89 ノアラの思い出 蝶に託す願い 上
※注意 児童への性的暴行の記述があります。
(直接的な描写はありません)
ノアラの一番古い記憶は、飢えと寒さだ。
掃き溜めのような場所でなんとか生き繋ぐ日々。親はどうしているのか、生き別れたのか、捨てられたのか記憶にない。呼ぶ者がいないから名前もない。
捕まって奴隷として売られ、役立たずとしてまた売られ、隙を見て逃げて、また捕まり…。
そうして買われた先は貴族の屋敷で、今度は何をさせられるのかとビクビクしていた。
「おいで。ボクはアオ。ご主人様にお目通りになる前にしばらくお世話を任されたよ。よろしくね」
スラリとした体型の、金髪に真夏の空のような青い目をした美少年が手招きする。声がかすれ、喋るのが苦しそうだった。
アオは甲斐甲斐しくノアラの世話を焼いた。お風呂に入れられ、垢や汚れで固まった髪を切り揃えられ、キレイな服に着替えさせられ、食べ物を与えられ、柔かい寝具でゆっくり眠る。ただ面倒を見てもらう生活が幾日も続き、自分の身に何が起こったのか理解が追いつかない。
アオの声は日毎にどんどんかすれていき、突然、魅惑的な低い声に変わった。アオは目立つ喉仏をおさえ少し悲しそうにした。
「他の使用人に頼めば必要なものは用意してくれるけれど、自分で何でもできるようにしておいて」
「ボクがいなくなっても大丈夫なように」と寂しそうに微笑み、邸内の案内やここで生きていくのに必要な知識を事細かく指導してくれるアオ。
ほっそりとした白くて長い指は男としては少し頼りない感じだがとても優しく、ぐしゃぐしゃだったノアラの髪を少しずつ丁寧に梳る。口調は心身が寛いでいる時の呼吸のようで、優雅でゆったりとした所作。荒げたり脅かしてくることが全くないアオと一緒にいると安心できた。
痩せこけていた頬がふっくらし、髪にツヤが出て来た頃、主人だというゴテゴテしい服を着た人物の前に連れて行かれた。脂下がった顔でノアラをジロジロと品定めする。
「サラサラの金髪に、珍しい紫色の目。気に入った。お前はムラサキだ。アオ、この子に調教もしておけ」
大きな宝石のついた指輪を嵌めた手でスルリとノアラの髪を掬い、目の色を確認するため顎を掴んで顔を上げさせる。その手の感触と粘っこい眼差しにゾワッと寒気が走った。
アオは伏し目がちにゆっくりと頷き、極小さな、囁くような声で「はい」と返事をした。その低い声を聞いた主人が忌々しそうに顔を歪める。
「これから、君がするべき仕事を教えるね」
慈しむように、慰めるように、アオがノアラの背を撫でる。優しい手、先程の主人の触れ方と全く違う。
アオが教えたのは房事だった。主を喜ばす言葉、逆に怒らせてしまう禁句、趣味趣向から、その対処法まで。ノアラはその内容に青ざめた。
邸の使用人がアオと自分のことを汚らわしいもののように、憐れむように遠巻きに見ていた理由がわかった。
「逆らったり逃げたりしなければ、乱暴…えっと…殴るとか蹴るとかはされないと思うけど…」
今までに主人となった者や奴隷商にされた仕打ちとは違う恐怖。アオはそれに甘んじてきたのだろうか。どうやって心に折り合いをつけたのだろうか。
「…ツライと思うし、不本意かもしれないけれど。ここにいれば食べるのには困らないし、雨に濡れて眠る必要もない。生きては…いける」
哀しそうな、全てを諦めたような目。それでいてノアラを心配する目。ふわっと伏せられた瞼は男性にしては長い睫毛で縁取られている。
「ご主人様はね。金髪の男の子が好きなんだ。背が伸びて骨も目立つようになってきたからボクはもう傍には置きたくないって。声変わりをし始めた時は、それはもう憎らしそうだったよ。下男でも厩の掃除でも、なんでもいいから置いてもらえないかなって期待したけどダメだった。もう見るのもイヤだって。ボクは明日にも奴隷商に引き渡される。…君にもいつか訪れる。解放、でもあるけれど」
ノアラは縋るようにアオのシャツを掴んだ。
「教えてあげられることが、こんなことでごめんね。縁があれば…また、会えるといいね」
主人が呼んでいると知らせる使用人の声。鞭で打たれるよりも惨たらしい時間がやってくる。
半ば無理矢理に引き摺られ、奥の間に向かう。顔が引きつり「嫌だ」という声も喉の圧迫感で出てこない。趣味の悪い部屋に燻る煙は、神経を麻痺させて痛みを軽減させるが幻覚作用もある香だ。脂と酒臭い息で「ムラサキ」と呼びかけ、その手が人形遊びをするようにノアラの体を無遠慮に這う。
朝になり、ひとりになったところでノアラはこっそりと泣いた。怒鳴られるのにも暴力を振るわれるのにも慣れたと思っていたが、耐えられないことは他にもあることを知った。
アオはもう邸にいなかった。
ある日、邸の一角から火の気が上がり、屋敷内が騒然となった。
煙が柱や壁に沿って充満してくる。いつもの香ではない。黒い煙は焦げ臭くて咳が出た。頭の中では「この屋敷から逃げる好機だ」と冷静な己が言う。その一方で「無駄だ」と否定する声もする。
その頃のノアラは無気力で、主人に呼び付けられている以外、殆どの時間を微睡んで過ごした。食欲も無く、最低限しか口にしない。これは自分の身が受けていることではないと欺瞞し、精神を切り離してひたすら堪える。目は虚ろで何が見えているのか考えるのも億劫だった。
昼でも厚地のカーテンが敷かれた部屋の隅で蹲り、逃げ出す気力など残っていなかった。
突如、大きな白い布、おそらく敷布に包まれて掻き抱かれたノアラは「あ、また捕まった。今度はどこへ売られるのだろう」とぼんやりと考えた。どうでも良かった。
どれくらいの時間か激しく揺られた後、布を外されるとそこは田舎道だった。馬丁と思しき男性が馬からひょいと降り、ノアラを抱えて下ろす。次いでもう一人、使用人の服装の若い女性を助け降ろした。
「大丈夫?」
馬から下ろすためとわかっているが、腰を支えられた手の感触がゾワゾワと体を抜け、現実逃避していた意識が俄に引き戻された。ぎゅっと下唇を噛み、気遣わしげに差し出された手を避けるようにヨロヨロと後退る。目の前の手はあかぎれで痛々しい。持ち場は洗濯だろうかと余所事を考えて気を逸らす。
「ごめんね。勝手なことと思ったんだけど…。火事なのに逃げる様子もないから。その、わたしにも弟がいたの。だから、こんな酷い事をって、ずっと気になっていて」
鼻のところにそばかすのある若い女性は「怖がらないで」と手を胸元に引き戻した。火事から馬を避難させようとしていた馬丁の男性が、走って逃げようとする彼女に気付き、事情を聞いて協力してくれたのだと説明する。
馬の手綱をしっかと握って馬丁が軽く頷いた。無骨で不器用なのか、無口でぶすっとした表情に見えるが人情には篤いらしい。
そこまで聞いてこの二人が騒ぎに乗じてノアラをあの場から逃してくれたことを理解し、同時に二人が勝手に馬を使って屋敷を離れたことで咎がないのかと不安になった。
女性も馬丁も困った顔をして明言はしなかった。
「わたし達の心配をするなんて、優しい子ね。こんな良い子を…。あそこには戻りたくないでしょう? あなただけでも逃げて。捕まってはだめ」
戻りたくはない。もうあんな日々は過ごしたくない。それでも頭は考えることを放棄する。抗う力を奪われていたノアラの心は暗澹としていた。
「近くに村があるはずよ。人を探しましょう」
馬丁が馬を引いて三人で歩く。女性が繋ごうとする手を避け、ノアラは震える自分自身を抱くように手を隠した。女性はそんな彼の姿に悲痛な顔をする。「いた」と語っていた弟と重ねているのだろうか。
でこぼこ道が更に悪路になった頃、木立の間から赤っぽい髪の少年とその足にしがみつく子供がひょこっと顔を出した。キノコや木の実を入れた籠を背負っており、罠で捕らえたらしき獲物も提げている。
「ねぇ! 君はこの辺の子?」
「はい、この先の村に住んでいます」
「誰か大人の人に…、この子を匿ってもらえないか聞いてもらえないかしら?」
女性は必死な様子で訴えた。近年、収穫高はどんどん減り、どこの村も余裕がない。口減らしをすることもある中で無理な願いなのはわかっていた。今のノアラは質の良い衣服を纏い、美しい金髪も艶やかで、良いところのお坊ちゃんに見える。厄介な事情なのは明らかだ。
少年――サラドは真っ直ぐに三人を見つめた後、少し視線を外して何かを呟くように唇を動かした。
「オレも弟も、」サラドが足にぎゅっとしがみつくシルエの肩をポンと叩く。余所者に緊張した様子のシルエはムッと口を結んでサラドの後ろに隠れた。
「あともう一人、みな孤児で養父の元で生活しています。そこでよければ」
「本当に?」
「彼がそれでもよければ。でも…村の人からは歓迎されない可能性もあります」
女性が気遣わしげにノアラを見る。
あそこには戻りたくないと思う気持ちははっきりしている。ただ、ノアラの頭は靄がかったようで、どうすればいいか判断ができない。今もヒラヒラと舞う蝶を目で追いかけ、これも、あれも「僕のことではない」と言い聞かせていた。
ノアラが否定しないことで、女性は「奴隷として酷い扱いを受けていたから逃したいの」と軽く説明をした。それを聞いたサラドは橙色の目を瞬かせた。
「あなた方は? 大丈夫なのですか? このままそのお屋敷に戻られるのですか」
女性も馬丁もドキリとした。この少年も二人の身の安全を気遣ってくれている。
火事の原因を究明する際に財産でもある馬と消えた使用人がいれば盗難や放火を疑われかねない。下手をすれば処刑もあり得るだろう。今更ながらに事の重大さに手が震えた。
「すぐに戻って…も、だめかしら…」
女性は「このまま逃げ切って生きることが可能だろうか」と考えたところで、全ての罪をなすりつけられ、仕送りしている家族にも罰が下される未来が見え、頭を振る。
相次ぐ災害による飢饉でいくつもの村が大打撃を受け、そこに魔物被害も増えて二進も三進もいかなくなり、主人は自棄を起こした。領主としての責務も領民の救済も放り出し、逃げた。
本来ならば風光明媚であった自領内にある別邸に引き籠もり、暴飲暴食と色狂いに堕ちている。最近は横暴さも増し、不安を取り除き精神を穏やかにするという触れ込みの怪しい薬にも手を出していた。効き目が切れると途端に暴れるため、使用人も懸念を募らせ逃げる算段をしている者もいる。それでも貴族の家での職は他よりもずっと安定しているため失いたくないのも事実だった。
「少し力を貸してくれる?」
サラドはノアラにそっと近寄り、手を差し出した。まだ十歳かそこらの少年の手は指先の皮が厚く、カサカサで土に塗れている。
無理に手を掴もうとせず、じっくりと待つ姿勢に、ノアラはおっかなびっくり、そろそろと指先で触れた。
サラドはにこりと微笑み、意味のわからない、言葉なのか音なのか不思議な旋律を口ずさむ。おもむろに微かな熱が指先に伝わり、動かしてもいないのにもぞもぞとくすぐったくなった。
怖くなって足元に視線を逃がすと蝶の影が落ちていた。ノアラの口から「蝶」と無意識に言葉が漏れ出る。ヒラヒラと優雅に舞っているように見える蝶の影は以外と忙しなく動く。ゆら、ゆらと方向の定まらない影に意識が再び遠退きかけた。
その影が地面から抜け出して空に舞い上がり、サラドの手に乗る。その奇怪な現象にノアラの意識は急に覚醒し、影の蝶から目が離せなくなった。
「具現化したのは蝶…。素敵だね。じゃあ、この蝶に息を吹きかけてあげて。助けてくれた二人の安全を願って。力を分けてあげるように」
サラドの微笑みは「大丈夫」と伝えてくる。ゆっくりと深く頷かれて、思わずこくりと頷き返し、口をすぼめ恐る恐る息をふぅーと吹いた。黒い影だった靄が波打ち、蝶が濃い紫色へと変化する。
ノアラは驚きに目を見開いた。
「この蝶がお二人を導きます。彼の守りの力です。『驚いて逃げた馬を追いかけて、なんとか捕まえることができたのでお屋敷に戻る。彼については見ていない』ですよね? 認識の阻害もしてくれるはずですから逃げることを視野に入れても。無い罪を被せられることがないよう、ご無事を祈っています」
紫色の靄状の蝶を二人の元で放す。フワリフワリと蝶が一周回れば、罪を問われるかもという不安が立ちどころに消え『逃げた馬を無事に保護した』という自信が湧く。
「この蝶は一体…」
「あ、あの。蝶のことは内緒にしてください。どんな仕組みなのかも追求しないでもらえるとありがたいです。誰かに話したら効力はなくなりますので」
「…。わかりました。素敵なお守りをありがとう。…どうか、幸せに」
女性は少年とは思えないほどに礼儀正しく、見たことも聞いたこともない技を披露したサラドに丁寧に礼を言い、ノアラにも別れを告げた。馬に二人乗りして、ヒラヒラ舞う蝶に着いていく。
「時々、そうだな…、朝、目が覚めた時にでも二人のことを思って祈ってあげて。そうすれば蝶に力が宿る」
来た道を戻っていく馬を見送るサラドにそう言われ、ノアラはこくりと頷いた。
「精霊が騒いでいるから何かと思って来たけど、魔物とかじゃなくて良かった」
サラドはそう言ってほっと吐息を漏らす。シルエが兄を気遣って「もうへいき?」と見上げている。ほわほわの麦わら色の髪を撫でて、サラドは「大丈夫」と八重歯を見せてにこっと笑った。
ノアラはその時、何が騒いでいるのかわからなかったが、後にサラドから思い出話として聞かされて、精霊に助けられたのだと知った。
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