黒髪
「うん? 行こうか。場所は?」
そんな、俺の心境を悟られないように話を進める。
「とりあえず、僕の店に……って! おい! さっきのは反則だ!」
「え~、大人って嘘つくんだ? 自分の言った事に責任を持たないんだね?」
ニヤリ、口元が上がるのが分かる。が、止められない。
「うっ」
マスターさんは少し唸っていたけど、結局折れて俺は無理矢理マスターさんを送っていった。途中、マスターさんは少しうつろな目をしていて、それがまた、堪らなく俺を不安にさせる。
「ここでいい。世話になったね」
それだけ言って、マスターさんは俺に背を向けて、立ち去ろうとした。その時、
「あ、そうだ、俺今日、兄貴とケンカして家に帰れないんですよ~。困ったなあ」
ワザトらしくそう、あたかも今思い出したと言わんばかりに台詞を吐いた。
「へぇ?だから、なにかな?」
マスターさんは、ぴたりと足を止めた。ニヤリと、口の端が上がる。
マスターさんの言葉からは、とても分かりやすく焦りが感じられて、優位に立っているような気になる。
「泊めて頂けませんかね?」
何の脈絡もなくそう頼んでみる。
マスターさんは、こちらを振り向いた。それも、驚いたような、困ったようなそんな面白い顔をしていた。
「え、あ……いや、その……」
しどろもどろになっているマスターさんを、少なからず可愛いと思ってしまった。
もう一押し。
「いいですよね?」
自分の中で、最高の作り笑顔をマスターさんに向ける。
「あ、ああ」
マスターさんは、引きつった顔で了承してくれた。
「あ、そうだ。マスターさん。名前、教えて欲しいな」
図々しいかも知れないけど、そういえば俺はマスターさんの名前を知らない。出来ることなら、この人を、名前で呼びたい。
「いや」
あ、即答ですか。
「ヒドッ」
俺は、あからさまに傷ついた顔をして、それから面白いことを思いついてしまった。
俺も、この人の名前を知りたいんなら、きっとこの人も兄貴の名前を知りたいに違いない。なぜか、この人は兄貴の名前を知らないと言う自信があった。
「……ねぇ……」
だから、俺はマスターさんの耳元に口を寄せてこう言ったんだ。
――兄貴の名前、知らないんでしょ?知りたくない?
「え?」
正直、結構きつい駆け引きだった。名前を教えてもらうにしては、あまりにも自虐的すぎた。
「……あ。なっ!」
一瞬だけ、目を見開いてから、いよいよ顔を赤くして視線を彷徨わせるマスターさん。
「ね?」
これだと、暗に兄貴が好きなんだろって聞いているようなモンだって、俺にも分かっていたけど、それはマスターさんにもちゃんと伝わっているらしい。それなのに、念を押すようなことを付け加えている俺は最低なのかも知れない。
それでも、それでもこの人の前で暗い顔なんかしたくないから、わざと笑ってやる。
少しの沈黙。
「……。ラグナ、だ」
マスターさんが、やっと重い口を開いてくれた。でも、何となく適当な気がする。お前にはこれ位でいいだろって言われているような、そんな感じ。
「うそ」
そらされた視線がまた合った。
「は?」
口をぽかんと開けて、首をかしげられると、もう誘っているようにしか見えない。じゃなくて、あ、でも、いいな。この表情。生きてる感がある。・・・ん?俺、変態になってないか?
俺はそんな胸の内を悟られないように、平静を保った声で続ける。
「だから、違うんでしょ?俺は、あなたの本名が知りたいの」
途端に、マスターさんの表情は怪訝なモノに変わった。
「ラグナード、ラグナード・A・メリッサ。これで文句はないだろう?」
それでも、諦めた様に俺に名前を教えてくれた。
かなり嬉しい。でも、やっぱりそれは兄貴の名前を知りたいから何だよな。
「ラグナード……ふうん?じゃ、ラグさんで」
「はあ?」
訳が分からないと言う顔で、見上げられる。眉間には、皺が。
「あだ名ですよ。長いでしょう?あ、ちなみに俺の名前は、ヴェルダンディー・コーディアル。ま、好きに呼んでください。で、兄貴は、シルア・クジョウ」
ラグさんが、シルア、その名前を愛おしそうに口の中で転がしたのが分かる。
うん、まさに複雑な心境って奴かな。自分の名前を先に口にしたのは、一応俺のプライドだったんだけどな。
「兄弟なのに名前が違うんだな」
「ええ、まあ、諸事情によりって感じです。あでも、血は繋がってるんですよ。ほら、髪の色も同じでしょう?」
俺の髪は、兄貴と同じ黒髪だ。
「ああ、そうだね」
兄貴と同じ髪の色。それを聞いて、ラグさんが俺の髪に手を伸ばしてくる。ゆっくりと、相手を計るように。
俺は、その手を払ったり、その手から逃げたりしないでその場に止まった。動いてはいけない気がした。そろり、そろりと近づいてきたラグさんの手はいよいよ俺の髪に触れる。瞬間、また心臓が激しく動き出すのが分かった。ラグさんは、愛おしそうに入れの髪に触れている。俺に兄貴を投影しながら。
俺は、兄貴の代用品みたいなモノか。それって、結構悲しいぞ。俺を見て欲しい。
でも、ラグさんは、すごく自然に笑っている。その顔を見れたのは嬉しい。
「あ、わるい。つい…」
ふと、我に返ったラグさんは、さっと俺の髪から手をどけて俯いた。
「気にしないで下さい」
つい、か。それだけのことで俺は一喜一憂してしまう。
「あ、うん。そ、そうだ、家に泊まるんでしょ?こっちだよ」
ラグさんは、唐突に話を切り出した。それから、くるりとまた俺に背を向けて、今度は振り向いたりしないで歩き出した。
ついたのは、店の裏の少しだけ古びた二階建てのアパート。
ラグさんは、迷うことなく一階の右端にあるドアの前に行って、鍵を開けた。
「あ、あがって。狭いかも知れないけど、我慢してよね」
ラグさんはどこか、ぎこちなくそう言って、俺を中に通してくれた。
狭いと言っていたが、男二人入るにはちょうどいいくらいの広さだ。