96 護符制作
朝の仕事を一通り終えた後、サラドは作業に集中するため、調薬室にこもった。
なるべく薄い紙に護符の陣をシルエに書いてもらい、裏返しして堅い木の板にピッタリと貼り付ける。ランタンの手前にノアラから借りた傷のない水晶球を置いて光を通し、影が落ちないように刃先を集中的に照らす。滑り止めに床革を敷き、小刀で丁寧に線の輪郭線を彫っていく。手元が狂い細かな線ひとつ失えばやり直しだ。
ランタンの中で小さな火はサラドの役に立てるとクルクルと姿を変えたが「灯りになってくれてありがとう、でもあまり揺らさないでくれると嬉しい」と言われ、おとなしく丸まって居眠りを始めた。
ショリショリと木を削る音が小気味よく響く。切れ味が悪くなれば、砥石に小刀を当てるシュイーシュイーという音に変わる。砥石の上で灰色の水がすぅっと引いた。
シルエは収穫祭で購入した貝の澱をゴリゴリと乳鉢で磨り潰していた。そうしながら魔力反応も確認する。他にも数種、自身の魔力を流しやすそうな素材を準備していた。同時に膠や樹脂も煮詰めておく。
空部屋は他にいくらでもあるのに、何故か居間のテーブルにごちゃごちゃと広げている。
「せっかく何かの実験に使えるかと思ったのに…。あれ? でも、まあ、それも兼ねていると思えばいいのか。量もあまりないし、増強するにはアレを足して…」
ノアラは地下室にこもり、サラドが買って来た太鼓に向かって「あ」「あ」「ああ」とひたすら「あ」と発声して、砂が描く紋を書き留めている。凝り性のため、何かしら手応えを掴むまでは出てこないかもしれない。
テオも庭で植物の写生中。それぞれが作業に没頭する中、静かに時間は過ぎていった。
ディネウがノアラの屋敷から転移で出掛け、帰ってくる度に持ち帰って来た紙の束がテーブルに積まれていく。少量ずつ、厚みや質、色味、大きさも規格がバラバラだった。
「前は例の爺さんの商会で融通してもらっていたんだが、そろそろ変えてみようかと。試しにいろんな所から買ってみてきたんだ」
手漉きの紙は大量には生産できず、庶民が気軽に使えるようなものではない高価な品だ。ノアラが気兼ねなく使えるようにディネウが灯台の町の商会で毎回まとめて用立てていた。
「へぇー、じゃあ、そこはお得意さんを逃しちゃったんだね。ところでコレ、どれをどこで買ったか覚えているの?」
「‥‥。あー…」
「ダメじゃん。気に入った書き心地のがあっても、もう一回買ってきてもらえないじゃん」
「何だよ! 紙なんてどれも一緒だろ?」
つい先程、「試しに」と語ったディネウが食ってかかる。彼がいう「いろんな所」は紙の出来ではなく、今後の取引相手としてどうかを試したようだ。
「違うよー、ペン先がやたら引っかかったり、すぐに茶けたり、虫がついたりして保存に向かなかったり。大きさもさ、丁度良いってのがあるんだよ?」
何種かの紙を一枚ずつ引っ張り出して、さわさわと表面を触って示す。確かに毛羽立ったものに滑らかなもの、白いのから黄色っぽいの、茶色い繊維が混じっているもの、様々だ。ディネウは顔を顰めた。
「神殿ではどうしていたんだ?」
「最初は、僕が気を許すようにか山と積んでくれていたよ。材料もいいのを使っている感じの、白さが明るい紙だったなー。大きさもキレイに切り揃えてあって。そのうち蔵書も見せてもらえなくなるし、書き留めもできないように最低限ってところ。護符は目の前で書かされていたし。ま、表向きはね、従っておいて、やりようはあるよね」
ニヤッと笑うシルエに天使の面影はない。ディネウは急な寒気を感じてぶるっと身震いした。
乳鉢から少量の粉末を取り出し、膠と樹脂を良く混ぜた液体をそれぞれの紙に一滴垂らす。その中から染み込みが良くて滲みがない紙を選ぶ。魔力を流さないように気をつけつつ、スラスラと護符を書く。そして書き上がったものに後から術を込める。陣がほわっと光り、見た目はただの紙切れに戻ってから日に透かして確認する。
「…ん、後付けはできる…っと。あとは木版でも問題がないかどうか」
「色は付けないのか?」
「付いてる方がいい?」
今の状態では濡れた部分が極薄い茶色でテカテカしているだけ。紙を斜めにして光が当たる角度を変えても、何が書かれているかまではわからない。
「仮に誰かが鐘に貼られているのに気付いても、護符だってはっきりわかれば剥がされないんじゃねぇか」
「そういうもの? じゃあ炭でも混ぜとく?」
「何が適しているのかは俺にはわかんねぇけど」
色を付けるのに何か丁度良い物はないか探そうと倉庫に向かう途中でサラドが調薬室から出てきた。版木の表面に息を吹きかけて滓を払っている。
「一応、出来たんだけど、余計な線が浮き上がったりしないか一回、刷って確認してほしい」
サラドが彫り上げた版に溶液を刷毛で塗り、紙をそっと被せる。紙がずれないように気を付けて、しっかりと摺り上がるようにクルクルと円を描くように表面を擦るのは、常緑の葉の表面を炙ったもので綿を包んだもの。葉脈が平行に並んでいるため強度もあり、擦っても紙を傷めない。草のような細さから見上げる高さになる太さまで数種あるこの植物は、茎の成長も早くて真っ直ぐに伸び、しなやかでもあるため籠や笊などいろんなものに加工がしやすい。弓につけた笛もこの茎を使用している。
「あー、僕、この匂い好き。昔よく携行食をこれに包んでくれたよね」
炙った葉の香りをシルエがスンスンと嗅いだ。
「へー、いろんな道具があるもんだな」
「版木の入手について聞かせてもらった工房で、こんな感じの物を使っていたから、真似してみた」
「まさか、ちょっと話をしただけで、工程や技術を探られているとは思っていないだろうな」
「探るなんて…結果的にはそうかもしれないけど…」
複雑そうな顔でサラドが苦笑した。ぺりっと紙を外し、そこにシルエが手をかざすとほわっと護符の陣が光ってすぐに収まった。軽く閉じた手にすっぽり収まるくらいに小さな陣を構成する様々な文字と文様は過不足ない。細かな線は角が膨らみ、寸分違わず均一とは言えないが、却ってなんとも味わいがある仕上がりだった。
「うん、問題なさそう」
シルエは満足そうに頷くが、ディネウにはやはり溶液の極薄い茶色がテカテカしているようにしか見えない。
「テオはまだ庭? ちょっと迎えに行ってくるね」
サラドは右の手の平を揉みながら外に向かった。そろそろ夕刻も近い。日が傾きだすと一気に沈み、庭先といえども見通しが悪くなる。日没後は急激に冷える季節でもある。
「ちょうどいいから実験もしとこう」
シルエがディネウを引っ張って地下室に降りていく。白くツルリとした石材の壁に囲まれたドーム天井の演習室。その隅でノアラが「う」「う」「うぅー」と「う」の発声を繰り返している。
「ノアラ! ちょっと付き合って。うーん、あれ! あの一撃で命を刈り取る術」
「?」
「ディネウはこっち持って」
手渡されたのは、術を後付けできるか確認用に手書きした護符だ。
「待て! 何する気だ?」
「そりゃあ、護符が正しく発動するかどうかの実験だよ」
木版で刷った方の紙をピラピラと振りながらシルエがあっけらかんと言う。
「…嫌だ。人に向けてなんて…無理」
尻込みしたノアラが拒否をするが、シルエは「大丈夫だよ。僕の術だって負けない」と譲らない。
ノアラが使う魔術は力の源により二種類に大類される。火、水、風、土に因るものとそうでないもの。魔術書に記載された基礎は全て前述の力をぶつける攻撃術。一方は自然の力とは異なる難解な術。
封印が施された文献を遺跡から発掘したのは偶然だった。封じられていたのは禁術とされた古代の魔術。対象者に精神的負荷を与える魔眼の術、不可視の術、転移の術などもこれらに含まれていた。
己の魔力を基本とし、大きな力を必要とするため使える者は限られていたようだが、それでも規則を設けるだけでは足りぬと、魔術師の廉直や秩序を乱す『邪法』と断じ、封印され、秘せられたらしい。確かに、そこら中で転移や不可視などを使われたら事故の元であるし、犯罪の温床ともなるだろう。
シルエが望んだのは、死神の如く一瞬にして命を奪う必殺の術。ノアラが使うとしても、屠殺や里まで下りてきてしまった害獣に対してなどだった。魔術を繰る人型の魔物や魔人には術の気配を察せられやすく成功率が低い。魔力の消費が大きく、詠唱も長めで難解。そのため殆ど使用したことはない。
ノアラとしては、できれば絶命させる術ではなく、サラドのように瞬時で眠らせる術が欲しい。
「大丈夫。防御壁も精神力向上もかけてあげるから。魔人と同じような術でないと本当に防げるかわかんないもん」
「いや、でも俺が持つ必要はねぇだろ」
「命ある者を標的にしないと。それに、今のノアラの実力も知りたかったんだよね。…ノアラ、やって」
有無を言わさないシルエの視線と声音に、ノアラは躊躇いながらも構えを取り、詠唱を始めた。緊張につぅっと汗が落ちた。
「負けるべくも無い」
シルエはニヤッと笑う。仲間だからこそ、ノアラの実力を知り尽くしているディネウにはシルエの「大丈夫」に安心はできない。なんとなく左の胸前に護符を掲げていたディネウは、横に伸ばされたシルエの腕が手首を返して彼を指すと、不安が闘いの興奮へ変じるのを感じた。懐かしい感覚だった。
詠唱の後にノアラの腕が振り下ろされ、ぐっと拳が握られる。
高らかな嗤い声のような音が耳から脳を抜け、黒い霧が体表を撫でる。護符が強い輝きを放った。
「ひぅっ」
「あははっ。情けない声!」
「なんだこれっ、すげぇ気持ち悪ぃ」
ディネウが体のあちこちをバタバタとはたく。霧も耳に残る音も一切ないが、血の気が引いた不快感が治まらない。術は正常に発動したが、成果としては失敗。その結果にノアラがほっと息を漏らした。
「うーん、これくらいの術になると一回で焼き切れちゃうか…。でも効果があるのはわかったから成功だね」
手にした護符は摺った方も手書きの方も陣が焦げ付き、細かい文様の部分は失われている。
「い、今、何か不穏な気配が!」
慌てた様子でサラドが地下に降りてくる音がする。それに大声で返事をしようとしたシルエの口をノアラが手で塞いだ。
「もごっ なに?」
ノアラはじっと太鼓の上にできた砂の紋を見ている。先程の術の発動音に因るものらしいが、その後の会話や振動で少しずつ崩れていっている。それに気付いたディネウが手で合図をして、そっと扉を開けてサラドに説明に向かった。シルエも軽く肩を竦めて、階段を軽い足取りで駆け上がる。
実験のために自分たちを標的にしてノアラに術を使わせたことをディネウに暴露され、シルエはサラドにこっぴどく怒られた。
「ゴメンってば…」
「謝るのはオレにじゃなくてノアラとディネウにだろ」
「うう…。ディネウ、ごめんなさい」
まだ寒気が拭い切れないのかディネウは二の腕をさすっていた。
「で、早速だけどこの紙をもっとたくさん買ってこられたらよろしく」
「えっ? どれだ、これ? 因みに何番目に買って来たか、わかったりするか?」
「んー…。三番目?」
「お、おう。三箇所目ってことは…」
積み重ねた紙の層に指を差し入れて紙を一枚引き抜く。見本に渡された紙を手に紙問屋を回った順番を思い出すディネウの表情が「どこだ?」と不安に曇った。
「ねー、サラド、この石、ものすごく堅くて潰すどころか砕けないんだけど、何とかできない?」
「土の精霊に頼んでみるよ」
サラドは表に出て、風の精霊に呼びかけた。サワサワと跳ねた髪の毛先が揺れる。鞣し革を受け皿にしてシルエから預かった石を載せふんわりと手で包み、腕を伸ばす。粉砕した粉が千々に飛び散らないように風で囲い、土の精霊に頼む。ポンッと消音された破裂音がひとつ。風が止むと、サラドがケフッと噎せた。
丸めた鞣し革の包みを解いて中身を確認してシルエに渡す。
「まだ粗い粒もあると思うけど、磨り潰せるくらいにはなっていると思う」
「おおー、さすが。助かるよ。あとは色…どうしようかな」
透明だった石の白い粉末を容れ物に移して、次の石を「はい」と笑顔でサラドに手渡し、シルエは思案した。




