ピアノソナタ「月光」
「宇宙という壮大な書物は、数学という言語で書かれている。」
無言歌集第五巻第六番イ長調「春の歌」作品62-6。真ん中に堂々とピアノを構え、それ以外に目立ったものは何も置かれていない、窓があるだけの無機質な部屋。そこにいつからか、椅子と机を持ってきて、今日の宿題をこなす。たまにメロディーを口づさみながら、グレースはよくそう言った。そして、最後にはいつも決まって、同じセリフで締めくくる。
「セレネ、君の名前には月の意がある。ふふ。選ばれた名前だね。綺麗だ。」
セレネ。俺は自分の名前があまり好きではなかった。小さい頃から、女みたいな名前だと揶揄われたし、月や星座なんていうロマンチックなものより、フットボールや、ゲームなんかが好きだったから。どうせなら、メッシとか、ピーターとかにしてくれればよかったのに、とも思っていた。でも、あんたがそういうなら、まぁ悪くはないかもな、と思う。窓から雨の降る音がした。
「おや、雨が降ってきてしまったね。残念だけど、今日はここまで。セレネ、気をつけて帰るんだよ」
グレースはピアノの演奏をやめ、蓋をそっと閉じ、カーテンを隙間なくピシッと閉める。俺は持っていたペンを机に置き、教科書を閉じた。
「グレースありがとう。またくる」
「うん。ああ、セレネ、この前持ってきてくれたチョコレート、あるだろう? あれを、今度でいいんだ。また持ってきてくれないか?」
「気に入った?」
「とても」
グレースの家の門を閉じながら、グレースの言葉をあたまのなかで繰り返す。
雨は嫌い。晴れは普通。雪が好き。虹が出るとカーテンを閉める。数学が好き。国語は嫌い。黒が好き。白も好き。赤は嫌い。チーズケーキは嫌い。肉も嫌い。でもササミは好き。グレースとこうして会うようになってから、だんだんと彼の好き嫌いをわかるようになった。好きと嫌いがはっきりしてる彼には、無駄がない。いつだってその二択で最適解の答えを出す。
じゃあグレース、俺のことは好き? それとも嫌い?
グレースはなんて答えるんだろう。雨はその日一日中降りつづけていて、太陽がようやく顔を出したのは二日後だった。この二日間、宿題を進めようにも、耳馴染みの声と音がそばにいないので、なかなか進まず、仕方なく大雨のなか、チョコレート屋さんに行ったり、珍しく本なんか読んだりしてみた。それでも集中は長く続かず、結局心地よい雨の音をBGMにうたた寝をした。
「せんせ」
ホームワークでわからない問題がある時、決まって俺はグレースのことを、「先生」と呼ぶ。そうすると、ピアノを弾いているグレースの手は止まり、体の向きを変え、俺の話を聞く体勢になってくれる。
「ん?」
「宇宙は数学という言語で書かれているんだよな」
それはグレースの口癖であった。
「そのとおり」
「じゃあ、どうして量子力学や、惑星の軌道なんかを数学で表すことができる? 数学ができるよりずっとまえに、宇宙は生まれたのに、それよりずっと後からできた人間の脳が、数学が、宇宙を表すことができるのはなぜ?」
ホームワークに落ちる鉛筆の影が、ずいぶん長く感じた。
「ふん」
グレースは椅子から降りて、カウンターに向かう。
「素晴らしいよセレネ。君の問いは正しい。これは人類最大のミステリーのひとつだ。まずは君の考えを聞きたい。なぜだと思う?」
「それは……どうだろう。先生に聞く前に自分でもいくつか調べてみた。」
「ほう、プラトン主義や構成主義について出てきた?」
「うん」
「それで?」
「どれもあってるような気がするし、違うような気もする。」
グレースは、カウンターに置いてあるマグカップに手を伸ばす。俺も真似して、温かいココアが入ったマグカップに手を伸ばし口にする。グレースと同じものが飲みたい、と言ったのに、グレースは微笑むだけで、俺にはいつもコーラとか、ココアをいれる。少し不服だが、コーラなんて飲まないグレースの家の冷蔵庫にコーラの瓶が置いてあるのはそれはそれで優越感だ。
「そうだね。というより、正解を確かめる術がないんだ。」
「グレースはどう思う? どっち派?」
「そうだな……。あえて結論を出すならば、どちらでもない。」
それは、好き、嫌い、二者にキッパリと分けたがるグレースにしては、珍しい答えだった。
「へぇ珍しいね」
「ふふ、珍しい?」
微笑むグレースの造形は朗らかでひどく美しい。
「セレネ、僕はね宇宙が好きだよ。それから数学も。どちらも愛している」
「知ってるよ」
学会や研究会を控えたグレースは、俺のことなんか何日もそっちのけで、なにやら難しい数式や研究に夢中になる。そんなこと、昨日今日に始まったことではない。
「でも、それら全てを、なんでも知りたいわけじゃないんだ。好きだからこそ知りたくないこともある。」
「ふうん。」
「答えを出すなら、数学的宇宙仮説がしっくりくるかな。」
「数学的宇宙仮説?」
「そう。全てが作り物で、宇宙はシュミレーションゲームのようなものなんだ。ゲームのなかで、どれだけプレイヤーである人類が進化しても、ゲームの背景にあるプログラムコードにたどり着くことはできない。結局、僕も君も、全てが嘘なんだ。だからこそ、僕らは宇宙に魅せられる。だからこそ、宇宙はずっと美しいのかもね」
もちろん、証明はまだされていないのだけれど、と付け加える。
グレースはなにやら難しい数式を説明し出した。アインシュタインの相対性理論やら、フィナボッチ数列やら。グレースの言っている言葉、その全て理解したいけれど、俺には難しくて、本当の意味でわかるようになるのは、まだまだ先になりそうだ。残りの飲み物を勢いよく一気に飲み干す。そうか。俺たちは作り物なのか。それならば、感情の不具合も、身体の不調も納得がいく。作り物ならば故障品はつきものだ。
「いい飲みっぷりだね。おかわりは?」
「グレースと同じもの、ちょうだい」
グレースは仕方ない、とでもいうように片眉を下げ困った顔をした。そして、少しだけだよ。と言いながら、飲みかけのマグカップを俺に差し出す。それは砂漠でみつけるオアシスよりも、恵の雨よりも、俺にとってなにより貴重なものだった。ピアノソナタ「月光」第一楽章。グレースはまたピアノに向かう。
「セレネ、君はなにになりたい?」
ショパンエチュードOp.25-11。
いつも穏やかなグレースが、その日は少し苛立っていた。もちろんグレースは人に苛立ちを見せたりしない。八つ当たりなんてもってのほかだ。人に機嫌をうかがわせ、気を使わせる、なんてことはどうみたって美しくない。グレースはいつだって美しいものが好きだ。ただ、その日はいつもより少し、ピアノを弾く音が大きかったり、呼吸が浅かったり、そういう、きっと俺にしか気がつかない些細な変化が少しだけ前に出ていた。
「なんで?」
「きみの美しい未来の話が聞きたいんだよ」
「じゃあせんせ。問題。」
俺はペンをおいてグレースの方をみる。
「俺はなにになりたそうにみえる? なにになれると思う?」
グレースは椅子の座る角度を変え、俺の顔をじっくりと、しばらく見つめた。
「ふうん。面白い問いだね。」
「でしょ。正解したら、チョコレートをあげるよ」
「それははずせないね」
そういうとグレースはぶつぶつと独り言をこぼし始めた。彼の規格外の脳みそはいま、少しの間だけ未来の俺をみているのだろう。それは気分のいいものだった。しばらく経って、結論がでたのか、うん。と呟く声が聞こえた。
「セレネ、君はなんでもなれそうだ。モデルでも、俳優でも、ピアニストでも。もちろん社長もね」
「そう?」
モデルや俳優、社長はともかく、ピアノは弾いたこともなかった。ただグレースの演奏を聴いているだけだ。
「もちろんさ。君はいい脳みそを持っている。それから美しい容姿もね」
脳みそは自分でもよくわからないが、容姿はそうだろうという自覚があった。自分の微笑み一つで店員の機嫌が良くなることはよくあったし、ラブレターは机に入りきらないほどもらった。一般的に俺は美しいとされる顔なのだろう。でも、どんなに美しい容姿を持っていたって、グレースが俺を美しいと思わなければ意味がない。
「俺の顔、美しい? 先生でもそう思う?」
「そりゃあね。セレネの美しさを理解できない人間は、今すぐ病院に行くべきだと思うよ。頭と眼科だ。」
「ふーん。」
グレースは僕をみて少し笑う。
「なんで笑うの」
「ああ、すまない、馬鹿にしたわけではないんだよ。」
グレースはクスクス笑うというより、くふくふ、という表現が似合う声で、さらに笑った。
「セレネ、君の美しさはグリゴリー・ペレルマンみたいだね。」
「誰それ」
グレースは、百年間誰も解けなかったという数学界の超難問「ポアンカレ予想」を解いた人物、グリゴリー・ペレルマンについて説明してくれた。まあ、そんなすごい人に例えられたので正直悪い気分ではなかった。俺はスッキリご機嫌で、ペンを回す。
「セレネはきっとこの先、みたことも感じたこともない未知の体験を驚くほどするんだろうな。羨ましいよ」
「なにそれ、先生だってそうじゃん?」
「ううん。僕はもう大人だから」
グレースはそう言ったけど、グレースはとてもじゃないが大人にはみえない。まるで大学を卒業したばかり、もっと言えばティーンエイジャーにもみえる。隣に並んでも、まずグレースが年上にはみえない。同級生の友達だと思われるだろう。今度は俺がクスクスと笑う番だった。
「セレネ、なに笑ってる?」
「ごめんごめん、なんでもないよ。それで先生、答えは?」
「君はなんにでもなれる。どこへでもいける。違うかな?」
「ファイナルアンサー?」
「ファイナルアンサー」
「半分正解で、半分不正解。ご褒美のチョコレートは半分こね」
カバンから、チョコレートを取り出す。グレイスのお気に入りのチョコレート。
「おお、惜しかったか。残念だよ一人で食べれると思ったのに」
イタズラに笑う。
「それで、正解は?」
「それは未来のお楽しみだよ」
なんだ、それは! と言ってグレースはまた、くふくふ笑った。花のように笑う人だ。チョコレートを嬉しそうに割って食べるグレースを盗み見る。ねえ、グレース。俺はあんたがいたら、なんでもいいよ。会社員でも、軍人でも、なんでも。あんたを養いたいから、ニートは困るけどさ、一緒にいてくれさえしたら、なんだってできると思うんだ。世界征服でも、宇宙戦争でもきっと負けないよ。あんたを守ってみせる。
気がつけば外は暗くて、チョコレートを全て食べ切ったグレースは、ピアノには向かわず、窓の外をみた。
「快晴だよセレネ」
夜に快晴という表現は少し変な気もするけれど、嬉しそうなグレースに俺もつられて嬉しくなる。
「ん。随分久しぶりな気がするね」
「ふうん。そうだね。そうだ、前より新しくしたんだよ、セレネ。君もきっと気に入る」
グレースはなにか嫌なことがあると、新しいものを買う癖がある。トースターだったり、掃除機だったり、観葉植物だったり、それを前に指摘したところ、「何かを手に入れることで、手に入れられなかったものの欲求を満たしているのかもね」と言われた。結局その購入品たちが溜まっていく一方なので、せめて小さい買い物のした方がいいよ。と助言したばかりだと言うのに。グレースは何を手に入れられなかったんだろう。
「さあ行こうか」
窓から、風が運ばれてきて、グレースは笑っていて、それだけでもうよかった。子供のように無邪気な顔をしたグレースに手を引かれ、俺たちは二人で天体観測に出かけた。グレースの運転はとても心地よい。幾何学についての説明や、ニュートンの美しさについての説明を聞いていると、あっという間にいつもの丘に着いた。「この話はまた後で」そう言うと、グレースは真っ先に車から降りる。俺たちは二手に別れて、それぞれ準備を進める。俺は車の後ろのトランクから、シートを取り出す。グレースは天体望遠鏡を調整する。その間に、火を起こして、持ってきたお菓子や飲み物を並べる。
「セレネ、おいで」
天体望遠鏡の調節はグレースの役割だ。調整を終えたグレースから声をかけられると、そのまま天体望遠鏡を覗いた。
「君の星だ」
真っ白な星、月。なんだか凸凹してるけどさ、それでも綺麗だった。俺の星、なんてグレースはよく言うけど、この星を、俺のものだなんて、とてもそんなふうに思えない。実はグレースの方が欲張りなんだ。
「どう? 見えるかな?」
「うん。うんすごくいい。天才だ」
何が天才なのかよくわからなかったけれど、そんな言葉が溢れた。
「クレーターまでくっきりみえる。いい快晴だよ。今日は」
グレースは満足そうに、すぐそばにひいてあるシートにそのまま寝転ぶ。俺も天体望遠鏡から月や星をしばらく眺めた後、グレースの隣に寝転ぶ。グレースは星を見上げていて、なんとなく遠くに行ってしまう気がして、慌てて話しかけた。
「せんせ、宇宙人っていんのかな」
「宇宙人?」
「そう。宇宙人。」
「ふうん」
グレースは深く考える時、「ふうん」と口にする。一般的に「ふうん」は納得行った時や言ってない時に口にする「へぇ」に似ている気がするけれど、グレースにとっての「ふうん」は思考する時の「うーん」と同じニュアンスだ。
「僕はいると思うな」
グレースは確証のないものが嫌いだと思っていたので、驚いた。
「意外」
「そうかい? こんなに壮大な宇宙なんだ。夢くらい見てもいいだろう」
「てことは、やっぱりいないの方に傾いてるんだね」
グレースはくふくふ笑う。
「仮に、宇宙人がいたとして、どんな言語を発すると思う?」
「うーん……。英語、は伝わんないかもね。もちろんフランス語もロシア語もだめだろうし、先生の好きな日本語なんて、もっとダメだろうよ。」
グレースは年に一度ほど、一人で日本に行く。なにをしに行っているのかわからないけれど、お土産にいつも変な靴下を買ってくる。金の鯱鉾靴下や、グリコの靴下。若干馬鹿にされているのではないか? と思うけれど、くふくふ笑って、似合うよ、とグレースがいうのだから、捨てられない。
「そうだね。残念ながら日本語はマイナーな言語なんだ。」
「じゃあダメだね」
「世界、いや、宇宙共通の言語が必要。なんだと思う?」
「共通の言語、芸術? いやわかった。数学だ」
音楽は世界共通の言語だと、授業で習ったが、数字もだ。
「ふうん。セレネ、excellent. Ten plus five equals fifteen. عشرة زائد خمسة يساوي خمسة عش 十に五を足すと十五。様々な言語で言えばこうだが数式で言えば10+5=15実にシンプルで分かりやすいね」
まさか、大気のない宇宙で音は発せられない。でも数学は鳴る。
「さらに言えば、素数だ」
「素数。そっか、一とその数でしか割れない。ってんのは宇宙共通認識」
「その通り。素数に、強いては数学に言語はいらないんだ」
「ふうん」
いまの「ふうん」は納得の意。グレースは俺の答えに満足そうに頷く。
「じゃあさ、もし宇宙人がいて、あの星から電波か何かで規則的に2回、3回、5回、と素数を送ってきたら、なにか知的な生命体がいるって証明になるよな。」
「そうだね。そうなれば我々は歴史的な発見をしたことになり、教科書に載るかもしれない」
「ははっ。数学は宇宙人と友達になる最初の言語になるってわけか」
グレースは少し驚いた顔をした。そのあとまた、くふくふ、と笑った。
「期待以上の答えだよセレネ。」
「だろ。せんせ、数学者のあんたは誰よりも多く友達を作れんだね」
俺の言葉にグレースは今度は笑わなかった。ただ、俺の顔をじっと見て、そのあと静かに微笑み、また、星をみた。
「僕のことを宇宙人は受け入れて理解してくれるだろうか。」
「せんせ、何言ってんの。俺は宇宙人じゃないけど、あんたのことを理解してるよ」
グレースは寂しそうに笑って、僕の頭を撫でた。いつもの子供扱いかと思い、振り払おうとしたけれど、グレースがあまりに悲しく寂しそうな顔をしていたので、そんなことはできなかった。ただ、真っ直ぐ、グレースに向かって手を伸ばし、俺の頭をなでる腕にふれた。
「セレネ、君は宇宙人だよ。月から来た宇宙人だ」
また、頭を撫でられる。そして、微笑んで、星をまた眺める。あれがデネブ、あれが北極星。
俺はそんなグレースの横顔をみた。いつも黒くすんでいる瞳に、今日は宇宙が映っていた。いまでもこの日の夢をみる。全部、ほんとうは全部がどうでもよかった。宇宙人と仲良くするよりも、グレースと一緒に話したい。将来お金をたくさん稼いで、女に囲まれる方法よりも、グレースが幸せに暮らせる世界の作り方を知りたい。グレースは俺のことを宇宙人だなんていうけれど、宇宙人じゃなくてよかった。グレースが話すその言葉の意味を、そのまま、翻訳せずに理解できる。宇宙人がまだ発見されていなくてよかった。この星に、グレースのことを本当の意味で理解できるのは、自分だけなのだ。あんたに出会えてよかった。自分の人生はそれだけでもう十分価値があるものだと思った。学校に行かなきゃいけないのも、将来について考えなきゃいけないのも、全部なんでもよかった。ただ、どうしようもないほど、美しいものに魅せられて、その色に染まっていくグレースが、好きだと思った。
その日、グレースが演奏するピアノの曲名はわからなかった。グレース、その曲なに、と聴いても、グレースは、ふうん、と言うだけで、なにも答えてくれなかった。ただ、グレースのまとう雰囲気、その一つ一つが、いつもと違うことはわかった。
「セレネ、きみのお母さんはどんな人?」
突然、そんなことを聞いてきた。
「マム? んー、正しい人、かな。いつも正しい。それから、すげー美人。グレース好みかも」
なんとなくそんな軽口を叩く。俺のマムは本当に正しく美しい人だった。俺が月だと、いうなら、彼女はアインシュタインだ。
「それはないね」
「なんで?」
グレースはなにも答えず、また、質問を重ねた。
「セレネが生まれた日は満月だったのだろうか。それとも新月?」
「さあ、聞いたことないや。どうしたのグレース」
子は子で親は親。グレースはそう言う。子供は親のものではない。逆もまた然り、家族といえど、絶対的に違う個体であり、その人格に影響を及ぼせても芯を変えることはできない。グレースがそういう考えを持っていることはすでに知っている。急にどうしたんだろう。
「君が生まれた日のことが気になったんだ。とても美しい月だったからセレネ、と名付けたのだろうか。それとも、月が見えなかったから光になるようにセレネ、と名付けたのだろうか。なぜルナではないのだろう」
「どっちでもいいよ別に。」
グレースは少し驚いた声を作る。
「おお、セレネ、どっちでもいいことはないよ。名は体を表す。意識しなくても、自然と名の通りに、そういうふうに生きようとしてしまうんだ。」
「じゃあ、光になるように、じゃない」
美しい何かに例えられるより、グレースに、その美しさに焦がれて欲しい。
「うん。そのほうがセレネらしいね」
「先生は?」
グレースがピアノに夢中になる前に、慌てて聞いた。
「先生はなんでグレース?」
好きな人の名前はなんとなく調べてしまう。ネットで検索して出てきたのは「上品」「感謝」「思いやり」どれもグレースらしくてグレースらしくない。
「ふうん。」
グレースは、カウンターにむかって小さいチョコの包みを一つ開ける。
「セレネ、ラテン語は知っている?」
ラテン語、古代ローマ帝国で使われていた言語、と言うことは知っている。
「いや、知ってるけど、俺が話せるわけないじゃん」
「そんなことはないよ。今でも学術や医術で幅広く使われているからね」
それでラテン語がなんなのだろう。
「ラテン語が意味らしいね。母が言っていたよ。」
「グレースのお母さんはどんな人?」
それは本当に珍しいことだった。こんなに一緒にいるのに、グレースの小さい頃、家族のこと、俺は何も知らないし、グレースも話そうとはしない。とても、とても綺麗だったよ。とグレースは答える。
「グレースのこと大好きだったんだな」
「そうかもね」
そうだと思う。そうじゃなきゃ、名前に意味なんてつけない。
「でもなんでラテン語なんだろう。古代の言葉なんだろ?」
「バチカン市国ではまだラテン語が公用語として話されているよ」
「へえー。せんせい、バチカン市国にいったことは?」
「まだないよ」
「じゃあさ、俺が成人したら一緒に行こうよ。バチカン市国。ここからどれくらいかかるんだろう。あと知ってるよ。ヒューストンも。」
グレースは、微笑んだ。それは楽しみだね、と言って、マグカップを口に近づける。
ほんのりブランデーの香りが広がる。そういえばグレースは香水が嫌いだった。あれは確か去年の俺の誕生日だ。グレースの家を訪れるやいなや、すぐさま車に乗せられ、いろんな店を回った。スーツの仕立て屋や、腕時計の有名店、高級ブランドに、アクセサリーショップ。なんでも好きなものを贈ろう、とグレースは言ったけれど、香水だけは難色をしめした。結局俺は小さなパールのネックレスを買ってもらった。それは日本製のもので、グレースは、パールを選んだ俺を意外そうに見た後、微笑んでくれた。
「君のブロンドによく似合うね。」
そのあとのディナー用にとスーツも買ってくれたけど、パールのネックレスはいまも大切に部屋に飾ってある。
「うん。いいね。楽しみにしているよ」
今度はよく知っている曲だった。ドビュッシー「月の光」。
「セレネ、君の曲だ。とても美しい。ドビュッシーもクラシックも美しい。けど僕はこの曲が一番好きだよ」
なんとなく、返事ができず、そのまま鍵盤に向かうグレースに、ただ一度頷いた。また、どこからかブランデーの香りがする。グレース、香水使うようになったの? それとも誰か別の人がここにきた? 聞くことができないまま、その匂いを消すかのようにコーラを口にした。
続きます。




