ラグさんの話 1
「ラグさん……」
呟くように呼んだラグさんの名前は、本人には届くことなく掠れて消えていった。
兄貴から聞いた、ラグさんの過去。それは、あまり良いものじゃなかった。
着替えを取りに行った帰り際に、兄貴にした質問。俺は、後悔しないことにした。
「あ、そうだ。なぁ兄貴、先月退院した独り身の男の人、いたじゃん?」
「ん、ああ。いたな」
兄貴の返事は、なんだか素っ気ない。視線は未だに新聞へと向けられている。
「あの人って、あのバーのマスターさんとどんな関係か知ってる?」
「なぜそんなことを聞く?」
兄貴が急に新聞から顔を上げた。
「え?」
兄貴は眉間に皺を寄せている。俺は予想外の返答に疑問符を浮かべた。
「お前、まさかあいつらが二人でいるところに遭遇したのか?」
「遭遇って、今さっきその人がラグさんの家に来ててさ。それで、ラグさんがその男の人のこと、お父さんって呼んでたからさ……」
そこまで言うと、兄貴は一瞬目を見開いた。
「……あいつらについては、あまり詮索しない方がいい。お前が、またあいつの家に行くならな」
ラグさんのことも、あの男のことも知っているような口振りの兄貴に不信感を抱いた。
「なんでだよ。俺が病院連れてった時には、赤の他人みたいなツラしてたくせに! あの人の事知ってたのかよ!?」
「いや、それは……」
いきなり口ごもる兄貴に無性に腹が立った。知ってたなら、初めから名前で呼んだら、ラグさんは喜んだかも知れないのに。
「なんなんだよっ。なんとか言えよ!!」
気付いたら俺の手は、兄貴の胸ぐらを掴んでいた。
それでも兄貴は目を合わせない。
「おい、兄貴っ何とか言ったら……」
「お前は」
「え?」
「お前は、あいつのことが好きなのか?」
「あ……」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。でも、その意味が分かりはじめると俺のはらわたは煮えくりかえった。ラグさんが好きなのは兄貴なのに。
「そうだよっ好きだよ、あの人の事が! でもな兄貴! ……」
これは、きっとラグさんがわざと言わないようにしていた気持ちだから、言っちゃいけないのかも知れない。でも、今の俺は止められなかった。
「あの人は、ラグさんはな、兄貴の事が好きなんだよっ!」
言ってしまった。俺は兄貴以上に動揺しているかもしれない。
「……知ってる」
兄貴が急に目を合わせてきた。なぜ、兄貴は動揺してないのか、俺には理解できなかった。
「知ってるさ。随分前からな。ずっと、ずっと、知ってた。……なぁ、ヴェルド。お前、ラグナードのこと、愛してるか?」
「……」
あんまり……あんまり、兄貴が悲しそうな顔をしているから言葉に詰まった。
「なぁ、ヴェルド……」
俺の答えを催促するような、兄貴の声に俺は何かがどうでもよくなるような、そんな感覚を覚えた。
「愛してる。愛してるに決まってんだろ……」
それ以外に何があるというのだ。あの今にも壊れてしまいそうに儚い人を守りたいと思う、この気持ちが。
「そうか。でもな、今のあいつを心から愛せるやつなんていないんだよ。少なくとも、俺には出来ないね。……哀れみの情が先立ってな」
「どういうことだよっ。あの人の家、可笑しいんだ。どこにも自分の姿を写せるものが無いんだ。ラグさんに、何があったんだよ? それとも哀れみってのは、男に恋してるラグさんへの哀れみって事かよ?」
どういうことだよ兄貴。
俺は興奮して、兄貴の胸ぐらを閉めすぎたらしい。兄貴の顔が赤くなってきている。俺は、ハッとして、その手を離した。
兄貴は荒い呼吸を整えてから、話し出した。
「別に、俺は恋なんて自由だと思うから、どうでもいい。詳しいことは知らない。あの男、ラグナードの所に行った男の名前は、ヴァン・トールステン。……まぁ、医者だからな。知ってて当然ってとこだろ。ウチの病院に入院していたんだから。で、これ以上聞いたら、お前は絶対にラグナードを純粋に愛情だけで見れなくなるぞ。それでもいいのか?」
知りたい。ラグさんに何があったのか。その一心で頷いていた。
どうせ、聞かなくても聞いても後悔するに違いない。それなら、少しでもあの人に近づける方を選びたい。そんな、後から取って付けたような理由を考えながら、俺は兄貴が話すのを待った。
しばらくして、決心したような、追い詰められたような顔をして兄貴は、話始めた。
ラグナードは、俺の高校時代の後輩だった。部活が同じだったから、面識もあった。いや、あったというよりは、もっと親しい仲だった。
部活? ああ、天体観測だよ。毎晩集まって、星を眺めるだけだったがな。そういや、あいつ、かなり遅くまで残ってたな。
で、そうだな、今のあいつと昔の俺と出会った頃のあいつ、俺に対しての対応は変わらないな。全くな。人なっこくて、初々しくてなぁ。ま、もう名前は呼んでくれないものと思っていたが。
ん? ああ、それでだな、仲がよかったんだよ。あいつベラボウに頭がよかったからな、生徒会でも一緒になった。俺が副会長であいつは会計だった。そうそう、二つ違いだったんだよな。
楽しかったよ、あいつと過ごした時間は。でも、ある日気付いたんだ、あいつが俺を好きなんだって。俺も嫌いじゃなかった。でも、好きかどうかは分からなかった。だから、それからもしばらく、ラグナードとの関係はそのまま続いた。結局、俺はその関係のまま卒業しちまったよ。
でも、ラグナードに会う機械はあった。大学と高校が近かったからな、部活にたまには顔を出してた。ラグナードは、二年になっても生徒会で会計をやっていた。
その年の秋、あいつは急に部活も生徒会も辞めたそうだ。部活に顔を出しに行ったときに、後輩から聞いたんだよ。驚いて、俺はあいつの担任を問い詰めた。
そうしたら、あいつの母親は旦那を刺して飛び降り自殺をしたらしい。結果、母親は死んで、旦那は昏睡状態。そのことが理由じゃないかって、あいつの担任は言ってたな。俺もそうだと思う。今思うと、新聞にそんな記事が乗ってたよ。ああ、そうそう、その刺された旦那ってのは、二番目の旦那……母親の再婚相手だ。初めの旦那とは死別してる。その旦那のファミリーネームが、トールステンだったかな。まぁ、風の噂程度の情報だよ。ヴァンの年の離れた兄だ。よく似た兄弟らしいが、その辺のことは、あまりよく知らない。でもな、俺が思うに、ラグナードがヴァンをオヤジって呼んでたのは、そいつの兄と顔が似てるからだと思うんだ。
……でな、心配になってさ、様子を見に行ったんだよ。そうしたら、あんた、誰だよ? って。あいつがすんごく冷たい目で、俺を見てたんだ。正直、信じられなかったよ。あいつがあんな目をしてるのも、俺のことを覚えていないのも。
ああ、家族が壊れて、こいつも……変わったんだ。そう、思ったね。
でも、俺も変わっちまったのかもしれないな。ラグナードを見る目が、可愛い後輩から、母親の仕出かしたことにショックを受けて、記憶が混乱してしまった可哀想なやつに変わった。あげく、その旦那ってのはうちの病院に入院してたんだぜ。書類を整理してる時に分かったことだけどな。そいつの名前はレイフォンス・フィネットだったかな。もうとっくに回復してだいぶ前に退院したよ。
それから、しばらく俺はあいつには会わなかった。
でも、なんの巡り合わせか、それとも世間が狭いのか、俺は数年後ラグナードに再会した。
ジイサンの病院を手伝ってた頃があっただろ? そう、ホテルでバイトしながら。まあ、手伝ってたっつっても、ほとんどの事務処理だったけど。……そのころなぁ、バイトの先輩に誘われて行ったバーのマスターが、ラグナードだった。
いやぁ、心臓が壊れるんじゃないかって思ったね。驚きすぎで。
でも、やつは冷静でなぁ。前よりは丸くなったけど、それでも、やっぱりどこか少し冷たくて、客商売には向いてなかったかな。でも、バーって看板掲げてるわりには、喫茶店みたいなとこで、出してる飯がすごくうまいんだよな。
それから、月に一度くらいそこに通うようになった。もしかして、そのうち俺のこと思い出すんじゃないかって。でも、今のことはないな。ただ、分かったことは、あいつは意外とよく気がついて、けっこう常連客が多かった。それから、ホント意外だけど、客の相談とか親身になって聞くの。
それからしばらくして、バイト先でラグナードに会った。ホテルでバイトしてた頃だよ。バーグロアのマスターさんって呼んだら、顔を真っ赤にしてさ、ああ、また俺に惚れたかってはっきり分かったよ。
でも、また俺はあいつのところに通った。昔みたいに、あいつのそばは居心地がよかった。
ま、あの頃、高校生の頃の俺なら……いや、あのままラグナードの母親が何もせずにあいつの家庭が壊れずに保たれていたら、俺は、俺は……あいつのことを愛していたかもしれないなぁ。
兄貴は、終始自嘲ぎみに話していた。
「……そうかよ」
やっと、それだけが俺の口からこぼれ落ちた。
「……ああ」
兄貴はどこか遠くを眺めていた。その目に何が写っているのかなんて、分かりたくもなかった。今はただ、肉親の兄貴が、最低の男に見えた。
「そうかよ!!」
それだけ叫ぶように言い残して、俺は家を飛び出した。
なんで、兄貴はラグさんが傷ついてる時に、なにもしなかったのか。そして何より、兄貴の最後の言葉が俺を怒らせていた。
―――ま、あの頃、高校生の頃の俺なら……いや、あのままラグナードの母親が何もせずにあいつの家庭が壊れずに保たれていたら、俺は、俺は……あいつのことを愛していたかもしれないなぁ。
嫌に、その言葉が俺の耳に残っていた。
ラグさんは、あれっきりもう少しで昼になるというのに自室に籠って出てこない。さすがに心配になった俺は、ラグさんの部屋の前まで来て恐る恐るノックをしてみた。が、返事はない。さらに不安になる俺。
どうしよう。開けても良いのか? いやでも、プライベートだし、でも、ぶっ倒れてたりなんかしたら……。ええい! こうなったら、覗いてしまおう。
しばし思案した末に、ラグさんの自室のドアノブに手をかける。それから、ゆっくり、ゆっくりそれを回してドアを少しだけ引いた。そのわずかに出来た隙間から、中を覗く。
中はカーテンが中途半端に引かれているために、薄暗かった。そんな部屋の中のベッドの上にラグさんを見つけた。
早くなる鼓動。手を伸ばしてしまいたい衝動。その他諸々に、俺はどんだけこの人が好きなのかを分からせられてから、またラグさんをよく見てしまった。もちろん、世間様は俺のことを変態とか変質者とかっていう部類に入れるかも知れないことは承知の上で。
あどけない顔、少しだけ開かれた柔らかそうな唇。それらをさらしているのに誘っているように見えないのは、きっとベッドの壁とは反対の方半分に丸まって寝ていて、しかも夢見が良さそうに見えないからだろう。
ラグさんを苦しめているのは、一体誰なんだろう。夢の中まで入り込んできて、この人を苦しめるのは。母親だろうか? それとも兄貴?
俺は空しくなって、部屋のドアをそっと閉めた。
それから、リビングに戻り、ソファに座った。テレビはつけない。ただ、ラグさんのことで、頭がいっぱいだった。でも、破裂なんかしそうになかった。それどころか、もっとあの人を求めているような気さえした。
そんなことを考えながら、俺はまぶたを閉じた。