離れていきそうな人
俺は、ソファの上で目を覚ました。そこで寝てたんだから、当たり前だろう。そんなくだらないことを考えながら、テレビをつけて時間を見る。
PM2:00
テレビ画面の端っこにそう表示されていた。昨日の夜はあまり眠れなかっただけに、かなり寝てしまっていたようだ。あまり活動していないせいか、お腹がすかないので昼食はすっぽかそうと、そのままテレビに見入った。放送されていたのは、よく分からないドラマ。分からなくても、時間はつぶせる。
ラグさんはまだ寝ているのだろうか。少し気になったが、見てくる気にはなれなかった。それ自体には、きっと理由なんて無いに違いない。だから、そのままの体制で、結局四時間以上時間をつぶすことになった。
後ろの方で、物音がしたので振り返ると、そこには白いシャツを着ながら歩いてくるラグさんがいた。時刻は、六時半過ぎ。
露出している肌が、まぶしい。というか、かなり気になった。ちらっと見える鎖骨とかが、ひどく蠱惑的だった。
でも、そんな俗な考えがバレないように、努めて普通に言葉を発した。
「あ、おはようございます。よく寝てましたね」
本当に、寝起きみたいな顔をしていたので、今の今まで寝ていたことを考えて言った言葉なのに、ラグさんは眉間に皺を寄せた。
「起こしてくれても良いだろっ。あ、てか寝室、覗くな。それから、夕飯は店で食べて。カレーとか、オムレツとかならあるから。あと、開店の準備、手伝って、居候君」
なるほど、そういうことか。納得したが、理不尽な気もする。大体、店の開店時間を俺は知らない。でも、ラグさんが俺を客としてじゃなく、居候として扱っているのが少しだけ嬉しかったので、頷いておく。笑顔じゃなかったけどね。
「……良いですよ。手伝います。何をすれば良いんですか?」
ラグさんは、少し長めの髪を結いながら、店へと足を向けた。俺はそれに着いていく。ラグさんは、適当に髪を結い終わると、店の裏口へ回り鍵を開けた。そのまま、何も言わないで入っていくので俺はそれにならう。
店に入ると、ラグさんは、少し待ってて、と言って何か作業をし始めた。見ていると、どうやら俺の夕飯を作ってくれているらしい。食材を切ったり炒めたりしている。
ラグさんの細くて白い指先が、まるでおとぎ話の魔法みたいに軽やかに動いていく。その動きの美しさに、思わず見とれてしまった。
あっという間に、パスタが出来上がって、俺の目の前に置かれる。
「うわあ……ラグさん、やっぱり、料理上手ですね」
お世辞抜きで、本当に美味しそうだった。だからそう言ったのに、ラグさんは顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。
「普通だろ。これくらい出来なくて店が出せるか」
この発言には、苦笑してしまった。ツンデレってやつかな、なんて思ったりして。
「あはは、ま、そうなんでしようけど。お母さんの影響とかですか?」
言ってから兄貴の言っていたラグさんの過去を思い出す。もしかすると、これは言ってはいけなかったかも知れない。俺は、ラグさんを見上げた。
でも、慌てているのは俺だけで、ラグさんは何のこともなく、棚をいじっていた。それを見て俺は安堵し、出された料理に手をつけた。いただきます、なんて言ってから。
「って言うか、血の繋がったお父さん? コックなんだ。だから、その人に習った」
「え、あの、朝会った人ですよね?」
ラグさんの記憶は、今も混乱しているままなのだろうか。本当に、朝会った人を父親だと思っているのだろうか。気になって、確認を入れてしまった。
「そうそう、そんな人。お母さんは、結構男っぽい人だったから。家事が苦手でね、よく失敗してた」
そんな人、か。微妙なとこだな。
「そうなんですか。男っぽいお母さんか、楽しそうですね。キャッチボールとか、したんですか?」
俺は、パスタを頰張った。
「ああ、誘われてやりはしたけど、全然僕は出来なかった。お母さんは、上手かったけど」
キャッチボールは、子供の頃よく兄貴とやっていた。けっこう好きな部類に入る遊びで、今でもたまに大学の友達とやることがある。
そう言えば、今日って大学で講義があったような、そこまで思い出して、そのことについては考えるのを止めた。これは、俺の経験がさせる、反射的な行動だ。仕方ない。
「へえ、今度、俺とやりましょうよ」
先程の考えを打ち消すように、ラグさんを遊びに誘う。
「あ、無理。僕、ホントに出来ないから。ガラスとか普通に割れるから」
慌てて、そう断りを入れるラグさんが何となくかわいらしく感じられた。自然と、口元が緩む。
「じゃあ、人がいないような、広くて見晴らしのいい所でやりましょうよ! ね?」
それはそれは、嫌そうな顔をするラグさん。それでも、俺は引かない。
「ね、ラグさん!」
ラグさんは、しばらく俺のことを訳が分からない、みたいな顔をして見ていたが、ついに諦めた。
「ま、いいけど」
ため息混じりに、そう言ってくれるラグさんに甘えて、さらに念を押す。
「約束ですよ!」
「はいはい、分かったから、早く食べなよ。お客が来るだろ」
ラグさんにせかされて、俺はまたパスタを食べ始めた。
カランカラン
どこからともなく、音が鳴った。鐘の音だ。店の入り口が開閉する時になるらしいから、きっと入り口の戸にでも付けてあるんだろう。
「いらっしゃい」
そう言って、入ってきたのは、五十代後半くらいの小太りのおじさん。ブロンドの髪は少し白髪が入っていて、スーツを着ている。品が良さそうな人だ。
「こんばんは」
入ってきたおじさんに、ラグさんが言った。おじさんは、それにこんばんは、とにこやかに返し続ける。
「私もこれと同じものをもらおうかな」
おじさんは、また笑みを浮かべていった。
「あなたが、料理を頼むなんて珍しいですね」
ラグさんは、おじさんの方は向かずに、もう作業を始めていた。
「おや、覚えていてくれたのか。いやあ、こちらのお兄さんがあまりにも美味しそうに食べているから、ついね」
そんなに、俺は美味しそうに食べてるのか。ガキみたいじゃないか、俺。いや、このおじさんに比べたら、ガキの域を出ないのかも知れないが。
「お客さんの顔くらい、覚えますよ。ちなみに、あなたが最近、タバコの煙を避けているのも分かります」
そのラグさんの発言に、ラグさんはエスパーなんじゃないかと馬鹿なことを思ったが、言ったら怒られそうなので自重した。
「分かるかい。実は、家内に止められてね。女とは時に、とても恐ろしいものだねえ。しかし、君に顔を覚えられていないと思っている輩は沢山いるよ」
もちろん、その時俺は兄貴のことが頭に浮かんできた。最後の一口を頰張る。
「ごちそうさまでした。美味しかったです、ラグさん」
俺は、食べ終わったお皿を流しに持って行った。
「お粗末様」
ラグさんは、素っ気なく答えた。
「ラグさん?」
おじさんが聞き返してきた。出来れば、突っ込んで欲しくないのに。これは、俺だけの呼び名なんだ、と誰が決めたわけでもないのにおじさんに嫉妬しそうになって、それを隠すように俺は、無言で皿を洗った。
「あ、僕の名前です。よかったらラグナって呼んで下さい。呼び捨てでいいですから」
とにかく、ラグさんって言う呼び名はこのおじさんには呼ばせない所を悟って、優越感に浸る。
「そうか、ラグナ君だね」
「ええ」
ラグさんは、なぜか不満そうに短く答えていた。そこで、ふと俺の頭の中に疑問がよぎった。
「ラグさん、お客さんの名前、知らないんですか?」
何となく聞いてしまう。
「聞かないからね、基本的には。そういうのって、プライバシーでしょ」
客商売なのに、少し客に対して冷たいんじゃないだろうか。
「えー、つまんない。聞けばいいじゃないですか」
「どうして?」
ラグさんは、純粋な質問を俺にぶつけているようだった。俺は少し考えてから、答える。
「そうですねえ、仲良くなれる気がしませんか」
「あ、確かに」
初めて気が付いた、とでも言わんばかりにラグさんが言う。
これは、冷たいとかじゃなく客商売のイロハを知らないんじゃないのか。
「はい、できました。サラダは最近血圧が気になってるあなたに、サービスです。こういうパスタは、結構カロリーが高いですからね」
ラグさんは、そう言っておじさんにパスタと、小さめの木の器を出した。器の方には、サラダが入っている。
ほら、やっぱり。きっと、兄貴の言ってたことは間違いだ。ラグさんは冷たくなんか無い。ただ、人付き合いを知らないだけだ。
「バレていたのか。すごいな、君は」
なんて、のんきなことを考えていられるのは、初めうちだけだった。ラグさんのお店は、繁盛しているらしく客の出入りが激しかった。
店は、カウンター席とテーブル席があって、それなりに人数が入れるようになっていた。満席にはならなかったが、意外な忙しさに俺は少し驚いてしまった。
ここのお店に来るのは、大体が中年かそれ以上。しかも、男女入り乱れている。時折、夫婦で訪れているらしき人も見かけた。
店が終わったのは、深夜を過ぎてからだった。これなら、昼間にどっぷりと寝ていたラグさんの生活も分からなくない。
「だー、終わった」
俺は、ギュウッと背伸びをして言った。
「お疲れさま、ヴェルダンディー。お礼になんか、甘いもの作ってあげるよ。なにがいい?」
そんな、かなり嬉しい申し出に、俺は慎重に答える。
「んー、そうですね……。じゃあ、あだ名で呼んでください」
そう言うと、ラグさんは可哀想なものを見る目で俺を見てきたが、気にしない。
「それは、食えないだろ」
「でも、そっちの方が嬉しいです。ラグさん」
めげない、それが俺のポリシ-だ。今決めた。
「なんて、呼べばいい」
少しだけ、戸惑いながらそう俺に聞いてくれるラグさんが、堪らなく愛おしい。
「お好きなように」
少し、意地悪な注文をしてしまったかも知れない。でも、ラグさんは真剣に考え込んでいる。少し、俯いていたラグさんの顔が上がる。
「……ヴェル。ヴェルでどうだ。呼びやすくていい」
ヴェル、その呼び名が宝物みたいに思えて、俺の顔は自然にほころんだ。
「はい、いいです。とっても」
ラグさんは、すぐにきびすを返して、さっさと寝るぞなんて言って、家に戻っていくので、俺はそれを追いかけた。
俺は、次の日大学に行き、教授に無断欠席の訳を聞かれたので、風邪をこじらせて、連絡できなかったとほらを吹いた。
それから三日間、俺はきちんと大学へ通った。もちろん、今更、と言うタイミングで、ラグさんにお前は学生だろと言われてしまったからだ。
ラグさんと一緒にいて、気付いたことがいくつかある。まず、ラグさんの睡眠時間は異様に長い。酷い時には、半日以上もベッドの上だったりする。しかも、起きたと思ったら、ぶつぶつと、何か呟きながらふらふらと家の中を歩き回っていたりする事もあった。それから、朝が苦手で、暗くなったらあまり外出したがらないし、自分の姿を写すものを極力避ける。
あきらかに、普通の人とは違う行動を取るラグさんを見るたびに、兄貴の言葉を思い出す。“あいつらについては、あまり詮索しない方がいい”たしかに、兄貴はそう言っていた。でも、俺はラグさんの危なっかしい所を見つけるたびに、この人の側を離れちゃいけない気がした。
そうしないと、ある日突然、何の前触れもなく目の前から消えて無くなりそうだった。
ラグさんを身近に感じれば感じるほど、その存在の脆さが浮き彫りになっていく。そう感じることに、確かな証拠も根拠もない。ただ、俺の所へ繋ぎ止めておきたいと思わせる、そんな何かが、ラグさんにはあった。
俺が、居候し始めて丁度一週間が過ぎた頃、夕方になってラグさんが出かけた。
「ヴェル、出掛けてくる。七時頃には帰るから」
この時間帯になってから出かけたことは、俺が居候し始めてから一度もなかった。
「買い物ですか?」
「そんなとこ」
そう、ラグさんは言い残していった。だから、どこに行ったのかも知らないし、何があったのかも知らない。ただ、夜八時を過ぎても帰ってこないラグさんを心配して、俺がラグさんを探しに行った時、道ばたで見つけたラグさんは、何かに怯えているような目をしていて、俺にあんた、誰? って、冷たい目で聞いてきた。俺は正直、そのときラグさんに何が起こったのか、全く分からなかった。
でも、ラグさんの中で何かが確実に壊れていく音を聞いた。壊れたものが何かは知らないけど、その騒音がラグさんの華奢な体をかすかに震わせていた。