77 屋敷の外へ行こう
薬草畑がある一画で作業をしているサラドにテオが駆け寄り、ぴたっとくっついてきた。すぐ脇に座るように促し、聞かせる訳でもなく薬草の種類と効能を声に出してみると、テオが真剣な顔でじーっと葉を見つめる。
「おもしろい?」
植生の小難しい解説など退屈だろうと思ったが、今は目に入るもの全てが刺激になるのかテオは「うん!」と大きく頷く。
起きている時間が定まってきて、足取りもしっかりし、終始おんぶで保護していなくても大丈夫になったテオを、サラドは周囲の森の極浅い範囲に連れ出した。
「いい? この屋敷には目眩ましの術がかかってる。決して一人では外に出ないこと。二度と帰れなくなるからね」
そう言ってサラドは振り返って来た方向を指さした。そこにあったはずの家屋がテオにはもう見えない。
脅して言うことを聞かそうとしているわけではなく、本当に帰れないのだと理解したテオは神妙に深く頷き、繋いでいる手にぎゅっと力を入れた。
「見てごらん。この茸とこっちの茸はよく似ているけれど、これは美味しくて、こっちは毒がある。笠の裏側がね…ほら、ここのところが違うだろう? 茸は見分けが難しいから確実なもの以外は口にしちゃダメだ」
しゃがんで頭をいっぱいに傾げて倒木に生えた茸を観察するテオは、きゅっと下唇を噛み眉根に力を入れている。真剣な表情がおかしくて愛らしい。
「そうそう触るのもダメだよ。かぶれたり痒くなったりするし。特に色が派手なやつは絶対に――あっ」
言った側から別の木の根元に生えていた茸の、赤紫の笠をテオの指先が興味津々に突いた。その刺激で茸の笠はクルンと反り返って胞子を放ち、薄黄色に烟る。見れば近くにも同じ種類の茸があり、触発されて次々に胞子を蒔き散らした。石突きから少し離れた所の草が輪を描いたように枯れている。胞子があたった箇所だ。サラドは耐性があるが、しゃがんでいるテオの顔の高さでは許容範囲を超えてしまいかねない。
「まずい!」
サラドはテオの口鼻を手で覆い、抱きかかえて急いで引き返した。その道すがらテオに異変が生じた。ボロボロと涙を流し「やめて」「やだ」と叫び、逃げようともがいて手足を打ち付けてくる。
「うぐっ、痛って…」
まだ細い腕だが必死に抵抗する拳がサラドの顎にきれいに決まった。
「シルエ! 解毒をっ」
屋敷に駆け込んだサラドが大声で呼ぶと、だらしなくボタンもしめない寝間着姿のシルエが部屋から顔を出した。寝癖だらけの猫っ毛を掻き、欠伸をひとつする。サラドの腕の中でテオは水から揚がった魚のように暴れていた。
「ふぁっ、どうしたの? 慌てて」
「幻覚作用のある茸の胞子を吸った」
「あー、それで。神殿に閉じ込められていた時のコトを見ちゃっているのかな」
腕を交差させて顔を隠し「やだ、やだ」と抗う姿が痛々しい。テオの蹴りがサラドの腹に何度も入っている。かと思えば突然、脱力したテオの顔からは表情が抜け落ち、小さく聞き取れない声がぶつぶつと流れ出た。
テオの眼前に手の平を向けたシルエがその手を引きながら指を拳の中に入れるとポワリと淡い光が体を包んで消えた。ほんの一瞬のこと。
「はいっ、おしまい。もう大丈夫」
「ふぅ…。ありがとう。迂闊だったな。テオに悪いことをした。痛てて…」
「これで気を付けるようになるだろうから、いい経験でしょ。はい、サラドにもおまけ」
赤くなった顎にシルエがぺちっと触れるとあたたかさがサラドの身体を巡った。
「サラドを殴るなんて、テオもなかなかやるね」
「ははっ。イイ感じにボコって入っちゃって」
「…余程、怖かったのかな。救われたと思ったのに後戻りしたと錯覚したのかな」
幻覚から解放されたテオは眠っている、というより失神している。
「眠れ、眠れ、怖くはない」
テオの耳元で囁きながら、頬についた涙の筋を優しく拭った。テオを抱えて連れて行くサラドが口ずさむ子守唄を耳にしてシルエが再び大きく欠伸をした。
秋も深まり、各地で収穫祭が行われる日取りとなった。
「テオ、約束通り出掛けよう。今日は収穫祭があるから賑やかできっと楽しいよ」
テオがぱあっと笑顔になった。今にもぴょんぴょんと跳ねそうだ。鼻息も荒い。
「僕との約束もあるからね! 今日こそは僕も一緒に行くよ」
テオはシルエに「よろしくおねがいします」と、ぺこっと頭を下げた。
無表情で無口でとっつきにくいノアラより、厳つくて声が大きくて粗野なディネウより、テオはシルエに遠慮している。それは隷属の術をかけていた相手ということもあるが、テオがその為人を正確に感じ取っているからだろう。
ほわほわの淡い麦わら色の髪に明るい草原の緑色の瞳、やや童顔のシルエは天使と見紛うばかりの優しげな容姿だが、性格は四人の中でも一番激しく容赦がない。また、下心のある人を寄せ付けないために気高く酷薄な雰囲気を纏うのは最早癖になっている。
それでも必要以上に恐れないのはサラドのシルエに対する態度と信頼があるから。テオと悪魔を切り離すのにシルエとノアラがどんなに頑張ってくれたのかも聞かされている。
「楽しみだねー。ちょっと数カ所、寄り道もさせてもらうけど、それはごめんね?」
「ノアラも今年はあの養護院に差し入れを持って行けていないだろう? 今日、オレが代わりに置いて来るよ」
ノアラがこくりと頷く。寄付金にお菓子と保存食、薬をまとめる。
人混みが苦手なノアラはそもそも留守番を希望。それでなくても、まだ本調子に戻らず、研究をしようにも集中力が欠け本を開くと同時に船を漕いでしまうことが多い。
「もともとノアラって睡眠が不規則でしょ。もう、観念して一度じっくり休んだ方がいい。まあ、僕が言えたことじゃないけど。そうだ、サラド、子守唄歌ってあげなよ?」
「うん。ノアラのためならいくらでも歌うよ」
ノアラは片手で顔を隠してふるっと首を横に振った。隠れていない耳が僅かに赤い。
古代王国時代には術力を宿す歌い手がいたらしい。例えば戦において鼓舞する歌や軽微な癒やしの歌など。対象者が複数人に及び、歌が届く範囲に効果があり重用されたと記録がある。また、魔物にも船を座礁や難破に導く歌や、眷属化させる魅了の歌などがあり危険だ。
音楽や歌は人の心を動かすのにもってこいの力。明らかに術的な力はなくとも、今の吟遊詩人の歌だって人々を感傷的にさせたり、興奮させたり、元気づけたりすることができる。上手く利用すれば民衆の扇動に使うことも可能だろう。
サラドの子守唄と鎮魂歌は、精霊が記憶する歌を聞かせてもらった。鎮魂歌は死者に聴かせるもので、子守唄も基本弟のために覚えたもの。他の歌も聞いたが、サラドが歌いこなせるのはこの二曲だけ。
どんな効力があるのか知りたくてシルエが「触りで良いから歌って」と強請ったことがあるが「うーん、もうちょっとマシになったらね」と躱されてついぞ聞かせて貰ったことはない。
安眠のためとわかっていても、三十歳を優に超した大の大人が、子守唄を歌ってもらう姿というのは、冷静に考えずとも恥ずかしい。
「えー、勿体ない。良く眠れるのに」
テオをどんなに汚れても構わない普段着から外出用のちょっとお洒落な服に着替えさせた。少し窮屈そうな顔をしたが、満更ではないらしい。曲げた腕に座らせる形で抱えると、首に腕を回してくる。テオが歩き疲れてしまった時のためにおんぶ紐も荷物に入れた。サラドは武器も装備したいつもの旅装、シルエは淡い灰色の、腰までと膝下までの丈の二重になったフード付きのマントをウキウキと羽織る。ふわりと翻った起毛のあるマントが光を受けて銀色に見えた。フード周りの内側にある若草色の刺繍を満足げに撫でさする。仮面は念のため所持しているが着けるつもりはない。
「じゃあ、他の場所は僕の転移で行けるから、国境までノアラに送ってもらってそこから移動しよう」
「お土産買ってくるね」
ノアラがこくりと頷く。国境に向かうので不可視の術を掛けてもらい、差し出した手をノアラが握れば薄紫の陣が三人を足先から頭に向けて抜けていく。転移する直前、気が抜けたのかノアラが大きく欠伸をするのが見えた。
川の中州に降り立つとシルエはぐるりと周囲を見渡した。テオを下ろし、しっかりと手を繋ぐ。
「わあ、寂れているね。国境って前もこんなだったっけ?」
緑色の粒子を集めた場所に行く着くとサラドは手の平を地面につけ魔力を流し、精霊に呼びかけた。
(こんにちは)
その際、少しの違和感をサラドは覚えた。もともと精霊が少なく、痩せた土地だが、前以上に疲弊しているように見える。
――待ってた
ゴロンと石が転がり土の精霊が返答する。触れてもいない石が動くのを見て、テオが驚いて口をあんぐりと開けた。
――集めてある
石が転がっていく先には緑色の粒子が混ざった砂山がある。横の砂山は蹴飛ばしたように崩されていた。
(誰か来たの?)
――黒いのと煩いの キラキラしたものを抜いていった
(黒いの? 煩いの?)
この場所は隣国にあたる。国境警備隊の警らもあるため、人が来ることはあるだろう。ノアラによる不可視の術も長くは保たないため、長居はできない。サラドはきれいに積まれた砂山と、崩された砂山、それぞれから少量を持って来た容器に入れ、ぎゅっと蓋を閉じた。
(今日、全部は持って行けないけど、また来るね)
――わかった
「シルエ、ここが前回、浄化の水を半量かけた所」
サラドが指した砂地には発芽はしたがひょろひょろの萎れた芽がある。
「ふーん、元気がないね。でも芽が出ただけでも多少は効き目があったのかな?」
「それじゃ、」と言いながらシルエは肩掛け鞄から瓶を出してその中身を注いだ。淡い光が波のように大地に広がっていく。
「うーん、光からするとまあまあ? 改良したからもう少し効くかな? 要経過観察だね。じゃあ、次に行こう」
(またね)
――待ってる
サラドは前より更に土の精霊が少ないことが心配になり、石を撫でて魔力を流し、別れの挨拶をした。
不可視の術が切れないうちに急いで越境し、モンアントの林の中に移動する。紅葉の美しい豊かな林の中にあって、黒い土のぽっかりとした空間。
「こっちの方が効果が現れているかも」
「へぇ、ここ、何があったとこだっけ?」
「ほら、虫が」
「虫? うーん、あんまり覚えてないや…。どんな状態だったの?」
「土壌がもっと酷くて、十年以上、改善せずに何も生えないままだった。大分〝土〟と呼べる状態になったと思う」
「それじゃ、こっちにも」
同じようにシルエが浄化の力を込めた試薬を焦茶のぼそぼそとした地面に流し込む。丁寧に注いだサラドに対して、シルエは瓶を逆さにしてドバドバと振りかけた。広がる光は昼間のために目立たないが、警備兵に見咎められないか、周囲を警戒する。
「うん、じゃあ、こっちも要観察で。次はノアラの用事を片付けちゃおう!」
「行くよー」と言ってシルエが杖で地をコンッと突くと転移陣が生じた。目眩を起こさないようにテオをサラドが抱き上げる。次の瞬間には小さな町の神殿前だった。
転移と同時にノアラの不可視の術が切れかかったため、急いで神殿の裏手へと移動する。走っている最中に姿が光に透け出した。
「…術、ギリギリ切れる前で良かったね」
「ごめん。久々でうっかりしていた! あー、やっぱり僕の転移だと不便だなー、なんとか、こう、移転先を人目がない所にいじれないかなぁ。ノアラの家が指定できたからいいものの、でなけりゃ、本当に使い物にならない」
サラドが顔を背けてふっふっと声を押し殺して笑うと、事情を掴めないテオが「お腹痛いの?」と心配そうに顔を覗き込んできた。
「ご、ごめっ。ぷっ、あはは。昔もこんなことあったよな。あの時は転移で急に現れたオレたちを兵士が囲んで。で、すぐにまた転移で逃げて」
「そう、そう。そりゃびっくりするよねー。だから実際に使える箇所が少ないんだよなー」
シルエが声を上げて笑う。導師ではなくなってから遊びや散策にという理由での外出は実質初となるシルエもかなり浮かれているらしい。
「シルエとテオはここで待っていて。すぐ戻ってくるようにするから」
「ん、急いでねー」
テオは不安そうにしていたがシルエはにこやかに手を振る。片手はテオと繋ぎ、ゆらゆらと前後に揺らしていた。