから。頑張ってね」
とか何とか言って、生徒会の顧問は消えていった。二階の生徒会室の窓から。
正直に言おう、まるで猿のようだった、と。
もちろん、新入生達はそんなやつが顧問だなんて知らなかったから、みんな窓の方を見て唖然としていた。開いた口がふさがらないという言葉は、きっとこの時のためだけにあるんだろう。そうに違いない。
その時、ラグナードも例に漏れず、ただ唖然とするばかりであった。そう言えば、俺のラグナードの第一印象は、髪の長いやつ、ただそれだけだった。同じ生徒会にいても、事務的な話をするだけで、プライベートはお互いに持ち込まなかった。だから、生徒会以外では、会うこともないだろうと思っていた。
でも、天体観測部の新入生の歓迎会に、ラグナードはいた。もともと、天体観測なんて、相当物好きじゃないと、部活まで入ろうなんて思うやつもいなかった。まあ、そんな部活に入っている俺は、物好きに分類されるんだろうが。何より、その高校では、別に部活をしなくちゃならないなんて校則は存在しなかったから、部活をやっている生徒自体がそんなに多くはなかった。そんな理由を踏まえて、ウチの部は部員がわずか四人ほどしかいなかった。そんな部活にまさかラグナードが入るとは思っていなかった俺は、心底驚いた。ちなみにその年の新入部員は三人だった。これは過去最高記録だ。悲しいかな、今も破られていないらしい。
歓迎会と言っても、みんなでお菓子を持ち寄って食べるくらいのことしかしないから、残った時間は天体観測。二つしかない天体望遠鏡を順番で覗いたり、ただぼうっと、肉眼で星空を眺めるだけ。
活動は、週に一日、水曜日。時間は自由。参加もそんなには強制されないし、部費もほとんど掛からないと言っても良い。ここまで言ったら分かるだろうが、ウチはかなり緩い部活だ。だから、部活に参加していれば、自然と学年を超えて部員達は仲良くなる。
俺とラグナードもそうだった。
「お前、手、よく怪我してんのな」
初めに話しかけたのは俺だった。その日は校庭で部活をやっていた。望遠鏡を異動している時に月明かりに照らされて見えた、ラグナードの手は、傷だらけだった。いつもそうなのだ。生徒会で顔を合わせた時から、ずっとこいつの手からは傷が絶えない。その全てが切り傷で、その全てに手当がされていない。俺には、不思議でならなかった。
「そうですね。よく、怪我してますね」
ラグナードは、素っ気ない返事だけを俺に寄越して、視線はずっと空に向けられていた。
俺は、ラグナードが座っている校庭の端っこにあるベンチに座った。俺と、ラグナードの距離は、近すぎず、遠すぎずの距離を選んだつもりだ。
俺は、恐る恐る聞いてみた。
「手当、しないのか?」
「手当、は、しないです。面倒なので」
面倒、いや、それはないだろう。現に今も、傷口が開いてそこから、わずかに血が流れている。
「痛くないのか? そんなんで」
「痛いです。いつも、いつも、痛いです」
正直、俺は驚いた。この傷は、実は自分でやっていて、痛みにはもう慣れてしまった、なんて、仕方の無い落ちを自分で作っていたからだ。
「どうしていつも、怪我してるんだ?」
「……どうしてでしょう? いつも怪我をしないように、注意はしているつもりなんですが。痛くて、手を見てみると、いつも血が出ていて。また、やっちゃったなあって」
依然、ラグナードは星空を眺めていて、その表情は伺えない。
「ドジなのか」
「はい、ドジなんです」
少しだけ、こいつが笑った気がした。
それから、二人でぽつぽつと他愛のない会話をし、気が付くと二人だけになっていた。
「なあ、お前、帰らないの?」
時刻は八時半を回った。
「お邪魔なら帰ります」
ラグナードは立ち上がろうとする。
「あ、いや、そういうつもりじゃないんだ。ただ、その……」
ただ、その後に付けるべき言葉は何だ? 思いつかない。俺は珍しく焦っている。
どうすればいい。考えても、目に入ってくるのは校庭の砂ばかり。
「ふふっ」
その声に、俺は顔を上げる。そこには、ラグナードの微笑んだ顔があった。堪えたような、小さな笑み。
「あ、ごめんなさい。つい、つい、先輩もそんな顔するんだなって思ったら、可笑しくて」
口では謝りながらも、クスクスと笑いが収まらない様子だ。
「そんな顔って……」
俺は一体どんな顔をしてたって言うんだ。
「ふふっ、でも、そろそろ帰りますね。お休みなさい、先輩」
「ああ、お休み」
その他に、何を言う間もなくラグナードは早足で帰って行った。
俺は、月明かりに照らされるラグナードの後ろ姿を、何の意味もなく眺め続けていた。
そう、その晩はとても明るい夜だった。
それからいつも、部活の時には二人で話をした。いつしか、俺は週に一回の部活の日を、首を長くして待つようになっていた。
そして、部活のある日には決まって、校庭の隅っこの古びたベンチを二人で占領していた。今日はまだ、日が沈んでいない。丁度、夕暮れ時だ。
「先輩、今日はお菓子を作ってきたんですよ。一緒に食べませんか?」
そう言って目の前に出された箱に入っていたのは、ブルーベリー入りのマフィン。夕日が邪魔して、色は分からないけど、そんな匂いがした。
「へえ、自分で作ったの?」
そう聞くと、ラグナードは少しだけ顔を赤くしてコクリと頷く。こいつの顔が赤いのも、夕日の仕業だろうか。
「美味しそうだね。じゃあ、一つもらっても良いかな?」
ラグナードが頷いたのを見てから、俺は一つ手に取った。そのまま、それを口に入れる。その一連の動作を、全てラグナードは注意深く見ていた。そんなに見られると、かなり食べずらかったが、マフィンの美味しさにそんな些細なことは忘れてしまっていた。
「美味しいよ、ラグナード。すごいじゃないか!」
そう言った途端、ラグナードはあからさまに嬉しそうな顔をする。
「よかった。そう言って貰えると嬉しいです」
でも、その笑みには何か少しだけ何か引っかかるものがある、そんな気がした。でも、今日は新月。月が出ていないので、暗くてよく見えない。
「なあ、ラグナード。何かあったのか?」
俺は、聞くつもりはなかったのに、気付いたら、そう言葉を発していた。
ラグナードはそれを聞いて、自然な動作で上を向いてからこう答えた。
「……そうですね、なんか、僕の作った物って、美味しくないような気がして。でも、先輩が、美味しいって言ってくれて、嬉しいんです。けど、やっぱり、変だなあって。あははっ、何言いたいんでしょうね? 僕は」
俺は、慌ててラグナードの方を向いた。ラグナードが、泣いている気がしたからだ。でも、夜空がラグナードの視線を奪って離さないらしく、ラグナードはこちらを見てはくれない。
「さあ、何がしたいんだろうな。でも、うまいよ、コレ。もう一つ貰ってもいいか?」
そう言うと、ラグナードはやっとこちらを向いた。思っていたより、酷い顔はしていない。
「ええ、たくさん食べて下さい。実は作りすぎたみたいで、家にもたくさんあるんですよ」
「そうか、ありがとう。よく、お菓子とかは作るのか?」
俺はラグナードの膝の上の箱から、また一つマフィンをつまんだ。
「少し前まではよく作っていたんですけど、最近は忙しくて。昨日はたまたまって感じです。小麦粉もたくさんあったし……って、白状すると、実は小麦粉の袋を破っちゃったんです。それで、早く小麦粉を使ってしまおうと思って」
割と丈夫な、小麦粉の袋がどうやって破れるのか気になるところだが、神話が出来そうなので、突っ込むのは止めておく。
「他には、どんなの作ってたんだ?」
「そうですね、パイには一時期ハマってましたね。そうだ、シルア先輩、ミートパイは好きですか?」
ミートパイ。あれは頂けない。小学生の頃、祖母が作ってくれたのを食べたが、あれは希に見る不味さだった。それ以来、ミートパイとは美味しくない物だという刷り込みが生まれていた。
「うふふっ。シルア先輩、あまり好きじゃないって、顔に書いてありますよ?」
何故ばれた。俺ってそんなに顔に出るのか?
慌てる俺をよそに、ラグナードは楽しそうに笑っている。
「べ、別に、高三にもなって、好き嫌いがある訳じゃ……。だからその、ミートパイ、良いんじゃないか?」
そう言うと、ラグナードは目をパチクリさせて、一瞬固まった。でも、それから今度は嬉しそうに笑って言う。
「そうですか? では、今度はミートパイを作ってきますね。冷めてても美味しく食べられるようにしてきますよ」
正直、俺は腹を括っていた。そしてやってくる、次の週の水曜日。
「先輩、シルア先輩。そんなに固くならないで。美味しくなかったら、食べなくても良いんですよ? と言うか、そんなに嫌いなら……」
先週より月が出ていて少し明るい校庭で、ラグナードが心配そうに俺をのぞき込んでいる。
「あ、いや、そんなんじゃないさ」
俺は目を泳がせた。見透かされている気がしたのだ、ラグナードに。
「そうですか? それなら……はい、先輩。食べて貰えますか?」
俺は、ああ、と短く答えて差し出されたミートパイを受け取る。そして、恐る恐るそれを口に運んだ。サクリといい音を立てて、口の中にミートパイが転がり込んでくる。昔の、あのゴムみたいな具の肉を想像すると、しかめっ面になりそうだがもう遅い。なっているだろう。とりあえず、口に入れて噛み砕く。が、思っていたよりも肉は軟らかく、味もしっかりしていて、とても美味しかった。
「うまいな」
「よかった。嫌いな物が一つ減りましたね、先輩」
ラグナードは、イタズラっぽく笑う。
俺は、なんだか恥ずかしくて、話題を変えることに努めた。
そう言えば、こいつは料理をするから怪我をしているんだろうか。
「に、しても、最近、手の怪我さ、減ったよな」
「そう言えば、そうですね。大分、よくなりましたね」
そう言いながら、ラグナードはこちらに手を見せてくる。雪みたいに白い手に、それなりに筋肉は付いているのだろうが、それでもまだ細い指。その、あちらこちらにある、治りかけの傷が痛々しい。
俺は、口を大きく開けてパイを放り込み、その手を取った。冷たい手だ。
「今まで、気付いてやれなかったけど、今日は絆創膏を持ってきたんだ。もっと早く、こうすればよかった」
俺は、無言で絆創膏をこれでもかと言うほど貼っていく。
「よし、はい、次はそっちの手ね」
今まで掴んでいた手を解放し、反対側の手を要求する。でもラグナードは、絆創膏の貼られた自分の手を、自分の胸のあたりに持っていったっきり、ぼうっとしている。
「ラグナード?」
名前を呼ぶと、ラグナードは、我に返ったようにこちらに視線を寄越してきた。
「は、はいっ。ええと、あの……?」
その顔は、やはり薄暗くてよく見えないが、赤く染まっている気がした。
「反対の手、こっちによこして」
「はい」
ラグナードは、おとなしくそれに従った。手にはもう、先程の冷たさはなく、俺の手よりも温かいほどだった。
このときに、俺は悟った。ラグナードは、俺のことが好きなのだと。自惚れでも何でもない。でも何故か、異常であるはずのその状況が、何故かごく自然なことに思えた。
「よし、終わり。もう、あんま怪我すんなよ?」
「はい、ありがとうございます」
やはりラグナードは自分の胸にきゅうっと手を当てて、そして俯いた。
ラグナードの気持ちを知っても俺は、ラグナードの側を離れていく気にはなれなかった。だから、ずっとそんな日常が続くものだとばかり思っていた。だから、卒業式の時に俺は、ラグナードに言ったんだ。
「時間が空いたら、たまには遊びに来るから。そしたらさ、その内一回くらいは、またお前のミートパイ、食べたいな」
確かに言った。
「はい、分かりました。きっとですよ! それまでに、もっと上手になりますから」
ラグナードもそう言っていた。少し悲しそうな顔をしてたけど、寂しいとか、行って欲しくないだとか、その顔は言っていたけど、ラグナードの口から、そんな言葉は一度も出てこなかった。
「ああ、楽しみにしてる」
それから二回、俺はふらりと、部活に現れた。そして、ラグナードとくだらないことを話して、今度こそは、と言う約束をして帰って行った。
あいつは俺を拒まない。俺は、取っ付きにくい性格をしているのか、それとも真顔が恐いのか、あまり話しかけられたりすることがない。それはいい。俺から話しかけても、相手の顔が引きつっていることがある。それが、何気なしに俺を傷つける。でも、あいつはそんなことしなかった。いつも欲しい言葉をくれた。あいつは絶対に俺の前からいなくなったりしない。
そう思っていただけに、卒業後、あいつに言われた一言は相当きつかった。
確か、卒業して母校を訪れるのは三度目だったと思う。
「あれ、あいつ、ラグナードはいないんですか?」
「あ~、彼ねえ。止めちゃったんだよね。少し前に」
申し訳なさそうな顔をしながら、そう言った生徒会顧問。
「え?」
初めは、何を言われてるのか分からなかった。
「ちょっと、色々あったらしくてさあ。詳しいことはよく分かんないんだけど」
俺は、校庭に走った。まだ日は昇っている。だから、ラグナードは生徒会室で仕事をしていると思っていたのに。
校庭に行く途中の廊下で、部活の顧問にも会った。呼び止められたが、正しいか。
「ああ、クジョウ君!」
その声に、俺は振り返った。そこには、年配の男の先生が立っている。この人が、部活の顧問だ。
「なんでしょうか?」
「トールステン君のことなんだけどね、彼、急に部活を止めてしまったんだ。だから、多分、今日は部活には来ないと思うよ。君は、あの子と仲が良いみたいだったから、一応ね、伝えておくよ」
そう言われても、まだ、諦めきれなくて。俺は、二年生の教室のある階に行った。その時、ラグナードは高二だったから。その階の、教室で俺は、ラグナードを見つけた。長かった髪は、少し短くなっているが、あれは間違いなく、ラグナードだと思っていた。
「ラグナード!」
それなのに、ラグナードは首だけでこちらを向いて、こう言ったんだ。
「あんた、誰?」
俺の頭の機能が、一瞬凍結する。でも、それがどういう意味なのか理解した頃にはもう、ラグナードの視線の先に俺はいなかった。ラグナードはうつろに、ただ広いだけの空を眺めていた。
俺は、納得いかなかった。おもちゃを買って貰えない子供みたいに、駄々をこねたい気分だった。だから、俺は、ラグナードの当時の担任の所まで行ってしまった。その担任を問いただすと、何でも、突然、ラグナードの母親が再婚相手と無理心中をしたんだとか。母親の方は、再婚相手を刺して、飛び降り自殺。再婚相手の方は、まだ息があるようだが、いつ意識が戻るかは分からないと言うことだった。
俺は唖然とした。そんな不幸が、こんな身近で起こるなんて考えもしなかった。でも、俺だって、そこですぐ引き下がった訳じゃない。ラグナードに自己紹介したり、話しかけてみたり、とにかくコミュニケーションを取ろうとした。
だが、俺が近付くと、ラグナードは異常に怯えた。俺が伸ばした手は、振り払われて、空を切った。何度名前を呼んでも、聞こえないようだった。
結局、俺には見ていることしかできなかった。
でも、そんなことが出来たのも、ラグナードが高校を卒業するまで。それからは、どこに行ったのか、何をしているのか、全く分からなかった。それでも、俺は探し続けた。
それは、バイト先の先輩に誘われていったバーだった。そこでマスターと呼ばれていたのは、間違いなく、ラグナードだった。もしかしたら、思い出しているかも知れない、なんて期待もあったがあっさりそれは打ち砕かれてしまった。
幸か不幸か、ラグナードはまた俺を好きになったらしかった。それに気付いたのは、婚約して一ヶ月後のことだった。
それでも、俺はまだ、果たされていない約束が果たされる日を、ずっとずっと待っている。
今思うと、俺は確かにあいつが、ラグナードが好きだったのかも知れない。だから、ヴェルドには、関わるなと言ってしまったのかも知れない。だが、どうだろう。俺がレイアに抱いているこの感情は、紛れもなく愛と呼べるものだ。ラグナードに対して抱く、依存に似た友情のようなものとは異なっている。
今でこそ思う、ラグナードがヴェルドに救われることを。もし、あの愚弟の愛とやらが、本物だとしたら、ラグナードは少しでも救われるんじゃないかと、勝手な期待をしないではいられないのだ。それは、先にも言ったように、妻に抱く愛ではなくて、依存心と友情を足して二で割ったような、この幼稚な思いからである。