97 赤と緑
「ねえ! 見て。これ、上手くない?」
いつもは食事中に余所事をしようとすれば注意するサラドが、先に食べ終えて画板に手を伸したテオの絵を見るなり声を上げた。我が事のようにテオが描いた植物の絵を自慢気に見せびらかす。まだ拙さはあるが特徴は捉えられている。
じっと見つめてノアラがこくりと頷く。口を開きかけて、もう一度頷いた。
「ホントだ。細かいところまで良く見てるね。うまい、うまい」
シルエはもぐもぐと口を動かす合間に褒めた。微妙におざなりな返事だが、テオは「えへへ」ともじもじと身を捩る。
「お店で見たのはここに何か書いてあった」と説明するテオに「書き加えていい?」と断りを入れて、サラドが食事を中座して立ち上がる。戻ってきた時にはテオの写生した植物に名前や特徴、分布、薬としての効能、処方の仕方、注意点等が付記されていた。読み書きについては学習中のテオに文字を指し示しながら読んで聞かせると、ぱっと笑顔になる。
「お店のみたい! …でも、ここ、本当はもっと明るい色」
「ふーん、じゃあ、アレ使ってみたら?」
ゴクンと飲み込んで、次のひと口パイに手を伸ばしながらシルエが言う。
「あれ?」
「サラドが土の精霊からもらった緑色の粒子。片方は毒が抜けているみたいだし」
緑色の粒子についての見解を話すシルエは「詳しくは食事が終わってからにしよう」と提案した。
食卓を片付け終わり、シルエが薬包紙を二包と膠を準備した。薬包紙にはそれぞれほんの少量の緑色の粒子が包まれている。
「忘れていたわけじゃないんだけどね? んーと…、こっちが普通ので、こっちが『黒いのと煩いの』が来て『キラキラしたものを抜いていった』方だね」
「…。ノアラもちょっと見てくれる? 魔力反応が…」
薬包紙を順番に両手で挟み、集中する。その様子を見てシルエは預かっていた砂入りの瓶も持って来て、それも順番にノアラに手渡した。
「量が少なすぎて確証はないが、こっちは魔力の流れが悪い。付与は難しい」
「そうか。毒も無くなっているんだっけ?」
「うん、そう」
「魔力目的か、毒目当てか…」
サラドが考え込んでいるうちに、シルエは筆を膠につけ、その先端で毒の抜けた緑の粒子を拾う。
「はい。これを色を明るくしたい部分に置いてみて」
シルエの顔色を窺いつつ、遠慮がちに筆をとり、テオは葉の一部にスッとのせた。鮮やかな緑色に葉が活き活きと輝く。
「すごい!」
「いい感じじゃん。ねぇ、サラド、その砂ごっそりもらってきなよ」
「…でも、その緑、絵の具での流通が規制されているらしいし」
「別に盗んだわけでもないし、誰かに売るわけでもないし。もうちょっと何をどうやって抜いたのか調べてみたいんだよね。それにせっかく土の精霊が集めてくれているんでしょ」
「…そういうことなら」
「良かったね。きっと綺麗な緑色が手に入るよ」
テオは嬉しそうに絵を抱きしめた。
紙問屋へ出掛けたディネウと国境の川の中州に向かったサラドとノアラ。作業優先のためとはいえ再び置いてけぼりを食ったシルエはその不満を石臼にぶつけていた。ザリザリと音を立てて挽かれていく鉱石。摩擦熱で微かに鉄の匂いがたつ。
庭の一画は土煙と湯気でもうもうとしている。窯と火にかけた大鍋の熱の側にいると晩秋とはいえ汗ばむ。おまけに今日は風もなく陽射しも柔らかい。良く焼いた土をふるいに掛けて玉や不純物を取り除く手伝いをしていたテオはもう泥まみれだ。
「おーす。紙、買って来たぜ」
「あー、ありがと。ちょうどいいや、ディネウ、これ代わって」
「おい、人使いが荒いな」
「いいじゃん、その腕の筋肉の見せ所だよ」
石臼から離れ、シルエは膠を煮つめていた鍋の様子を確認しに行く。シルエと二人きりでやや緊張していたテオが小さく安堵の息を吐いた。背後から「なんだ、これ堅ぇ」というディネウの声が上がった。
テオがふるった土を鍋に投入し、残った塵を捨て「次はコレね」と白い粉を渡す。テオはその白い粉を目の細かいふるいに入れ丁寧に揺すった。零れ落ちる粉はキラキラと光を弾いている。良く見ると透明のようだった。
「なんだ、テオはすっかりシルエの助手にされているんだな。嫌なら断っていいんだぞ?」
「手伝ってくれるって言うし。無理なことはさせてないし」
テオはプルプルと首を横に振って、恥ずかしそうに俯いた。ふるいを揺する手は止めない。シルエに「テオ、見てごらん」と呼びかけられ、ふるいをそっと置いて大鍋の近くに寄ると、石臼で挽いた粉を鍋に入れるところだった。鍋の中で煮られた赤茶色の土にサラサラと粉を投入し、混じり合うにつれて赤みが増す。
「わぁ…」
「赤にしたんだな」
「木炭でも良かったんだけど、護符も焦げていたからね。万が一、燃える原因になったらっていうのもあるし。家の補修に使うのに保管されていた土が山とあったから。…うん、良い感じの赤。余ったらテオにもあげるからね」
テオは「本当に?」と目を輝かせた。すぐに赤い実をつける植物と紅葉で真っ赤に染まった葉を思い浮かべる。
白い粉に、他にも準備していた資材、松ヤニなどを入れ、ゆっくりとまんべんなくかき混ぜながら、詠唱を紡ぐ。鍋の中がほんわりと輝いている。混ぜる動作に抵抗を感じ始めて、撹拌していた棒を持ち上げると、赤い液体はどろっと粘性があり、ボタッボタッと重く垂れた。
「まあ、こんなものかな。あとは冷まして…」
「一段落したんなら、昼メシにしようぜ。サラドがなんか用意してくれてただろ?」
「そうだね。お腹空いた。テオも顔と手、洗っておいで。真っ茶色だよ」
昼はとうに過ぎて、どちらかといえば夕方に近い時間だった。居間のテーブルには片手間でも食べやすいように、黒っぽい草の実を挽いた粉で薄焼きにした生地に塩漬けにした肉と野菜の酢漬けを包んだものと、温めれば良い状態の豆のスープが置かれている。
「あの版木で何枚まで摺れるかな。摺りながら一枚ずつか、後から何枚かまとめて術を込めるか、どっちが効率的かな。鐘に貼るのはどうするか…」
「そこは、傭兵や自警団の仲間に頼んじまおうかと思うんだが、どうだ?」
「やって貰えるなら否はないよ。護符だと認識もされることになるし。とても僕らだけじゃ手が足りないもんね。それにしてもサラドもノアラも遅いね? どうしたのかな」
「いや、あいつら帰って来ているぞ? 着くなりノアラがサラドを地下室に連れて行った」
「えー、帰って来てたの? 気付かなかったよ。僕に『ただいま』もなく?」
「…お前はもう少し兄離れしろ?」
「今まで散々離れていたし。せっかく再会したのに」
シルエはムスッと渋面で頬杖をついた。
「ねぇ、帰っていたならひと言、声掛けてよ」
「ごめん。ノアラがどうしてもすぐに確認したいって言うから」
「確認って何を?」
「音に共通の紋を見つけたらしくて。それでずっと怨嗟の真似して唸っていた」
サラドの声は少し嗄れている。ノアラにつきあってどれだけ声を出し続けていたのかが窺える。
今回はその場で砂と緑色の粒子を選り分けるのに、ある程度の長時間滞在しても大丈夫なように、ノアラと行動を共にした。不可視の魔薬に頼らなくて済むのはサラドとしても助かる。あれは翌日も肺からの呼気が臭く、気持ち悪くなるほどに不味い。またノアラにもこの土地で魔力に関する某かを感じるかを確かめてもらいたかった。
ノアラはゆっくりと辺りを見回し、首を横に振った。「ただ、気持ちの良い場所ではない」とだけ言って。
清流とは言い難く、死んだ魚が打ち上がる川。河原の石には所々に白い沫、黄色や苔にしては暗い緑色のどろっとした付着物があり、場所によっては鼻を摘まみたくなる匂いもある。国境である中州の向こう側は、魔力の有無云々に関わらず気持ちの良い場所ではない。
風の精霊に助けを求め、緑の粒子をふるい分け、砂はこの土地に返す。さざ波のように揺れる砂を眺めていたノアラが急に何かを閃いたように、パンッと両手で張った鞣し革の上に砂を載せた。
「サラドが聞く怨嗟を聞かせて欲しい」
「え? 怨嗟? でも、明確な言語だったり、低い呻き声だけだったり…それぞれだよ?」
「いろんな類型を試してくれ」
そう請われて土の精霊が集めた砂を風の精霊が選り分け終えるまで、サラドは何も恨めしくもないのに怨嗟の声を上げ続け、屋敷に戻ってもすぐに地下の演習室にて太鼓に向かって唸っていたのだった。
一日に「もう一回」という言葉をこんなにも繰り返されたのは、ノアラが魔術を覚え立ての頃以来だ。
「国境の荒れ地にはひょろひょろだけど草も増えていたし、モンアントの林の中は来春にはたくさん芽吹きがありそうな土に回復していた。またシルエの『浄化の水』も撒いてきたし、次に確認しに行くのが楽しみだね」
「そん時は僕も絶対行くからね!」
改良版の『浄化の水』の効果について報告されたシルエは、一緒に行けなかった不満を露わにした。
「あと、これ…」そう言ってサラドは口鼻を覆うように指示し、緑色の粒子を二種類、広げて見せた。
薬包紙に包んだ極少量ではその違いがわからなかったが、片方は悪魔召喚の時にも使用した金色をはらんだような黄みがかった明るい緑色、もう片方は明るいが黄色みが薄れてより緑が鮮やかで透明感がある。
「これはまた調べ甲斐のありそうな」
色味の違いを確認し終えると金色をはらんだ緑色の粒子はさっさと片付け、透明度のある緑を残した。鞣し革の上に出された粒子の山は小さく、充分な量という印象はない。
「こっちはこれで全部だった」
「…うん、毒はほぼ感じない。無毒かって言われると、気を付けるに超したことはないって答えるけど」
シルエが指先をくるくると動かし粒の感触を確かめる。
「魔力も薄い。たくさん集めれば魔力を引き出すのも可能かもしれないが、元に比べたら雲泥の差がある」
「土の精霊からは『黒いのと煩いの』の情報は得られなかったの?」
「うん。それ以上のことは。もともとあの土地にいた精霊の多くは精霊界に帰ってしまったらしいし、その精霊はあまり人の知識もないみたいなんだ」
「そっか、あの河原の様子じゃ、人も寄りつかないもんね。それじゃあ、こっちで地道に調べるしかないね」
土の精霊は精霊界との行き来だけで、土地を移動することはあまりない。そこから去ればそれまで。葦原だったというあの土地に残っている精霊は少ないし、水の精霊は逃げたという。精霊界に帰って気が向けばまたどこか別の場所に現れることもあるだろうが、現状あの場所に来たいとはとても思えないだろう。
風の精霊にも『黒いのと煩いの』を見なかったか聞いたが「嫌なの、近くにいたくない」と話したくもない様子で逃げてしまった。ただ、それは少しの時間しか留まっていなかったらしい。
国境警備兵が巡回する隣国の防衛地点に来て、毒にもなる成分を着実に短時間で抜いていった者の存在。隣国の関係者であれば見咎められることはないが、土の精霊の様子からしてそうではなさそうだった。
嫌な予感がじわりと胸に押し寄せてきた。