94 絵と歌と酒
脱字修正をしました
サラドはテオを連れて『酒と芸術の町』と謳われるケントニス領の町に来ていた。音の研究に適する太鼓と顔料、それと護符の木版用に平らに切り出された板、木彫用の小刀などを調達予定している。
手始めに顔料や筆など絵画の道具を扱う商店を覗く。裕福な者の趣味、習い事の範囲であれば一般的な品が揃えられているが、専門的なもの、大量購入は望めない。
この町には芸術、文化関連の職人が多く在籍している。但し専門的なものになればなるほど、店舗などない問屋が基本で、個人に対して小売りをしてくれるかどうかは別問題。仲買人に伝手でもなければ入手は困難だろう。
店内をぐるりと見て回る。見本で壁に掛けられた絵をテオが立ち止まって凝視した。植物誌の一頁を額装したもので、美しい八重咲きの花が写実に描かれ、その名前や特徴、咲く時期、分布帯などの説明文が添えられている。
「どうしたの、テオ?」
「あれ、やってみたい。習った草を忘れないように」
「そっか…、うん、やってみようか」
「いいの?」
「いいよ。やってみたいことがあるのはとても良いことだよ。いろいろ試してみような。…と、言ってもオレの稼ぎじゃないから、お礼はノアラに言ってね」
店主と相談して、二枚の板を布で繋ぎ、間に紙を収納できる画板、写生や素描に軽い彩色ができるように水で溶けばすぐに使用できる絵の具――小さな皿状の入れ物に膠や澱粉を練り込んで固めた顔料の基本色が浅い箱にセットされたもの。筆、木炭を用意してもらうことにした。
それらは決して庶民が簡単に手を出せるような値段ではなく、店に入って来た時点で店主はサラドとテオが客になるとは考えていなかった。道楽で絵画を始められるような者にはとても見えない。提示した金額をカウンター上にすんなり置かれ、しばし動きを止め、硬貨が本物であるか確認してしまう。
店主がいるカウンターの背後にある陳列棚には赤から黃、緑、青と少しずつ色味が違う粉末が同じ規格の透明なガラス瓶に入れられ整然と並べられている。人目を引くためか、ちょっと良い物に手を出してみたいと心を擽るためか、どちらにせよ売る気はあまりなさそうだ。
「後ろの瓶を見せてもらってもいいですか?」
「こちらは、匙すりきり一杯からの量り売りでご希望があればこちらでご用意いたします。色により値段は違いますし、扱いも簡単ではありませんよ」
店主は遠回しに初心者が使う物ではないから身の程を知れと暗示し、応じなかった。サラドは気を悪くするでもなく「わかりました」と素直に引いたが目を細めて瓶の中身の観察は止めなかった。内容物の予想がぶつぶつと小声になって口をついて出る。
「暗青は砂と曹達に青銅の粉末を熱するとあの色になるか…。深い青は瑠璃かな。あと藍玉に、水色も鉱物だな。あの緑青は銅につく錆びが原料? 火山の近くで採れる土だろ、東で見た事がある黄色い砂、桃色は南海で採れる花びら貝、明るい赤は陽の石かな、赤土に、血のような濃い赤は種子玉と呼ばれる宝石? 黄土を強い火で焼いて酢を入れると紫がかった暗赤になるし…。純白は二枚貝か」
サラドはただノアラの音の研究がしやすいように適した砂が欲しいだけで、入手する参考にならないかと見ていただけなのだが、じっと背後に注がれた視線を追った店主はその呟きに息を飲んだ。
商品化された物では満足せず、再現したい色を求めて自ら原料となるものを探求する熱心な絵描きもいる。中にはパトロンから譲り受けた宝石を砕いておじゃんにした者や、血や砕いた骸骨など褒められたものではないものに手を出す者まで。
訪れた時には客とも思っていなかった人物を見誤っていたかもしれないと店主は冷や汗とともに反省した。
「…お見それしました」
「えっ? 何か言いました?」
「ああ、いいえ。こちらの話です。どちらかをお取りしますか?」
「えっと、今日は買うつもりがなくて。冷やかしになってしまうのですが、粒子の細かさを見たくて」
「納得のいく品であるか見定めるのは大事ですものね」
店主がカウンターに置いたのは深い青と純白のふたつ。どちらも自信のある品らしい。
「こちらの白は非常に硬い貝が原料のため、ここまで砕くのには大変な労力がいります。その分、美しい白ですよ。もっと柔かい貝で安価なものもあります。溶きやすくもありますがここまで光を弾くことはなく、落ち着いた白とでも言いましょうか」
サラドは「失礼します」と断わって瓶を日に透かし少しだけ傾けてサラサラと中身が動く様を観察した。深い青はディネウの目を思い出させる色をしている。どこか遠くに想いを馳せる、愁いを感じさせる色。
「ありがとうございます」と丁寧に瓶を店主に返した。
その並びにあの緑色は見当たらなかった。あるのはくすんだ緑や、茶色に近い緑など。、少し黄味がかった、日に透かすと金をはらんだような、あれほど鮮やかな緑色はない。
(他にも有害な物質や軽微な毒を含むものもあるのに、あの緑はないんだな…)
ふと興味本位で店主に問いかけてみると怪訝な顔を返された。
「あれは一般には売られておりません。うちのような店にはありませんよ」
「やっぱり。あの、きれいな緑の発色なら皆さん欲しがるだろうなと思って。でも有毒ですからね。仕方ないです」
「…貴方はあれが何かご存知なんですか?」
店主の眉間の皺がぎゅっと深くなる。
「鉱物ですよね? 薬師の師匠が生活圏にある毒については厳しく指導してくれたのでたまたま知っているだけですが」
「そうですか。全くあんな馬鹿なことをする者がいなければ、あの美しい緑色が規制されることもなかったのに…」
薬師と聞いて納得したのか、店主は非常に残念だと嘆く。扱い方を知っていればそれほど怖い毒でもない。
その存在さえも規制されるきっかけになったのは美しい発色を求めて食物に混入して販売した菓子職人がいたため。菓子を飾るため、果実を煮詰めたものの色付けに使用したり、砂糖衣に混ぜたりした。
確かに赤や赤紫の果実は煮詰めても色が残りやすいが、淡い緑や黄色の果実はぼんやりしてしまう。色が綺麗で目にも鮮やかな菓子は瞬く間に人気を博した。
同時期に原因不明の呼吸困難や腹痛を訴える者が急増。庶民には縁遠い高級菓子だったため、患者が貴族や富裕層に集中し、謀略なども視野に大変な騒ぎになった。
匂いも味も殆ど変えず、舌触りが多少ザラつくが高級な砂糖をふんだんに使用しているためと良い様に誤解され、誰も不審に思わない。原因がこの菓子であると判明するまで被害者は増え、最終的に数名の死者と大量の体調不良者を出す結果となった。その事件も人々の記憶に遠く忘れ去られかけている。
あの緑は顔料としてではなく毒として利用されないように許可証のある者しか扱えない。それは大きな工房などに限られている。
「毒が中和できれば良いのでしょうけれど。勿体ないですね」
「全くです」
(中和できる方法が見つかってもそれが広まらないと問題解決にはならないし、中和されていないものが市場に出たら同じ様な事が起こる可能性も否定できないか…)
購入した商品を受け取り、サラドとテオは店を後にした。店主は扉まで出て「今後ともご贔屓に」と見送った。
木版用の板はやはり印刷工房に直接卸しているらしく、板一枚など売っている店はなかった。だが話を聞かせてもらった印刷工房で「業者の紹介はできないが捨ててある端切れの小さいものならくれてやる」という好意に甘え、なるべく堅い木を拾わせてもらった。
職人は見返りに「何か仕事になるようなら回してくれよ」と約束を望んだ。
そこまでで時間も大分経っていたので市場の屋台が並ぶ一画で手軽に食べられるものを幾つか購入し、公園に移動して昼休憩にした。買った食べ物は大体が茶色い。
「貴族向けだと見た目も大事なんだろうなぁ。確かにキレイな赤い果実や黄色の果物は美味しそうだもんな」
テオは茶色い串焼きを喜んで頬張り、サラドの独り言に首を捻った。
「何でもないよ。昨晩はお肉と芋だったから、今日はパンを買って帰ろうか」
パンと聞いてテオは肉汁で汚れた口を開けて全開の笑顔を見せた。
休んでいるとどこからともなく音楽の調べが耳に届く。楽器を弾きながら人が集まりやすい場所へと吟遊詩人が移動して行った。
『酒と芸術の町』というだけあって公園内では楽器の演奏をしている者や吟遊詩人を幾人も見かける。祭りを終えたせいか、深まる秋がそうさせるのか、甘やかで切ない旋律が多いように感じられた。破れた恋を酒で忘れるという内容の詩は昼間の公園に似つかわしくない。別の町なら夜の酒場で聴くような曲だ。
「…特産品の葡萄酒も買っていくかな」
音楽より食い気のテオは、次に雑穀の生地を薄焼きにしたものに木の実と果実のソースを挟んだ物を食べ始めていた。淡い橙色のソースは殆ど透明、ツヤツヤして爽やかな香りがしている。
「美味しい?」
「うん!」
「買い物はもう少しあるから、疲れたら言ってくれな」
テオは「まだ平気」と手についたソースを舐めとりながら足をブラブラと揺らした。
華やかな芸術の都を代表する公園には秋咲きの八重の花が咲き誇っていた。せっかくなので遠回りして中を突っ切る。よく整備された公園内は落ち葉も掃き清められていて歩きやすい。
「ほら、これがさっきのお店に飾られていた絵に描かれていた花だよ」
音楽にはさほど興味を示さなかったテオは先程凝視していた絵を思い出し、目の前の本物をつぶさに観察する。
花の生け垣が囲む人工的に造られた池には水生植物の枯れた葉が浮かび、蜂の巣のような実が首を垂れていた。緑が眩しい季節にはここで写生をする者も多いだろう。
公園を出ようとした所で見覚えのある出で立ちの吟遊詩人が楽器の手入れをおこなっていた。刺繍のたくさん入った物語を描いた柄のマントに鮮やかな羽根飾りのついた帽子。目元と輪郭を覆う透けた美しい染め色の布を顎元でゆるりと結んでいる。
「こんにちは。一曲お願いできますか?」
「どんな曲をお望みですか」
硬貨を差し出したサラドに甘い声の吟遊詩人がゆっくりと視線を上げた。
「えっと…、今、貴方が一番自信のある曲を」
吟遊詩人はほんの一瞬躊躇して「では、」と弦を掻き鳴らし歌い出した。
同じ志を抱きながら取り巻く人や環境の違いから道を違え、友情を失った悔恨と苦悩の歌。手の者が向けた凶刃は自分が向けたも同じ事、その咎を背負っていく決意と、その反面で特別な友情は続いていると望んでしまう切なる想い。
吟遊詩人の甘やかな声で歌われると、その内容も恋情に聞こえてくる。言葉選びも友情と言いつつ、どこかそれを彷彿させる。
その歌にサラドは体がむず痒くなるのを感じ、片手で顔を覆った。テオにはその詩が理解できなかったのかポカンとしつつ「大丈夫?」と覗き込んでくる。
「…お気に召しませんでしたか?」
「いいえ。ただ、その歌は、その…」
「この歌は去る御方に依頼されたもので、その友人にいつか届くように各地で歌って欲しいと頼まれたものなんです」
「そう…ですか。女王陛下が、そんな…」
依頼主が陛下だと明かしてはいないのに、と吟遊詩人は一気に青ざめた。それは秘密事項だった。
「あ、すみません。聞かなかったことにしてください。でもその衣装、着続けてくれているんですね」
「えっ?」
サラドが前髪を軽く掻き上げて王宮の給仕よろしく姿勢良く一礼すると吟遊詩人は「あっ」と声を漏らした。
「その節はどうも…」吟遊詩人はペコペコと何度も頭を下げた。
「あのっ、くれぐれも女王陛下のことは内密にお願いいたします!」
「もちろん。口外いたしません」
吟遊詩人は園遊会で歌を披露した後、控え室に下がっていたのだが、急激に王宮内で兵士が騒がしくなり、怯えて閉じこもった。何事かもわからないまま軟禁状態となり、数日後、再び呼び出され、この心境を歌にして欲しいと告げられたという。完成した歌の披露後、解放されて王都に下ると火事の痕跡にまた驚くことに。
園遊会の一件で注目されたことにより王都で数度、依頼を受けたのだが、その際に自分の顔と名も売り込みたいとマントのみにしたところ、恋歌の届け先の女性に懸想され、また送り主が愛人であったため旦那も交え修羅場となった。
「貴方のその甘い声で愛を歌われたら恋に落ちるのもわかる気がします」
「いえっ、本当にもう懲り懲りで。私が目立たせなければならないのは歌であって、私自身ではないと漸く気付きました。渦中でケントニス伯爵夫人に仲裁してもらい、今はこの町で修行中なんです。
これは師匠から譲り受けた大事な楽器ですが、低音と迫力ある音に向いているので、もう一回り小さいものに変えようかと思っているんです。試し弾きをさせてもらったら、私の声にはそちらの方が合っている気がして。
依頼してすぐに作っていただけるわけではありませんし、金額もなかなかどうしてで…。いつか低音も響かせる歌唱力を身につけたら師匠の歌をこの楽器で歌いたいと。それが今の目標です」
何としてでも一花咲かせようと躍起だった頃の刺々しい雰囲気を脱ぎ捨てた吟遊詩人は甘い声に深みが加わり、より魅力的になったように感じられる。
「同業者は今、聖女と騎士の恋物語を競って歌っていますが、私は二の舞を演じないように、目と耳で確認するまでは歌にしないと固く誓いました。詩を作るにしても美辞麗句だけではなく、本人たちの生の言葉などを入れた方が人々の心を打つことも学びましたし」
「聖女?」
「御存知ありませんか? なんでも旅の見習い神官の乙女が祈りで奇蹟を次々に起こしているんだそうです。どう見ても貴族出身の騎士が傍らを守っていて、二人は道ならぬ恋のため駆け落ち中なのだとか。しかも今は更に魔術師が加わり三角関係に発展していると」
「…うん。それは事実確認をしっかりした方が良さそうですね」
(聖女か…。どんどん大袈裟になっていくな。セアラも大丈夫だろうか…)
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