兄弟喧嘩
あの人は兄貴に惚れている。そして俺は、あの人に惚れた。
もちろん、他の可能性も考えた。例えば、兄貴とあの人は昔からの友達だったとか。でもそれは殆ど不可能なんだ。兄貴は、三年前まで日本にいたから。もちろん、ここで再会したとかもあるかも知れないけど、あの店は年季が入っていたから多分、誰かの後を継いだか、その物件を買ったんだろう。でも、最近まで外国にいた人が、こんなところで土地を買うだろうか。あの人なら、なおさらだ。そう考えると、おそらくあの人は随分前からここで店を構えているはず。
それとも、二人は日本で知り合っていて、あの人が先に日本から出た。そう考えた、それもいささか不自然なんだ。兄貴は、人見知りで二三ヶ月会わないだけで、どんなに仲が良くてもすぐその人とはよそよそしくなってしまう。だから、月一でしか会わないあの人は、きっとあんな目で兄貴を見ることはなかっただろう。
そんな考えに苛まれながら数日、結局あの人には一度も会わなかったが、俺はあの人が好きなんだと腹をくくった。
「ヴェルド! お前、俺のデータどこにやった!」
夕方になって、兄貴が帰宅した。が、ものすごく怒っている。
「え? なんのこと?」
リビングのソファに座って、テレビを見ていた俺は兄貴を振り返った。よく見ると兄貴は、白衣を着たままだった。帰宅したわけではなさそうだ。
「え? じゃないっ! 婦長に渡しておいてくれって頼んだやつだよ!」
「あ」
忘れてた。
ポケットに手を入れる。そこには、確かに兄貴に渡されていたフラッシュメモリが入っていた。
「お前なあっもういい、さっさとそれを寄越せ。ったくこれから会議の予定だったのに、お前のせいで台無しだ!」
兄貴は、俺の手から乱暴にフラッシュメモリを奪い取った。
「なっなんだよ、そんな大切なモンなら、自分で渡せば良かったろ!」
俺は、頭に来て自分の部屋に閉じこもった。
それから、レイ姉が兄貴に、そこまで俺に酷くしなくても良いんじゃないか? とか言って火に油を注ぎはじめた。
俺はいそいそと、家出の準備をはじめる。大きめのバッグに、必要そうなモノを適当に入れていく。それからこっそりと家を出た。友達の家に行きますってメモを残して。
兄貴とレイ姉の夫婦喧嘩は治まるところを知らない。この間なんか、一週間も続いて、俺はその空気の重さに胃痛で死ぬかと思った。そんな思いするくらいなら、野宿の方がまだましだ。そう思って出てきたが、外は雨が降っていて、さらに憂鬱な気分になった。
戻るのも癪なので、仕方なく傘を差して寝られそうな所を探す。
今思うと、すごく幼稚なことをした。兄貴にはごめんなさいと、一言謝って口答えしなければ良かったと思う。
だいたいタイミングが悪いんだ。人が悩んで疲れ得る時にそんなこと言い出すんだから。
あの人、元気かな。
やっぱり俺は、あの人に一目惚れしたんだ。でも、あの人はきっと、兄貴のことが好きで。また、悶々と答えの見えそうもない考えが脳内を支配した。
そのまま、悶々と考えながら歩き続けていると、目の前を傘も差さずに人が通り過ぎて行った。
一瞬で、それが誰だかはっきりと理解する。
「マスターさん……」
思わず、追いかけてしまう。でも、意外にマスターさんは走るのが速くて、見失ってしまった。しかも、今日サボってしまった大学のそば。
教授とかに見つかったら、とてもまずい気がする。
俺は、挙動不審で無い程度に隠れながら、マスターさんを探した。その途中、雨がやんでいるのに気付いて傘を畳む。
「……でさぁ、今日、コーディアルくんさ、休んだじゃない? 私、絶対、ずるだと思うんだよねえ。教授もそう思いません?」
結構近くで声がした。
振り向くと、そこには同じゼミの子とそのゼミの教授がいた。傘を畳んでいた手が止まる。
出来てるって本当だったんだ……。じゃなくて、さっさと隠れないと。
慌てて、裏路地に入った。
そこには、偶然にもマスターさんの姿がある。でも、マスターさんはしゃがみ込んで、何かぶつぶつと言い続けている。
少し、いやかなり不安になった。
「あれ、あなたは……」
わざとらしい言葉が自然に漏れた。
しゃがみ込んでいた人は、ものすごい早さでこちらに視線を寄越した。
「あ、……」
青白い困惑したような表情を浮かべている。
元気、ではなさそうだ。でも、さっきの雨でマスターさんの着ているシャツが肌に張り付いていて、どうしようもなく扇情的に見えた。
「あ、やっぱり。あのバーのマスターさんですよね? どうしたんです?具合でも悪いんですか? 真っ青ですよ?」
口が勝手にしゃべり出した。
「いや、大丈夫」
本人はこちらを見上げて、そう言ったがどう見ても大丈夫そうではない。
急にマスターさんは立ち上がって、そしてこれでもかと言うほどよろけた。
あわてて、その体を抱き留める。自分も濡れてしまうが、そんなことは気にしない。
「あっぶな。救急車呼びましょうか?」
本気でそう思った。
「大丈夫だから」
そう言って、マスターさんはもがきだした。腕の中のマスターさんは、冷たくて細くて柔らかくて女の子みたいだった。その感触に、心臓が急激に動きを早める。
俺、大丈夫かな。思考が親父化してないだろうか?
「って、説得力ないし。送っていきますよ」
それでも、たいした力ではなく、俺の腕から抜け出すことは出来なかった
「いや、いいから」
俺の提案に、少しも耳を貸さないマスターさんに少し呆れて、悪戯をしたくなってしまう。
「え~……」
そう言って俺は、腕の力を一気に抜いた。
「ひぅっ」
そうしたら、ぐらり、とバランスを崩して倒れていく。
「よっと。ほら、全然大丈夫じゃないじゃないですか」
その倒れっぷりに驚きつつ、また、マスターさんを腕の中におさめた。
正直、ドキドキする。大好きな人が腕の中にいるんだから、当たり前だ。
「いい、もう離して」
こっちのそんな気も知らないで、マスターさんは俺の腕を押しのけようとする。
「そう、じゃ救急車を呼ぼうか」
もう少し、このままでいたい。そう思ってしまうのは、不毛なことだろうか。
でも、悪戯はまだ終わらない。片手で、マスターさんを押さえて、空いた手でケータイを取り出す。
「えっいや、いいから! ホント大丈夫だからっ!」
マスターさんは、必死に俺の手からケータイを奪おうと手を伸ばす。が、俺の方が背が高いから、マスターさんの手は空を切るばかりだ。
「じゃあさ、送らせてくれる?」
マスターさんが、僕の手のケータイに夢中なのを承知で聞いた。もちろん、この人はこのままで帰らせたら家までたどり着けない気がしたからだ。
「わ、分かったから!だから止めてっ!」
「本当に?」
からかうように、もう一度聞く。
マスターさんの視線は、俺の視線とは交わることはなく、ずっとケータイを見つめていた。それはそれは、必死の形相で。
「うん、ホントホント……あ」
やっとここで、自分の言ったことの意味に気が付いたらしい。表情がこわばっている。それでも、ケータイから目を離さない。
「お、お前……」
少し顔を赤くしながら、にらみ上げてくる。やっと視線が合った。
うわ、上目遣いは反則だ……。なんだか、いかがわしい思いが心の底をちらついた。
怒った顔にも、可愛らしさを感じてしまうのは、もう末期なのだろうか。