今は亡き子爵令嬢イリスが,婚約者を殺した理由
夜の森は人が立ち入るべき場所では無い。
魔物や複雑な地形は、夜目がきかない人間にとって昼間よりもはるかに危険だ。
しかし、夜の森は私には味方をする。
夜には人の足は止まり、1日の疲労から注意も散漫になるからだ。
そしてなにより、夜の闇は私を覆い隠してくれる。
やがて、ミーアはターゲットを見つけた。
真っ白な肌に長く美しい黒髪、紅い瞳。
少し薄汚れてはいても、整った顔立ちと荒れの少ない手は、彼女が良家の息女であると主張している。
彼女は座って焚き火の火を見つめていた。
一見弱っているようにも見えるけど、なにか強い意思を秘めているような、そんな目で。
私はそんなターゲットに少し興味を持った。
だってその目は、箱入りの貴族令嬢が人を殺したときにする目では無いから。
そう、彼女は人を殺した。
だから彼女は私の暗殺対象になったのだ。
彼女ーーイリス・ガル子爵令嬢が殺したのは、婚約者だったフィリップ・マールス伯爵令息。
イリスは彼を殺した後、家族にも何も告げずに姿を消したらしい。
ミーアにはイリスと話してみたい気持ちもあったが、万が一にも逃げられてはいけない。
私は腰の短剣に手をかけて,地を蹴り、イリスの首に刃を当てて、イリスの首をーー浅く切り裂いたところで、その手を止めた。
「…ふふ。殺さないの?」
「死にゆく人をわざわざ殺す趣味はない」
近づくまで分からなかったが、イリスの顔色は明らかに悪かった。
また、意識すれば感じ取れる、異常に少なくなった魔力と所々にある魔力の流れの澱み。
そこから導き出されることはーー
「スモールスコーピオンの毒か」
「ええ、そうよ。流石ね、暗殺者さん」
スモールスコーピオン。
魔物の一種だが、見た目は普通のサソリとあまり変わらない。
最大の特徴は、強力な魔法毒を持つことだ。
刺されたものはじわじわと弱り、2日程度で死に至る。
「一昨日の夜中に刺されたの。今日の夜か、明日の朝には死ぬわ」
「そう」
ぐしゃり。
今まさに私を刺そうとしていたスモールスコーピオンを踏み潰す。
きっとイリスを刺した個体だろう。
獲物が死ぬのを近くで待っていたのだ。
ぐりぐりと踵で踏みつけて、懐に忍ばせてあった毒針で地面に縫い付けた。
いくら生命力が強くても、これでそのうち死ぬだろう。
その様子をじっと見ていたイリスがポツリと言った。
「すごい。強いわね、私もそうだったら良かったのに」
羨むような口ぶりだけれど、私にはイリスは自嘲しているように見えた。
もしくは、後悔しているように。
「…いや、強くなる訓練は辛く厳しい。途中で死ぬ人も多い」
そう、とイリスは口の中で呟いて、それっきり沈黙があたりに落ちる。
その沈黙が妙に気まずくて、ミーアは思わず口を開いた。
「ねえ、なんで婚約者を殺したの?」
イリスは一瞬きょとんとした。
そのあどけない表情を見て、ミーアはイリスがまだ17の少女であったことを思い出す。
といっても、ミーアの方が若く14なのだが。
「う、ふふ…っ。あなたにそれを聞かれるとは思わなかったわ。そうねえ、フィリップ様の浮気が原因、かしら」
「…あんまり良い言い訳じゃないと思うけど」
そうねえ、とか言っている時点で、事実ではない気がする。
「あら、ほんとよ。いくつもの浮気が積み重なってね。それが限界を迎えて、ドンっと」
笑いながら、イリスは押す動作をした。
確か、イリスの婚約者のフィリップは階段から突き落とされて死んだのだっけ。
「まあいいや、そういう事にしといてあげる」
「ふふっありがとう。…話は変わるのだけれど、お願いがあるの。この手紙を、私の妹に渡してくれないかしら」
私に似て可愛い子よ、とお茶目に笑うイリス。
これから死にゆくことをミーアが忘れそうになるくらい、イリスは自然体に見えた。
ミーアもごく自然に見えるように、イリスに尋ねる。
「これ、なんて書いてあるの?」
「あら、あなた字が読めないの?ええっとね…」
夜はゆっくりと、着実に過ぎていった。
「ね、もう一個、お願い。私の屋敷の、裏の湖のほとりに、私の死体、埋めて欲しいの」
気に入りの場所なのよ、と掠れた声でイリスが言う。
「それはできない。死体は依頼主のマールス伯爵に渡さないといけないから」
それを言うのが、なんだかすごく心苦しかった。
「そう…」
イリスはそれだけ言って、黙った。
終わりの時はすぐそこまで来ていた。
「ね、あなた、名前は?聞いてなかった、から」
「ミーア」
「そ、ミーア、ありがとう」
ふわっと、寂しげに、笑って。
イリスは息を引き取った。
明け方より、少し前のことだった。
◇◇◇◇◇
イリスの死から一日後。
私はマールス伯爵邸にいた。
「うむ、確かにイリス・ガルの死体だ。ほれ、報酬だ。受け取れ」
小太りの男は下男に死体の確認をさせて、私に報酬を渡した。
「ねえ、この死体をどうするの?」
「息子の墓前に置いてやるのさ。息子にこいつの死を伝えてやらねばならんからな」
ボンクラだったが、それでも息子だったんだ。
独り言のように伯爵が言ったセリフを、私は聞かなかったことにした。
伯爵は悲しそうに、寂しそうにイリスの死体を通して、フィリップを見ていた。
ああ、あと。
被害者の墓前に加害者の死体を置くのはだいぶ悪趣味だと思う。
言わなかったけど。
私から伯爵に向けた、小さな報復のようなものだ。
◇◇◇◇◇
イリスの死から二日後。
私はガル子爵邸にいた。
「これ、イリスから。あなたに」
「お姉様が…?」
イリスの妹、ミリア。
彼女は恐る恐る手紙を開けて、中を読む。
読み進めるうちに、ミリアの目からは大粒の涙がこぼれ始めた。
「ご、ごめんなさい…!ごめんなさいお姉様。わたっ、私がお義兄様を…フィリップ様を殺したのに、お姉様に押し付けてごめんなさい…!罪を被せてごめんなさい、酷いこと言ってごめんなさい…!」
ああ。
やはりイリスが殺した訳ではなかったのか。
浮気、と言っていたし、ミリアが手篭めにされかかって、抵抗した拍子に…とかの気がする。
イリスは細かい気配りができる人だということは、一晩の付き合いでも分かっていた。
きっと妹が気に病むだろうと思って手紙を書いたのだろう。
今となっては、イリスの目的は分からない事だけど。
ミリアは涙と一緒に後悔と、罪悪感と、わずかな安堵を目に浮かべながら泣いていた。
そんなミリアを刺激しないように、そっと部屋を出る。
そのまま屋敷を後にした。
◇◇◇◇◇
イリスの死から三日後。
私は墓地にいた。
フィリップ・マールス伯爵令息の墓もある、集団墓地だ。
綺麗に飾り立てられた大理石の墓石が大量に、整然と並ぶ様にはどこか無機質さを覚える。
フィリップの墓は金色に彫られた文字や装飾で豪華に飾り立てられていた。
そして、イリスはその前に寝かされていた。
ふと、生きているイリスを陽の下で見たことがない、と気づいた。
そんな自分の考えに苦笑して、そして少し寂しさも覚えながら、私はイリスを抱き上げる。
軽く華奢な体からは、わずかに死臭がした。
清らかな水を湛える湖、その湖畔。
一つの墓が建っていた。
大きめの石を使って作られたその墓石には、拙い文字で一文だけ、こう記されている。
イリス・ガル、ここに眠る