秋晴れの空
そう、今思うと本当に、本当にいつの間にか好きになっていた。
はっきりと、いつからだとは言えない。
だけど、もし、もしこの恋に始まりなんて物があるんだとしたらきっとそれはあの日からなのだろうか。
それは、よく晴れた日の午後だった。秋晴れ、そんな言葉が似合うような綺麗な空だった。そんな日に、僕はその男に出会った。その日は、たまたまあるホテルで迷子になっていた。それというのも、僕の数少ない友人が、ついに結婚すると言いだしたので、仕方なく式を見に来てやっていた。
その日の友人は、いつになく陽気ではしゃいでいた。今が一番人生で幸せみたいな顔をして、僕に自分の嫁の自慢話を聞かせてくる。僕も、はじめの方はおとなしく聞いていたが、だんだんと面倒になってきたので、頃合いを見て会場から抜け出した。
そこまでは良かった。今になって思うと、たったひとつの誤算は、そのホテルが馬鹿みたいに広いことだった。自分が方向音痴だと思ったことはなかったので、適当にぶらぶらしようと、思いのままに足を進めていた。そうしたら、いつの間にか元の会場まで戻れないところまで来ていた。適当に階段を上がってきたせいで、今何階にいるのかも分からない。
「う……、いや、迷子じゃない」
でも、帰り道は分からない。
「……やっぱり迷子か……」
一人納得し、落胆した。
「どうしました?」
丁度その時、視界の外から声をかけられた。
「……えっと」
振り返ると黒髪のきっちりとスーツを着込んで、愛想の良い笑みを浮かべている男が目に入った。そいつはどうやらここの従業員らしかった。正確にそうとは言い切れないが、話しかけてくるくらいだし、おおかた間違いではないだろう。
さっさと場所を聞けばいい物を、僕は口ごもってしまった。それは、そいつが自分の経営しているバーの客で、しかもそいつは、月に一度顔を見せるか見せないか位の頻度でしか来ないような客で。でも、なぜか僕はそいつの顔を覚えていた。でもそれは、黒髪が珍しいからだと思い直した。
近くに来ると自分よりも背が高かった。
「あ、あの、場所が分からなくなってしまって……」
黙っていてもらちがあかないと、控えめにそう伝えた。するとそいつは、スクリと笑った。
「ふふっここって広いですもんね。ご案内しますよ、バー・グロアのマスターさん」
「……っ」
僕は驚いて声も出なかった。まさか、あっちも顔を覚えているなんて。
「あはは、可愛いなぁ。赤くなって。で、どこですか?」
僕は、恥ずかしさを堪えながら、会場の名前を言って、連れて行ってもらった。
「さ、着きましたよ。もう迷わないように気をつけて下さいね」
そう笑って、そいつは仕事があると、行ってしまった。
その時の笑顔が忘れられない。まるで、秋晴れの空のようなさわやかな笑顔だった。きっとそれが、この思いのはじまり。
そんなことを思い出しながら、それは終わった恋なんだと自分に言い聞かせる。そんな買い物帰りの道で、僕は、すばらしいタイミングで―――自殺現場に遭遇した。
それは、名前も知らないそいつに声をかけられた日のような、空が綺麗な秋晴れの日だった。