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86 「教えてください」 マルスェイ

 マルスェイの片手が掬い取られ、詠唱が始まる。出だしの文言は水に対して「我の為に力を振るえ」と煽るものではなく、自然に呼びかけ、助力を願い、自らの魔力を意識する言葉。

サラドが宙に人差し指でクルッと輪を描き、軽く開いた手でその面をスイッと払うと淡い水色の光で魔術陣が描き出されている。重ねた手から冷やりとした力が流れてきた。

マルスェイがついてこられているか横目で確認された。綴られた文字とサラドの手の動きを交互に忙しく目で追い、マルスェイも声を重ねる。

詠唱の速度がゆっくりめに調整され、耳で聞く音に読んでいる文字が追いつき、安堵したマルスェイに少々の余裕が生まれた。

すると、頭の片隅で詠唱とは別の声が響く。


『自然の力を己が操作するなどと驕るなかれ。己を取り囲む世界の一部であることを識り、そこに存在する力を(たっと)び、借り受けることに感謝して、意識を集中せよ。

水は命を宿し、優しく抱く。清流に喉は潤され、濯がれる反面、洪水は壊し、全てを押し流す猛き濁流ともなる』


詠唱の言葉、サラドが繰る魔術陣、手元の文字、頭にこだまする諭す声、どれに集中してよいかわからずマルスェイは眼球をくるくると動かした。まるで数名の騎士相手に剣を交えているようだ。舌が絡んでうまく言葉が発せない。


 水から応答が返ったように身体の芯にピチョンと一滴の水が落ち波紋を拡げる。波紋は体表に達すると細波となって中心に返り、全身に魔力が滞りなく巡る感覚に変じ、ブワッと鳥肌が立った。山火事の時のような激流ではないが、せせらぎのような優しい魔力の流れを体内に感じる。

結びの言葉に差し掛かると、少し腕の角度を上げ、撫でるような動きで手を回す。魔術陣の淡い水色の光が空に溶け込む。

基礎の攻撃術で生じる水の球ではなく、狭い範囲で霧がキラキラと輝いた。触れた手先が温かい。

見た目は派手ではないが正式な手順をとった術の発動にショノアもセアラも瞠目している。

手を放されると、脱力した腕がパタリと落ちた。


「これは清めの術。患部の洗浄や、清拭、病床の清潔を保つのに使えます。慣れてくれば範囲も調節できるでしょう」


 その説明にセアラははっと息を飲んだ。王都の火事で治癒の補助をした時のことが記憶に甦る。

マルスェイは瞬きも忘れて目を見開き、パクパクと口を動かしているが声にはなっていない。まるで陸に上がった魚のようだ。


「あ、セアラもマルスェイさまも、魔力切れを起こさないように、決して無理をしないこと。魔力の枯渇は命を危険に曝します。訓練は疲れ具合に注意しながら…って、マルスェイさま、聞いてます?」


眼前で手を振られてもマルスェイは詠唱を記入した紙を手に小刻みに震え、茫然自失の状態だった。


「あの、素朴な疑問なのだが、以前、サラドは詠唱なしで術を発動したと見受けられたのだが、そもそも詠唱とはしなくて済むものなのか? 前にマルスェイは考えれないと言っていたのだが」


門外漢のため、これまで黙って姿勢良く構えていたショノアが質問する。セアラも聞きたいというようにこくこくと頷いた。


「んー…、もしショノアさまが小隊を率いて対戦するとして。相手方の魔術師や治癒士が詠唱を始めた場合に、その術が完成したら自軍が壊滅的になるのが確実だとしたら、どうします?」

「それは…、魔術師や治癒士を攻撃して、詠唱を阻害するだろうか」

「そういうことです。統率のとれた小鬼や魔術を使う魔物と相対するのに、術を潰されないようにする工夫が必要になったんです。それに獣はより弱い個体を確実に狙ってきますから、隙を見せられません」

「なるほど…」

「強い術に関しては――」


「そこまでだ」とディネウが口を差し挟んだ。ギロリと睨まれ、サラドは苦笑して「わかった」と気まずそうに目を伏せ、一歩退く。


「いいか。今回見聞きしたことを悪用したり、コイツをまた利用しようとしてみろ。そん時は、…わかってんだろうな?」


威圧たっぷりのディネウにショノアは急に汗が吹き出るのを知覚した。ゴキュと喉が鳴り、深く首肯することしかできない。セアラも焦ったように素早くこくこくと頷いた。無反応のマルスェイに聞こえているかは定かではない。


「そんな脅すような言い方して。悪党みたいだよ?」


ディネウがケッと悪態をつく。

有無を言わせないディネウの様子に、邂逅がこれで終わりなのだと察したセアラはつと手を伸ばし、サラドの袖口を摘まんで上目遣いで見つめた。


「本当は、できればこの先も、またサラドさんと一緒に行きたいです」

「…ごめんね」


ほんのりと涙目のセアラにサラドはそれだけを答えにした。


「目障りだ。早く戻れ」


シッシと払うようにディネウが手を振った。

ショノアが恭しく腰を折る。茫然としたままのマルスェイの手を引き、セアラにも「さあ、戻ろう」と促した。セアラは一度振り返って、ペコリと頭を下げた。軽く手を振り見送るサラドに名残惜しそうな笑顔が向けられる。


ずっと後方で控えていたニナが笛を差し出した。サラドはディネウの視線を背で遮り、ニナの手を包んで握らせると、小鼻の脇から布に指を入れ、唇の動きが見える程度だけ下げ、声を出さずに、口を開き、横に引き、すぼめ、最後ににこりと微笑んだ。


(あ、げ、る…?)


もう口元の布を整えたサラドをニナは確認するように見上げた。穏やかに目を細めて頷くサラドにニナも頷き返し、笛をしまってショノアに従う。



「ったく。人が好すぎだろ」

「そうかな。結構キッパリ断っただろう?」

「キッパリだぁ? どこがだよ。術の指導までしておいて。あの野郎、当り前に教わってるしよ、礼も言わねぇとは呆れるぜ」

「でも、まあ、せっかくだし、強くなって欲しいね」


はぁーと盛大に溜め息を吐いて、ディネウはガシガシと頭を掻いた。


「シルエがいなくて、あのガキ共は命拾いしたな」




 ショノアたちが村の入口に戻って来ると、そこで衛兵が弓を構えていた。昨日の今日のこと、瞬時に緊張で体が強張る。


「何かあったのですか?」

「いいえ。警戒解除の報せを打つところです」


こちらの不安を払拭するように衛兵は愛想良く笑顔を見せ、構えた弓を更に引き絞り、天に向けて放つ。矢はピュイーという高い音をたてながら放物線を描いて見えなくなった。急な音量に思わず耳を塞ぐほど。


「これは傭兵仲間の間で使っている連絡手段でして。鏃のない矢にこうして笛をつけて飛ばすんです。昨夜はもっと低い音で警戒を報せてあります」

「なるほど…」

「ここらはたまに魔物や大型の害獣被害がありますからね。直近の村に音は届くはずです」


衛兵が腰の小物入れから取り出して見せてくれたのは、中が空洞の堅い茎に弁を付けた単純な造りの手製の笛だった。長さで音程が変わり、その音の違いと本数で警戒、増援要請、解除などを区別しているそうだ。

何の策もなく突っ込んだことには呆れられたが、それでも母子を救いに立ち向かったショノアに衛兵は信頼をおいたようで、快く質問に応じてくれた。


 村長宅での昼食は他の村人からも次々に料理が供されちょっとした饗宴となった。

マルスェイは食事もそっちのけで部屋の隅にてサラドが書いた魔術の記述を別紙に書き写す作業に没頭している。元の紙はまっさらな紙で挟み、曲がらないように板もあてる念の入れよう。出先で使えるように携帯していた筆記具が木炭だったため、細かい魔術陣の部分などは少し触れただけでも解読できなくなるおそれがあり、細心の注意を払っていた。

「御厚意を受けているのだから、それは後にしてはどうか」とショノアが窘めると、「これがどれだけ貴重で重要な物だと思っているんだ」と凄い剣幕で捲し立てられ、宴席をしんとさせる一場面もあったほどに、魔術への執着は筋金入りだ。ただでさえ鋭利な印象なのに、据わった薄い青色の目が怖い。


 マルスェイはぶつぶつと覚えている限りの事柄を呟いている。文字を書く速さが考察に追いつかず、早くしなければ忘れてしまいそうで気ばかりが焦り、余計に手が震えた。先程から何度もひとつ先の字を書いたり、インクが垂れて大きな染みを作ったり、もどかしいばかりで己が手を罵りたくなった。

傍目にもその姿は鬼気迫るものがある。もう誰もマルスェイに飲み物や料理を勧めたり、昨夜のお礼を述べたりしない。完全に触らぬ神に祟りなし、といった状態だ。

マルスェイはまたも間違えた文字に苛々として、その箇所をペン先でグリグリと塗りつぶした。何重もの円で黒く広げられていく紙面の汚れも、たくさん並んだ古語や記号に埋もれて何かの文様にさえ見えてくる。


 魔術は古代文明の遺産で、師弟関係で継承されてきたため、口述が基本。まずは古語の教養が必要となるが、理解が及ばず、内容よりも音だけで覚えている者もいる。

稀に魔術に関する書が遺跡から発掘されることがあるが、基礎の教本の写本を重ねたものや、弟子が師から教わった術を書き起こした不完全な草書などだ。覚え書きに至っては解読不能な部分が多い。


『読めないもの』の価値はあまり認められておらず、遺跡を探索した者がそこから出て来た紙束を灯りの燃料にしたという話を聞いた時には、マルスェイは怒りの余り自我を失った。そこにどんな貴重な記述があったかもしれないのに。怒りの矛先となった人物は、虫に食われて穴だらけ、染みも多く、汚れて絵か文字かも判読できない紙束だったと弁明しながらも、マルスェイの態度に辟易し「二度と魔術師とは関わりたくない」と捨て台詞を吐いた。


魔術は遺跡と同じく失われた技術。不確かな力であり、異端として遠ざけられ、その価値を正しく認められず、貴重な書がどこかに眠ったままの可能性がある。例えば王族しか入れない書庫、聖都の神殿、灯台の町の図書館にある御隠居の収集品など。誰の目にも触れずに、研究の機会も与えられない。

それを思うとマルスェイは魔術という存在がもっと人目に触れれば容易く協力も得られるものを、と悔しさに歯噛みした。


(大魔術が力を揮えば、きっとその真価が認められるのに。現にこうして素晴らしい術をお持ちなのに…)


 完全な体系を成し、学術として確立させ、有望な資質の持ち主が師弟関係を結ばずとも基礎は身に着けられるようにすることが宮廷魔術師団の目標のひとつ。

数ある写本に見られる誤字や端折られた部分や追記された解説を照らし合わせる研究は大分進んできた。また、同じ術でも師範によって差違があるらしく、その細分化、検証もしている。

それらが大成すれば繙くことすら困難だった中級の魔術や古書にある伝説的な術の解明も夢では無いと説いたところで、賛同してくれる者は少ない。


 まずは魔術師を探し出し、そこから更に排他的な彼らを説得して回るのは大変だった。己の術を守る為にも弟子は取ったとしても一人か二人、実際には弟子という名の雑用係で、途中で逃げ出す者も多いと聞く。何年もの期間を忍従してようやく基礎の指南書に目を通すことが許されるのが常識だという。

それ故、宮廷魔術師団に所属することを是とした者は師弟関係を尊び、術を繰る実力をつけるというよりも一人で研究するのを好む学者肌の者が多い。


宮廷魔術師団への勧誘にも胡散臭そうにされるのに、まして研究したいから「貴方が使える術の詠唱と魔術陣、魔力の練り方を教えてくれ」など言おうものなら追い返されて然るべきだ。


 そんな中でサラドが伝授してくれた術。

まず、文言からして普通ではない。現代語と古語が入り交じりながらも美しい音の綴り。

これは今まで見てきたどの文体にも属さず、新しく編み出されたとしか考えられない。

僅かな手の動きだけで空に描かれていく魔術陣も見事だった。

何より、魔術は正確な詠唱と正確な魔術陣だけでは発動しない。そこに必要となる魔力だけは感覚に頼るしかなく、身につけられるかどうかは術者の資質としか言いようがないもの。それを相手に干渉し体感させる技術。


「もうっ、ああっ、どうすればあの感覚を文章にできる?」


マルスェイは苛立ちに負けて、まだ余白が充分にあるのに書き損じた紙をグシャリと握り潰した。



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