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90 ノアラの思い出 蝶に託す願い 中

「名前は?」と問われてノアラは「ムラサキ…と…呼ばれていた」と答えるのに酷く苦い思いをした。

うっとりと呼ぶ声が耳に張り付き、気持ち悪くて、思い出したくない。思わず耳を塞いだノアラの様子に気付いたサラドは「ジッちゃんに名前をつけてもらおう。それでもいいかな?」と眉尻を下げて微笑み、首を傾げた。


 村までの帰り道でサラドは養父のジルのこと、その妹で薬師のマーサのこと、もう一人一緒に暮らしているディネウのこと、村のことを色々と話して聞かせた。ノアラは無言でぽてぽてと後について歩くだけ。時々、付いてきているか振り返るだけで、サラドは返事を求めないし、ノアラ自身の話を聞いてこない。

サラドの鼓動のようなリズムの口調や、適度な距離を保って間を詰めてこない所はアオを思い出させ、緊張は次第に解れた。

サラドと手を繋いで歩くシルエからはずっと睨まれていたけれど。


 村に着き、案内されたのは外れにある荒ら家で、小さな小さな畑にいろんな作物が植えられていた。山鳥が足元をチョロチョロと歩き回り地面を嘴で突く。

養父となるジルは腰が悪いらしく、杖をついているが屈強さも感じ取れる。ノアラの存在にも「そうか、そうか、良く来たね」と飄々と笑った。

ジルにつけてもらった「ノアラ」という名前は「ムラサキ」よりもストンと胸に落ち着いた。しばらくはノアラと呼ばれる度に面映ゆさを感じた。


 サラド達が暮らす部屋には粗末だが清潔さのあるベッドが三つ並んでいる。一辺の壁には大剣が鞘ごと掛けられるように専用の棚が設置されていた。


「ごめんね。今日はオレのベッドを使って。すぐに新しいのを作るから。シルエ、一緒に寝させて」

「わ! やった! いいよー。あたらしいのなんかつくらなくても、ずっといっしょで」

「いや…、狭いだろ」

「いーの、だって、あったかいもん!」


シルエは明るい緑色の目がくりっとして、男の子にしては愛らしい顔立ちをしている。隙があればサラドにくっついて甘えていた。

もう一人の同居人、ディネウはちょっと遠慮がなく声が大きくて苦手意識を抱いたが、気さくで面倒見が良い。壁に掛けられた大剣はディネウの私物で、父親の形見だという。日の最後に剣を手にし、重さを確認しているのは自分の鍛え具合を測っているのだそうだ。

ノアラは自分の正確な年齢はわからなかったが成長具合からディネウよりは年下、シルエよりは上だろうと思われ、その中間の年齢ということになった。年齢順では三番目だがここに来たのは最後のため、末っ子のような扱いを受けた。



 村で暮らすようになってまず、ノアラの精神を蝕んでいた神経麻痺の香の影響を取り除くため、マーサの薬草茶を毎日飲まされた。その苦くて臭い茶を飲むこと以外、ジルもマーサもサラドもノアラに何かを無理強いすることはなかった。

孤児を養えるほど村は裕福ではない。そのためサラドやノアラを見る村の人々の目は決して友好的ではなかったが、少々の嫌味や意地悪はどうってことはなかった。命が脅かされるほどではなければ関わらずに過ごせれば問題ない。

暮らしは自給自足が基本で、お腹いっぱい食べられない日もあるが、平穏無事な生活にノアラはこれも夢だろうという思いと、いつかは覚めてまた虐げられるのだろうという不安を胸に抱えていた。


 サラドに言われた通り、ぐっすり眠って目覚めた時には紫色の蝶を思い浮かべ「この夢が覚めないように。この夢に連れてきてくれた二人――そういえば名前すらも知らないままだけれど――にも安寧な日々が訪れるように」と願いをこめた。


 文字の習得のためにジルの魔術書と神官見習いの教本をサラドに読み聞かせてもらっているうちにノアラは土の魔術に目覚めた。術はめきめきと上達し、その威力はすぐにジルやサラドを凌いだ。


「ノアラは魔力が強いね。それに優しくて他を傷付けたがらない。だからこそ、精霊もノアラに惹かれて助けを呼んだんだろうな。きっともっともっと上達するよ」


「すごいよ」と手放しで褒めてくれるサラド。魔術を覚えることも魔力が増すのを実感できるのも素直に嬉しかった。役立たずと罵られて、鞭で打たれた自分にも身に付くことがあると知り、自信に繋がっていく。


 他にノアラが強く好奇心をそそられたのは雨が降った時の土の変化だ。雨量が多くなるとできる水溜まり。溢れて、自然と低い方へ流れゆく様。川のようになる窪みは真っ直ぐではなく曲がりくねる。その動きを、水の流れを飽きることなく眺めていられた。乾いた後の地紋、残された砂粒や小石の集まりも興味深い。雨の中で楽しいと感じていると土に次いで水の術も使えるようになった。


 そうしているうちに、川から畑へ水を効率的かつ公平に引く方法のひらめきと、ジルの書物で見た知識が頭の中で結びついた。攻撃の術の対象と範囲を応用して、人知れず地中を掘り進め、灌漑設備を作り上げる。最終的に表面の土を取り払うことで、一夜のうちに完成したかに見えた。

ノアラは単純に自分の考えたものが成功したことに充足感があり、用水路にくまなく流れる水を目にするだけで満足だった。


当初は「勝手なことをして」と反発もあり、ジルに苦情を言う者も現れたが、それが有益と知るや村の人々から感謝された。初めての経験に、こそばゆくも違和感も覚えた。手の平を返した村人の態度、役に立つなら村に置いてもいいとはどういうことなのか、と。


 夢は覚めることなく何年も続いた。サラドの自立に付いていくと言って聞かないシルエが起こした騒動で四人揃って村を出ることになり、今に至っている。目覚めにかける願いは最早癖のようなものだ。




 旅に出たばかりの頃、ディネウの伝手で港町の色街に滞在したことがある。

魔物の群の出没で交易の要である港町から延びる街道が閉鎖されると主要な都市にも支障をきたす。傭兵による大規模な討伐隊が組まれ、ディネウの推薦でサラドが斥候の一人として参加することになった。

ただでさえ雑多な人が入り交じる港町に、魔物にも怯まない荒くれ者が各地から集まると治安が悪くなる。傭兵として参加するディネウも、出征までトラブルが頻発する色街の用心棒を担い、その代わりに宿の提供を受けた。


 周辺に充満する男女がまぐわう匂いに幼少期の傷口が抉られノアラは顔を顰めた。

ディネウは子供の頃に預かってもらったよしみで、この場所に忌避も偏見もない。娼婦たちとも下心なく付き合え、まだ十五、六の若さでも大人相手に用心棒として立ち回れる実力も威嚇も充分備わっている。

子供扱いされる年齢のシルエは素知らぬ顔をして平然としていた。一番慌てたのがサラドだった。娼婦にからかわれると覿面に顔を真っ赤にする。その初心な反応が楽しいのか娼婦たちから次々にちょっかいを出され、逃げるように偵察に向かった。


 出征が決定するまでの間、シルエとノアラは「自由にしてろ」とディネウに言われていた。シルエは訓練にもなるからと積極的に娼婦たちの小さな傷や疲労を癒やし、容姿も相まって「天使のよう」と可愛がられている。まだ術の発動に時間もかかり足手まといになりがちなシルエとノアラは協力して術の改良と強化を図っていた。


 色街の最奥には小川があるが、どろりと滞り、鼻が曲がりそうな臭いがしていた。ノアラも術の訓練を兼ねて何かできないかと、川面を覗きに縁に近づいた。

町の上層部、貴族邸や大商家が並ぶ地域から広場、商業区を過ぎ、居住区を抜け、下町の末端まで、川が下るに従い汚泥は積み重なり、水は詰まって流れを失う。河口では黒光りする水が海水と混ざり合わずにゴミと一緒に浮いている。

その酷い臭いを誤魔化すように各部屋ではきつめの香が焚かれていた。通りを抜けようとすると、それぞれの趣味で選ばれた香の匂いがひっきりなしに強くなったり弱くなったり混ざりあったりして別の意味でも鼻が曲がりそうだった。


(激流の術なら使えるか? 朽ち葉や糞尿だけなら肥料にもなるのだろうけれど…。川底から汚泥をさらって水分を抜き、焼却して土に還すのがいいか…。でもサラドは今いないから火は無理だ。一時的ではなく、根本的な改善をするにはどうすれば…)


周辺の溜め池や溝渠も見て回り、港付近まで出ると水揚げされた魚の加工場で落とされた頭や鰭、内臓が投げ捨てられていた。ほぼ流れを失っているので、これまた腐敗臭が酷く、虫が大量に湧く原因にもなっている。問題は多数あり、町全体に及ぶ。


(飲み水は井戸があるみたいだけど、その周辺にも汚水が流されていて衛生的に良くないな。大きな川だって流れついた小石が溜まると少しの雨でも氾濫の原因になる。その対策案をここに照らし合わせると…。何でもかんでも川や水路に流さないのは大前提として、それでも落ち葉などはあるから、定期的にさらえるよう、引っかかる仕組みを作って…。町中くまなくとなるとその配置は…)


考えに耽りながらドブ川に沿って戻ろうとした時、一番奥の部屋から弱々しい咳が聞こえてきた。咳の合い間に魅惑的な低い声で「そこに誰かいるの?」と問うて来る。

少しの距離を置いてぽつんとある一番奥の部屋は他と少し様相が違っていた。扉も渋めで扇情的な雰囲気はない。裏手からも回っても来られるように細い道が設けられている。

その部屋から漏れるのは煙草のような、香辛料のような、男性的な香り。そして、そこに混じる膿んだ臭い。

女将からは一番奥の部屋には病人が伏せているから近寄らないで欲しいと言われていたのだけれど…。

ドキリと胸騒ぎがして、ノアラはそっと扉に手をかけた。


「アオ…」


 薄暗く、空気の淀んだ部屋で横たわるのは、荒れてツヤを失っている金髪に真夏の空のような目、線の細い体つき。腕を着いて上半身を起こし、咳を鎮める、苦しそうなのにたおやかな所作は間違いなくアオだった。中性的な美少年は別れた時よりも更に背が伸び、顎や頬骨がしっかりして男らしさの増した美青年になっていた。


「春の訪れを告げる花の色、…君はムラサキ…?」

「アオ、僕、」


喋ろうとして声がかすれて出難いことにノアラは気付いた。無口のためあまり気にならなかったが、声変わりが始まっていたらしい。


「もしかして追い出されちゃった? それでここに?」


そのかすれて低くなりだした声に勘違いをしたアオにノアラは首を横に振った。ぽつぽつとこれまでの身の上を話す。


「そう。ノアラか、いい名だね。良かった、君もまた売られたのかと思ったよ」


 アオは「本当に良かった」と独り言のように呟き微笑む。

あの後、奴隷商ではなく王都のとある紳士倶楽部の従業員として売られたという。表向きはカードゲームに興じたり酒を嗜む場所なのだが、実際には男娼の館だった。そこで数年働き、体に傷を負わされたアオは棄てられるように下町へ、執拗な客から逃げて、ここに流れついた。

傷の治りはだんだんと遅くなり、回復も見込めず、今では死の迎えを待つ身。


「何度も逃げたいと思ったけど、結局ボクはこの生き方しか知らなくて…。ここの女将さんは、『あとの事は心配せず、ゆっくりおし』と言ってくれてね。もう客をとれないのに追い出さずに置いてくれているんだ」


うつ伏せに体を横たえ、少しだけ顔をノアラに向けアオは寂しそうに微笑む。

ふわっと香るスパイシーな香に隠しきれない膿と病の臭い。

汚泥の溜まった川に一番近い部屋は臭いばかりでなく衛生状態も良くない。他に空室もあるのに何故、という思いが沸き起こったが、彼が自ら望んで隔離しているのだろう。


 ノアラは胸が苦しくなって眉根に力を入れた。喋ることが苦手でこの気持ちを伝える言葉が見つからない。

アオは寵愛を奪った者としてノアラを憎んでもおかしくなかったはずなのに、早々にあの場から逃げ出せて良かったと喜んでくれる優しい人だ。あの時、動揺していたノアラは親切にしてくれたアオに別れも感謝の言葉も伝えられなかった。それが心残りだった。


「ねぇ、ノアラ。もしかして自分だけ助かって申し訳ないとか思ってない? 君が苦しむ必要は全くないんだよ?」

「ぼ、僕の仲間が…治癒ができる、から」


奇蹟の力の恩寵に与るなど、こんな場末では考えられない。アオは目を見張ったがゆるく首を横に振った。


「…もう、いいんだ。お迎えが待ち遠しいんだよ。ゆっくり眠る日が」


アオは治癒を望まなかった。慰めも元気付けるのも違う気がして、ノアラは「また、来てもいい?」とだけ聞いて、アオの部屋を後にした。


 借り受けている部屋に急ぎ戻ったノアラは試作中の術の完成に取り組んだ。魔術を攻撃だけに留めたくなくて、サラドに相談し、基礎の術から攻撃に関わる文言を抜き、新しく書き加える作業を試みていたもの。

目指すのは水の力で傷口の洗浄消毒や病床を清める術。

サラドから提案された――ただ精霊の言葉を通訳しただけと笑うけれど――文言や記号を組み替えながら、完成まであと一歩というところまで既にきている。ノアラはあらゆる可能性を試し、最後の調整をした。


 治癒には及ばなくても、せめて、せめて苦しみが少しでも和らぎ、心地よくいられるように、と。


 喋るのが苦手なノアラは連日アオの部屋を訪れても会話らしい会話もなく、近くに座っているだけだったり、行き届いていなかった掃除をしたりして時間を過ごした。アオがまだそこに寝ているのを確認するだけでも安心する。時折アオは「ふふ」と優しく笑った。


 一応、その術は完成した。まだ改良の余地はあるが、術の対象を攻撃で傷付けることなく、水の恩恵を得られるようになった。

 魔術と奇蹟、力の発揮の仕方が違うとはいえ、同じ高魔力を保持する身としてシルエはノアラにライバル心を抱いており、新しい術を編み出すという偉業に「先を越された」と地団駄を踏んだ。

そんなシルエもこの期間に威力の調整や詠唱の短縮を成功させている。二人の成長は目覚ましい。



 ノアラはシルエを伴って一番奥の部屋を訪ねた。その香に潜む膿の匂いにシルエもすぐに気が付いた。


「アオ、あのね…。せめて苦しいのや気持ち悪いのを取り除かせて欲しい」


もじもじと自信無さげに、だが真剣な様子のノアラにアオも頭から拒絶はせず、悠然と頷いた。


「じゃあ…」ノアラが視線を送るとシルエは頷き返し、同時に詠唱を始める。アオはその声を耳にし、ふぅと吐息に諦念を滲ませ、腕の中に顔を埋めた。


シルエの治癒のあたたかな光とノアラの清めのキラキラと水が反射する光がアオを包む。顔を枕と腕に伏せたまま動かないアオにノアラは失敗したのかと不安に襲われた。


「アオ、あの…」

「ふふ…。おかしいね。ボクはこんなになっても本当は生きていたかったのかな」


 肩を小さく震わせてアオは自嘲気味に笑った。傷付けられた体の内側を蝕むもの、腐臭と膿の臭いが消えていることにアオも気付いたのだろう。ズクズクと絶えず疼いていた痛みも、微熱も、重怠さも。


「僕はアオに、」生きていて欲しいなど、そんな独りよがりな気持ちは言えない。言葉を発しようと開けた口を閉じ、ノアラは下唇を噛んだ。


「まだしばらくは養生が必要です。長く苦しんでいたでしょうから、身体も、心も回復するのに時間が要ります。いきなり動かず、少しずつ慣らしてください」


至極冷静な声でシルエが説く。とても十歳そこらの少年には見えない、治癒士としての自覚と自信に満ちた姿だ。


「また明日来ます」


ずっとうつ伏せか横向きに寝そべっていたアオが体を起こし、寝台の上に膝を折り畳んで座る。膝の上に頭をもたせかけて微笑んだ。少し泣いた跡のある頬、まだ気持ちが追いついていないらしい。


「…ありがとう。うん、また会いに来て。待ってる」



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