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91 ノアラの思い出 蝶に託す願い 下

 術の完成の次にノアラが着手したいと望むのは川の悪臭だ。水質改善など一朝一夕でどうにかできる問題ではない。それでも、このままアオにあんな環境の中で過ごして欲しくない。

ノアラは真夜中に一人、宿を抜け出した。


 一か八か、敵を激流で押し流す術と清めの術の同時発動を試みる。術の併用はまだ実戦では成功したことがない。激流の術も旅に出るようになって身に付いたばかりだった。


(その場しのぎだとしても…。ひとまず堰き止められた流れを何とかしてみよう)


汚泥を巻き上げた濁流が大雨後の鉄砲水のように奔る。


(このまま、威力を維持すれば…)


もう少しでこの一画の汚泥を消せると思った矢先、ガクリと膝から力が抜けた。一瞬、意識が途切れる。

急激に体から魔力が抜けていき、ノアラは身の危険を感じて、慌てて術を止めようとした。だが、流れ出した水の勢い止められない。


(まずい…目眩が…)


遠退きかけた意識に抗おうにも魔力はスルスルと奪われていく。どうにも抵抗できず目を伏せそうになった時、背後から腹にガシッと腕が回された。


「ノアラ! ダメッ…だっ!」

「や、やめっ 放してっ」


意識喪失の危機にも関わらず、脇腹にあたる手の感触に身体も心も拒否反応を示す。必死に抜け出そうとするも右手の甲に重ねられた手の指が絡められ、ぎゅうと力は強まる。


「水の精霊よ! もう許してやってくれ! 土の精霊よ! ノアラを助けて!」


サラドの叫び声が耳のすぐ後ろからした直後、ノアラは限界を迎えた。


 ガクンガクンと揺すられ覚醒した時、ノアラはサラドに背負われていた。急ぎ足のため揺れが強く、胃の腑のものが押し上がってくる感覚に、背から降りようと腕を突っぱねたが、間に合わず吐瀉してしまう。申し訳なさと、失望されるのではないかという不安に、より嘔吐くが「いいから」という焦りつつも宥める声が聞こえた。

 村で暮らしていた頃、発熱して苦しそうなシルエがサラドに背負われるとほっとした笑顔で眠るのを何度も目にして不可解に思っていたが、ノアラは「なるほど」と納得した。体の接触は苦手なのに、今はこの背に体を預けると安心し、甘えたくなる。


 目を伏せると再びガクッと意識を失い、次に目を開けた時には宿の寝台でうつ伏せに寝かされたところだった。サラドは外套を脱ぎ、汚れをくるりと包むと床に投げ、ノアラを跨ぐように片膝を寝台にのせた。


「ヒッ、やだっ」

「手しか触れないようにするから、少し我慢してくれ」


背後から両手の甲に手の平を重ね、指を絡める。そこから微かに流れ来るムズムズとしたくすぐったさ。覚えのある感覚。土いじりをしているような温さ。

頭痛、脱力、寒気、発汗、痙攣、吐き気…そこに恐怖。生理現象でボロボロ溢れる涙、霞む視界にディネウとシルエの姿が見えた。


「ノアラ、苦しくてそれどころじゃないかもしれないけど、大人しく眠った方がいいよ」


眉間に力が入ったシルエの表情。治癒を掛けないということは休息しか回復の手はないということなのだろう。ブルブルと震える唇は返事ができず、目を伏せても涙は止まらなかった。


 ポタッと雫が顔の脇に落ち、その微かな振動にノアラは目を覚ました。両手は上から押さえるように繋がれたまま。恐る恐る首をもたげて上を窺うとサラドの赤っぽい髪が見える。額から伝った汗が顎からまた一滴、落ちた。


「…っ! ノアラ、意識は大丈夫? 苦しいところは? 気持ち悪くは?」


敷布に顔を擦り付ける形になりながらノアラは首を横に振った。ほっと息が漏れる音が聞こえた気がする。

凝り固まった指をゆっくりと引き剥がし、体を起こしたサラドはよろけて寝台の奥側に倒れこんだ。「ふぐっ」と呻き声がし、柔かいものを押し潰す感触に飛び退く。


「シルエ、何でそんな狭い所に…」

「えー、だって…サラドが心配だもん」


ノアラはぎゅっと手足を引き寄せ、寝台の枕元に縮こまった。ひとつの寝台に三人がいる状況に理解が追いつかない。


「ノアラ! 何だってあんな無茶を! 急激な魔力の枯渇は危険だって言ってあっただろう」


始めて浴びせられたサラドの怒声に、ノアラは条件反射でより体を縮め、頭を庇うように手で覆った。


「ごめん…なさい…」

「いや、そうじゃなくて、その、ごめん、怒っているんじゃなくて、はぁ…、意識が戻って良かったよ…」


力を入れすぎて血色を失っている片手で顔を覆ったサラドは背中側にいるシルエを潰さないように腰の位置を浅くして隙間をつくり、肩を壁につけて体を休ませた。

きゅっとサラドの腰に腕を回したシルエが戯れに投げ出された足に手を伸ばす。床に立ち、体を支えていた方の足だ。


「ッ! いっづ、あー…」


長時間同じ姿勢をとっていたために痺れている足に触れられ、悶絶するサラドに「疲れ、飛んでけー」とふざけた調子で治癒をかける。


「ごめん…なさい…」


普段と寸分変わらぬサラドとシルエを見て、ノアラはおずおずともう一度謝った。


「ねえ、本当に気持ち悪いとか、変な感じがするとかない? 緊急でオレの魔力を流したけど、魔力の質がオレとノアラでは違うだろうから、馴染むかどうかわからなくて…。なるべくちょっとずつにはしたけど拒絶反応とか、ない?」


何故サラドが無理矢理に手を押さえつけるようなことをしたのか、何故あんなにも切迫していたのかを知ってノアラは「ごめんなさい」と更に繰り返した。サラドは溜め息の代わりに長く鼻息を出し「とにかく今日明日は魔術禁止な」と笑った。ノアラはこくりと頷いた。


「ノアラ、着替えて。そのシーツも、洗濯しちゃおう」


 床から外套を拾い上げ、井戸端に向かうサラドにノアラもシルエも付いて行く。時刻はそろそろ夜明けを迎える頃で、空の色が白み始めていた。

ディネウに「おー、ノアラ、目ェ覚めたか」と軽い調子で話し掛けられ、ノアラはこくりと頷く。ディネウは「気ィ付けろよ」とだけ言い、見廻りに戻って行った。

汚れた顔と髪を荒い流しながらノアラは井戸の半周とそこから道の側溝に延びる排水路をぼんやりと眺めた。そこにも落ち葉やゴミが溜まったままになっている。


「ところで、なんであんな魔力放ったんだ? 何か襲って来たのか?」

「えっと…アオを…、臭いが…虫も湧いてて、病気を媒介…」

「ん? アオ?」


要領を得ないノアラに変わってシルエがざっくりと解説した。


「すごいな! 術、完成したんだ。そっか、偵察から戻って来たら見せてな。あ! でも今は魔力使うなよ? あーと、そうじゃないな…、今は術の話じゃなくて…。ノアラがお世話になった人がここにいるなんて、縁、巡り合わせだね」

「待って! サラド、偵察の途中なの? 終えて戻って来たんじゃないの?」

「あー…。中間報告して、もう一回、行くね。シルエ、洗濯物取り込んでおいてくれる?」

「それは、いいけど…」

「ノアラはちゃんと休んでね」


 サラドが慌ただしく去った後、シルエはノアラをひと睨みした。「天使のよう」と持て囃される少年とは思えない冷えた眼差し。急に寒気がしたのは朝の放射冷却による気温低下のせいではないだろう。


「ま、ノアラもいい経験になったと思うけど。サラドに迷惑がかかるからヤメテよね。もう、魔力切れの前兆はつかんだでしょ?」


いつもと違うドスの利いた低い声にノアラは慌ててこくこくと二度大きく頷いた。

 後に遺跡で水道設備を発見したノアラがその再現に躍起になったのはこの時の苦い経験があったからだろう。



 斥候たちが持ち帰った情報により討伐の作戦が練られた。サラドだけが他の斥候よりも潜む魔物の数、種類、現れる範囲を詳細に示し、大きく見積もっている。他の斥候の意見を反映して討伐隊の規模を縮小しようとする指揮官に食ってかかったのはディネウだ。


「大人数を割り当てるとなると報酬の問題もあるしな…。そいつ、斥候勤めるの初めてなんだろ? 不安になって適当に多く言ったんじゃねえのか?」

「戦力が多くて困ることはないだろ! 俺の親父とお袋は情報の見込み違いで死んだようなものだ。仮にアイツの情報が違っていたとしても、楽に倒せるならそれでいいじゃねぇかよ!」

「間違いなんかあるワケねぇけど」とディネウは聞こえないように小さい声で吐き捨てた。


ディネウの必死の訴えと、過去に彼の両親と共に闘った傭兵が指揮系統にいたため、一時の計画よりは多くの人数を動員して作戦は実行された。他の斥候が魔物はいないと踏んでいた方角にはディネウが名乗りを上げ、彼を支持した古参の傭兵を中心に小隊が組まれた。

「これじゃあ、行くだけ無駄足。報酬出ねえだろ」と鼻であしらう者もいる中、ディネウは前衛、サラドは弓、シルエとノアラも後方支援で参戦した。

ディネウは水を得た魚のように生き生きと剣を振るい、多くの戦果を上げた。珍しい魔術で掩護したノアラも、子供の見た目に反して確かな治癒の腕を持つシルエも注目の的となった。

他の部隊が向かった先でも魔物はサラドの見立て通りで、結果、辛くも勝利を収めた。


「あのチビ助がなぁ! その歳で親父さんの大剣振り回せるとは大したもんだ!」


四人にとっても良い経験となった魔物討伐。良くも悪くも実力主義の傭兵たちに名を売ることになり、その後の協力体制が築きやすくなった。



 アオは日に日に回復して、魔物討伐から戻った折には外に出迎えに来てくれた程だった。まだ少年の域を脱していないノアラも参戦したと知り「ボクもボクにできる生き方を探すよ」と奮起し、港町を発つ時には別れを惜しんでくれた。いつかのように「縁があれば、また、会えるといいね」と。

ノアラはひっそりと「アオがアオらしくいられますように」と願った。



◇ ◆ ◇



 人の縁、巡り合わせは妙なるもので。

もしくはそれも精霊に導かれたのかはノアラにはわからないけれど。


「ねぇ、見て、ノアラ、これ」


 サラドが嬉しそうに指さしたものを見てノアラも瞠目した。靄のような不確かな蝶。影から生まれノアラの力を注がれて濃い紫に変化した色は今や闇の印象はなく明るい紫だった。


「もう、オレの魔力の影響は残ってないね。純粋にノアラの願いの現れだよ」


ノアラは無口で祈るとしても黙しているし、祈りの姿勢なども取らない。それでもサラドはノアラが目覚めの度に願いを込めているのをちゃんと知っていたようだ。


「すごいね。あれから何年経ったっけ? ノアラが村で過ごしたのが六年かな、それから旅立ってから…えっと…」


年数を数えて指を折る。

旅の途中は就寝も不規則で、身に危険が迫っている時には徹夜もあり得るし、何日も仮眠だけで過ごす時もある。それでも充分な睡眠がとれて目覚めれば、夢の続きを、安寧を、自分らしさを願う。途切れることなく続けてきた成果が、目の前でゆったりと翅を風にのせている。


「追いかけてみよう」


蝶を追うサラドに付いていくと神殿の裏口で木箱を抱えた男性と、扉を後ろ手に押さえて招き入れる女性がいた。


「もしかして、あの時のお二人、かな?」


ノアラは首を捻った。正直、顔も全く覚えていない。見えていなかったという方が正しいかもしれない。名前も知らないため呼びかけようもなく、ただ蝶の行方を見守った。

ヒラヒラと舞う蝶に気付いた女性と男性はそれに向かって手を合わせた。


「いつも見守りいただき感謝いたします」


二人の周囲をヒラヒラ、クルリと回った蝶はその場を離れ、ふわりとノアラに止まった。

まずいものを見られたというように肩を震わせた二人だが、蝶が翅を休めているのが金髪に紫色の目の青年で、その隣にいるのが赤っぽい髪の男であるのを確認すると女性がハッと口を押さえた。


「もしかしてっ」女性が紫色の蝶とサラドを交互に見る。


「もしかして、だと思います」


サラドが愛想良く微笑むと、女性は「まあ、まあ、まあ」と歓声をあげた。


「こんなに立派に育って!」


成長を喜んでくれる声などジルとマーサ、村のほんの一部の人以来で照れ臭い。


 二人はその後の経緯を話してくれた。

『逃げた馬を追った』という供述は疑われることもなく、消えたノアラについて尋問されることもなかった。そもそも醜聞のためノアラの存在を口にする者はいなかった。


 元主人は薬の禁断症状と妄言が酷く、再起不能と判断された。領主の座も、貴族籍も外され、表向きは療養という形で監視の厳しい収容所に送られたという。

後継の人物は領民救済に充てることを名目に火事になった別邸を処分し、余剰になった使用人は解雇された。紹介状を貰えた二人は運良く同じ所に次の職を得られたが、災害も魔物被害も増えていく中、再び離職。


新たな就職先に向かう途中で、泣く子供を荷馬車に押し込む柄の悪い男に出くわした。

男は身寄りを失った子供達を聖都の神殿に保護してもらうのだと語っていたが、どうにも信用がならない。同じくその行動を怪しんでいた旅の神官と協力して男を出し抜き、子供達を救出することに成功した。男を捕らえることはできなかったが、全員無事に逃げのびた。


神官は南西の田舎町から、災害に苦しむ人々の救済援助を求めて聖都に向かったのだという。遠回しに現状では援助は無理と断られ、肩を落として帰るところだそうだ。


 蝶は神官と子供達の周りを舞う。今までも蝶が向かう方へ行くと良いことがあった。子供達を連れての旅は神官一人では手に余るだろう。二人は相談し、神官と一緒に子供達を守ることにした。

町に到着した神官は、神殿の敷地内にある倉庫を改装して子供達の居住場所にし、その世話役として残って欲しいと二人を引き留めた。男性は荷馬車で運搬の仕事もこなし、生活を支えた。

貴族の屋敷の使用人と比べたら食うや食わずで、仕送りはできなくなってしまったけれど、弟妹たちも成長して働きに出ていることもあり、これで良いと良心が納得する。


蝶の導きなのか、壊滅的になった町もある南西地域にあっても、篤志家から援助も受けられ、なんとかやりくりして子供達を飢えさせずに済んでいるという。男性が抱えていた木箱はその寄付で、不揃いで虫に食われた跡のある野菜が複数種類、乱雑に放り込まれている。一見クズのように見えるのは、他にも生活に苦慮している者が多くいる中、非難を浴びないようにと配慮をしてくれているのだそうだ。


「あ、じゃあ、これも足しにしてください」サラドは手にした獲物を差し出した。


「立派なお肉だわ。良いのですか?」

「オレたちの分はまた明日でも大丈夫ですから。もともと携行食を作ろうと思っていたので」


女性も馬丁だった男性も嬉しそうに頭を下げた。

二人は事実上夫婦のような関係だが、正式には婚姻していないのだという。


「本当に蝶のお導きなんです」女性はほっと笑みを零した。


「良かったね。ノアラ。二人にお礼を言えてなかったって気にしていたろ?」

「あ…、その節は助けていただきありがとうございました」


ノアラは遅ればせながらも二人に頭を下げた。


「こちらこそ。私はずっと後悔していたの。もっと早くに勇気を出していればって。そうしたら貴方の前に居た子だって…」


 ここでの奉仕は自責の念が多分にある。せめて目の前にいる子供達だけでも守ることで呵責を小さくしたかった。自分本位なのよ、と女性は告白した。


 ノアラは形を失い消えかかっていた紫色の靄に昔を思い出してふぅーと息を吹きかけ、二人の元へ差し出す。再び蝶を象り、フワリフワリと舞った。


「まあ、良いの?」


ノアラはこくりと頷いた。


 それからは目覚めた時に『この夢が覚めないように。この夢に連れてきてくれた二人に安寧な日々が訪れるように。アオが自分らしくいられるように。子供達が不当な扱いをされないように』と願いをかけた。



 ふと、昔のことを思い出して「人の縁に恵まれた」と感傷に浸ってしまうのは、魔力の使用過多で眠っても倦怠感が抜けないせいか。


「この夢が覚めないように」ノアラは伏せた目をゆっくり開け、夢が消えていないことを確認した。



お読みいただきありがとうございます。

よいお年を <(_ _)>

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