検討の果て
「――婚約を破棄しようかと思っている」
カミヤナギ王国第一王子執務室において、そんな言葉をシノブ・ミチナガが聞いたのは、雲一つない晴天に恵まれた、とある昼下がりのことであった。
「はあ……それはサヤカ・オオノジョウ伯爵令嬢との婚約を、という意味でございましょうか」
「そうだ」
突然の意思表示に、シノブが眉を顰めつつ確認を取ると、先の言葉の発信者であるリョウマ・カミヤナギ――カミヤナギ王国の第一王子は思いのほか真剣な表情で頷く。その顔にどうやら冗談の類ではないと察し、シノブは嘆息を挟んでから答える。
「……では端的に答えますが、まず無理かと」
「何故だ?」
「陛下がお認めにならないからです。殿下とサヤカ嬢の婚約は陛下がお決めになったこと、如何に殿下でも勝手にどうこうするのは不可能です」
「俺が直訴しても無理か?」
「貴方様が第一王位継承者であり、サヤカ嬢が王妃としての教育を受けていらっしゃる以上はそうなるでしょう」
シノブの返答に、リョウマは無言のまま視線を向ける。解説をしろ、というサインを示す彼に、分かっているだろうに、と心の中で呟きつつ、シノブはまた口を開く。
「前提として、このまま何事も起こらなければ、リョウマ様が次期国王となります。すなわち、リョウマ様の婚約者は次期王妃――王と同じく、国の顔として立たれる立場となりましょう。一国の代表としてある以上、国王も王妃も並みの貴族のそれ以上の振る舞いや知識が望まれるのは必至。故に、両者には幼少のころからそれ専用の教育が施されたことでしょう……それこそ、相応の人員、相応の時間をかけて」
「つまり?」
「二度手間は御免、ということです。現在殿下とサヤカ嬢は共に十八、聞き及んだところ、お二人が出会われてご婚約を結ばれたのは六歳のころ。仮にどちらかが今の立場から退かれた場合、新たな候補者にまた十年かそこらの教育を施すのは手間が過ぎます」
「今から十年もかけるわけがないだろう。おそらく長くても五年程度だ」
「それはつまり、それだけ圧縮して教育を施すことになるということです。誰の立場で見てもかなりの負担がかかることになるでしょう。ああ、候補者がお二人ほど聡明でなかった場合はなお悪いでしょうね。無理を通した結果お二人より劣ります、では目も当てられません。なんにせよ、陛下がお二方のご婚約をお考え直しになることはないかと」
そこまで言ったところで、シノブは深く息を吐く。そこに残念の感情が乗っているのは、リョウマの表情から返答に納得がいっていないことが分かったからだ。理解していないわけでは流石にないようだが、どうやら感情面での納得が出来ていないらしい。そのことに心の中で嘆息を重ねた時、ふとリョウマの言葉の中にあった不審点を思い出した。
「……そういえば殿下、先ほどは婚約破棄と仰っていましたが、解消の間違いではございませんか?」
「間違いじゃない、破棄だ。お前が言った通り、穏便に解消するには父上――陛下を説得する材料がない。どちらかに非があることを証明し、無理やりに通すほかにない」
「そのお考え自体は分かりますが、サヤカ嬢は次期王妃として非の打ち所のない方です。まあ、私は彼女と個人的な付き合いがあるわけではありませんので、プライベートでのそれまでは分かりませんが」
「……いや、そういう場でもサヤカは完璧だろう。少なくとも、俺はそう思っている」
おや、とシノブは眉を上げた。リョウマの発言と意思がどうにも一致していないと思ったからだ。
「では、素直に諦めた方がよろしいかと……もしやと思いますが、殿下は王位継承権を放棄するおつもりではありませんよね?」
仮のこと、として発したシノブの確認に、リョウマはむっつりした顔で黙り込む。その表情に、まさか、とシノブは困惑の表情を浮かべる。
「……本気ですか?」
「出来ないわけじゃないだろう。王位など、弟のどちらかに譲っても別に構わないと思っている」
「それはそうかもしれませんが、陛下がお認めになるとは思えません。言葉を選ばずに申し上げるなら、殿下の我儘程度で揺らぐほど、王位継承権というのは軽いものではないかと」
「……つまり、俺に能力的問題なりがあればいいんだな?」
「無理やり失態を作るおつもりなら、流石に止めさせていただきますが。大体、王位継承権をはく奪されるような真似などすれば、最悪王族からすら抹消されますよ。一平民として生きていくだけのお覚悟がおありますか?」
「それだけの能力はある、と思っている。それに、臣籍降下で済む可能性も十分にあるだろう」
「はあ……」
ついには隠すことなく、シノブは大きくため息をついた。これが仮に同格の相手であれば、流石に呆れ果てた、くらいのことは言ったことだろう。それくらい、リョウマの発言はその正気を疑うものであった。
「……そこまでおかしいか」
「お家騒動を隠すために一生幽閉されるか、あるいは自害を命じられる可能性を見過ごされているようでしたので。それに、臣籍降下が成った場合はともかく、平民に落とされた場合のことを軽く考えすぎです。王族や貴族がすぐに対応できるほど、平民の生活は楽なものではありません。何処かで破綻するのがオチかと」
「それは……誰かに手伝ってもらう、とか」
そう言って、リョウマはシノブの目をじいと見る。どういう意図を込めての視線かは不明だったが、しかし、シノブは無理だと首を横に振る。
「平民に落とされた時点で、後の騒動を発せさせぬために、殿下には去勢なりが施されることでしょう。これは臣籍降下の場合にしても起こりえることです。子を成せぬと分かっている男性に対して、親身になってくれる女性がいるとでも?」
「子が出来ぬのはそれほど不利か……いや待て、何故手伝ってもらう相手が女性だと思った?」
「でもなければ、婚約解消など言い出さぬかと思いましたので。大方、好きな相手と結婚したいとかお思いになったのではありませんか? それ以外、わざわざサヤカ嬢との婚約を破棄したい理由が思いつきません」
「…………そも、好きでもない相手と結婚などしたいものか」
しばしの沈黙を挟み、リョウマはそう言い捨てた。これが本音か、とようやく見えたリョウマの真意に、シノブはまた息を吐く。
「王族だ貴族だと言っても、そもそもは一人の人間なのだ。だったら平民と同じく、恋や愛を求めてもおかしくはあるまい。それはサヤカも同じことだと思う」
「それを呑み込んでこそ、と申し上げる者の方が多いかと。それに先ほども申し上げましたが、サヤカ嬢は非の打ち所がない人物です。仮に好いた相手がいたとして、それを胸に秘めて家や国のために婚姻を結ぶ覚悟はお持ちでしょう」
本来であれば、貴方もそのはずなのですが。そんな意思を視線に込めて見やると、流石にリョウマもバツが悪くなったのか、何度か咳払いをする。だが、それでもなお諦められないのか、リョウマは顔を背けながら、不貞腐れたように呟く。
「ではなんだ。シノブは婚約する時には一目惚れでもしておけというのか」
「可能ならそれがいいかもしれませんが、別に婚約中の交流で絶対に愛が生まれぬというわけでもないでしょう。多少ずれますが、婚姻後に愛を育むこともあるでしょうし」
「他人事だと思って、簡単に言ってくれるものだ」
「いえ? 少なくとも私は、実際にそれを体験しましたよ?」
「……は?」
一拍を置いて、リョウマが背けていた顔をシノブの方に向けた。何故か茫然とした表情を浮かべている彼に、シノブは不思議そうに首をかしげる。
「いや、待て、それはどういう意味だ!?」
「どうもこうも……実はとある男性に一目惚れをしまして。相手方もそうだったのもあって、先日無事婚約しました。いやはや、これでようやく、行き遅れから脱却できましたよ」
そう言って、シノブ――シノブ・ミチナガ伯爵令嬢は安堵の表情を浮かべる。どうにも巡り合わせが悪かったのか、長年婚約者がいなかった彼女であったが、その悩みもようやく解消された。それこそここ数年は焦りすらあった――何故か、彼女の父が婚約者探しを先延ばしにしてきたのだ――が、互いに愛し合える相手を見つけるためだったと考えれば、それも悪いことではなかったことだろう。
「あ、相手は誰なのだ?」
「タガワ男爵家の三男です。形としては私の家に婿入りする形になるでしょうね。まあ伯爵家自体は兄が継いでおりますので、私たちはその手伝いをすることになるでしょうが」
そう告げると、何故かリョウマは勢いよく立ち上がり、更なる動揺の色を見せた。
「俺の下からも去るのか?!」
「はあ。それはまあ、そうなるでしょう。独り身であるうちはともかく、妻としての生活も考えますと、王城での仕事は負担も大きいので――それに、私も子供は欲しいですしね」
ここにきても婚約を渋っていた父の説得にも使った『望み』を告げると、リョウマは何事かを言いたげに口をパクパクとさせた後、突如脱力したように椅子に座りこんだ。そのただならぬ緩急にシノブが思わず声をかけようとすると、リョウマは緩慢とした動作で手を上げ、彼女の動きを制止する。
「いや……そうだな。すまん、今日は面倒な問答に巻き込んだ。婚約破棄のことはまた考えなおすことにする。他にも少し考えることが出来たから、悪いが退出してほしい」
「……承りました」
一体全体、何が起こったのだろうか。一転して静かな声で命じてきたリョウマに困惑するものの、シノブは部下として礼を執る。そのまま部屋を出ようとした彼女であったが、ノブに手をかけた瞬間、ふとリョウマに声をかけられた。
「……言い忘れた。シノブ」
「はい、なんでしょうか?」
振り向き、待つ。そんな彼女に、リョウマはしばしの間を開け、儚げとも取れる笑みと共に口を開く。
「その――お幸せに、な」
「はい、ありがとうございます」
リョウマの祝福の言葉に、シノブは短くそう返し、また一度礼を執る。そして、引き留める様子がないことを確認して、シノブは今度こそリョウマの前から去るのであった。
こういうものなのかな、と書いた結果、ジャンル・キーワード共にどうすればよいのか分からなくなった話。