76 喚び出されたモノ
居間に戻ったディネウは足を投げ出して、首裏と腕を椅子の背に預けぐったりと天井を仰いでいる。シルエとノアラも抜け殻のような状態だ。
疲労が濃いと食事もままならないため、夕食は口溶けが良く胃の負担にならず、且つ栄養価はあるもの。儀式に挑む前に準備しておいたのは野菜をじっくり煮て裏漉ししたスープと噛まずに飲み込めるほど具材を小さくしてよく煮込んだ粥。
「歯を食い縛りすぎて顎が怠い。うう…、美味しいのに食が進まない…」
呼吸を忘れないように半開きにされた口の端からスープが零れ落ちた。顎先を汚すそれを拭ってシルエが「はぁ」と息を吐いた。
「こぼすとか…はぁ…いい大人なのに情けない。こんなに魔力が削られたのも疲れたのも…久しぶり…」
行儀が悪いが頬杖をつき、スプーンを持ったまま、シルエはしばし休んだ。
疲れすぎて体が食物を受け付けないが食べないと回復も遅くなる。スプーンを運ぶ腕はまだ痺れが残りプルプルと震え、少量ずつゆっくり流し込むように食すしかなかった。
いろいろ気になることはあるが、有事に備えるためにもその夜は疲労回復を優先して早々に眠りに就いた。
翌日、ぼちぼち起き出して皆が揃ったのは陽も大分昇ってからだった。
「で、結局どうなったの? あれはどういうことなの?」
話をしながら軽くつまめるようにとテーブルに用意したのは甘い物が中心。木の実の飴がけや乾燥させた果実、粉にした穀物と油脂とハチミツを使って焼いた菓子、芋の団子など一口大のものばかり。早速ノアラが手を伸ばしてパクパクと口に運んだ。普段は甘い物を好まないディネウも積極的に食べている。疲労が抜けていない証拠だ。
「あー、あのね…。召喚されたのは下級悪魔の配下…使い魔? 的な存在」
「マジかよ。悪魔でなくてアレなのか」
ディネウが額の生え際から指を滑り込ませて髪をワシャワシャと乱した。眉間の縦皺は深く刻まれている。
「かなり怒っていたからね。そのせいもあるのかな」
使い魔はしきりに「騙された」「許さない」と叫んでいた。
悪魔は基本この世界に干渉する気はないようで、余程のことがなければ人の召喚に応じることはないらしい。それだけこちらの世界からは得られるものがないということ。汚れた魂はわざわざ刈り取りに来なくても堕ちてくる。
悪魔界と神界の間で諍いが起こると力の衝突は凄まじく、この世界や精霊界をも巻き込み、大きな綻びが生じるという。悪魔と神、二つの世界が休戦してから、この世界の人の寿命から換算すると長い長い時間が経過している。そうして偶々迷う以外は不干渉が続いていた。
ただ人の世界からちょっかいを出す気配に、世界渡りに綻びができてはならぬと、気に掛けた悪魔から様子を探ってくるように命令を下されたのがあの使い魔だった。下位の悪魔や使い魔の中には退屈に飽き飽きした血気盛んなものもいて、綻びができたのを好都合とばかりに勇んで出ていくことも考えられるからだ。
「なにそれ、悪魔ってそんなに常識的なの? 人を堕落させる存在とかじゃないの? 道が開けば一斉攻撃を仕掛けて征服しようとか考えるんじゃないの?」
「彼が言うには、精霊はきまぐれで、神は我が儘で、悪魔は気難しいって」
「…へぇ」
あり得ない偶然で、きちんと認識されていなかった名と音が似ていた使い魔は召喚の儀式にすぐ気が付いた。主に命じられた良からぬ気配の原因を探るためにも、召喚に乗じた。こちらの世界を覗き込むと、繋ぎ目がぐにゃりと大きく歪み、豊富な水量が涸れた川に注ぐように力が激流となって、使い魔はこちらの世界に押し出された。たくさんの悲鳴と嗚咽が聞こえ、多人数の奇蹟の力で取り囲まれている。攻撃を仕掛けるつもりのない使い魔が状況を把握しようとしているうちに、言葉も通じず、おかしな契約が一方的に結ばれ、名前を奪われる結果になった。
双方の死が訪れるまで力の提供をする契約、しかも提供先の人間には名がなく、召喚主が用意した『特定の名前』を与えられた者にという指定。それが意図的だったのか偶発的なものなのかは使い魔の知るところではない。
しかも召喚の実行者たちはその場で始末され、契約不履行も不可能となった。『特定の名前』を与えられた子供が亡くなっても、次の『名のない子供』が既に用意されている。
聖都の副神殿長が命じて行なったであろう悪魔召喚の成功は偶然の重なりがとんでもない確率で起こした不幸な事故のようなものだった。
不完全な召喚――正規の方法で喚ぶのではなく、世界の繋ぎ目を無理矢理にこじ開ける力を得るため――と、ねじ曲げられた契約を成すために多くの贄が使われ、それは契約続行のために定期的に続けられていたらしい。
「綱渡りじゃん! よくそんな恐ろしいこと実行するな…。え? 失敗しても自分だけは助かるとか思ってるの? 楽天的なの? 馬鹿なの?」
「こんなふざけた契約はない」と使い魔は憤ったが、名の縛りは強い。悪魔界へも戻れず、ずっと狭間に居続けることになってしまった。力を提供する気など毛頭ないが、繋がれた名へ呼吸が流れていく。それだけでも人にしてみれば大きすぎる力になった。
テオは捕まった時、自分の名を神殿の者には告げていなかったようで、名無しと断じられ『特定の名前』で呼びかけられた。その後は一度たりとも名前を呼んでもらえるような扱いはされなかったけれども。
本来の名前との相違、それが今回無理矢理ながらも契約破棄及び使い魔に名を返還することを成功させた。
「いや、無茶苦茶でしょ。契約主でもないのに主導権を乗っ取って反故にするとか。しかも名前を返して悪魔界に帰すとか。多分、向こうも『え? 何が起こったの?』ってなってるよ」
シルエの頭には悪魔界に帰り着いた使い魔が呆然と疑問符を撒き散らしている姿が浮かんでいた。悪魔は脅威だと思っていた印象が崩れていく。
説明を聞く間に突っ込みを入れるのはシルエだけで、ディネウは苦虫をかみつぶしたような顔をしているし、ノアラは口を半開きにしてぽかんとしている。
「うーん…。そうでもしないと彼もテオも死ぬって言うし、やれるだけの事をしてみた」
事も無げに言い、にこっと八重歯を見せて朗らかに笑むサラドに、三人とも嘆息を吐くしかなかった。
「なっ、何か危ない契約とか結んでいないよね?」
「してないよ。こっちの世界はもう懲り懲りて『二度と来るものか』と言っていたし。でも、何かあれば話は聞いてくれるっぽい。呼びかけの言葉の発音が難しいんだよなぁ…。そうそう、この件で力がついて使い魔から下位の悪魔に昇格したらしいよ。だから今はもう悪魔だね」
「は? 悪魔と話す…?」
「大体のことは後から聞いたんだ。あの場では契約がなかったことにできないか、方法を知っているか聞いただけ」
「確かにそんな長い時間じゃなかったけど…。えー…」
これからは悪魔もサラドに入れ知恵をできるということか、と考えるとシルエは盛大な溜息を吐いた。
「愚痴を聞いている気分だったよ。なんか申し訳なくて代わりに謝っておいたけど」
「人間を代表して謝ったってか?」
「代表?! そんな烏滸がましいことじゃなくて」
ディネウが皮肉っぽい笑みを向けるとサラドは眉を下げて「違う、違う」と手をパタパタと振った。
一通りの説明を聞いたノアラは一言「寝る」と言い残して部屋に戻った。入れ替わるようにパタパタと軽い足音が近付いてくる。テオが興奮した様子で駆けてきてサラドにボスッと抱きついた。
「ない。いなくなっている!」
指を広げて胸にあて、清々しい笑顔で見上げてきた。
「違和感とか、どこか苦しいとかはない?」
「ない!」
「そっか、それは良かった。お腹空いているだろう? 昨日の昼過ぎから眠ったまんまだったもんな」
テオが「うん!」と元気に頷いた。
「俺もひとまず帰るわ。何かあったらまた呼んでくれ」
「僕も、もう一眠りさせてもらおっかな」
ディネウが立ち上がると、シルエも大きな欠伸をして椅子を引いた。
「あのっ! ありがとっ」
テオが前屈する勢いで頭を下げた。ディネウは目を細めてふっと笑い、大きな手をテオの頭にぽすっとのせ、グシャリとひと撫でしてから、彼の住まう小屋に繋がる扉に消えていった。
テオは両手を頭に当てて、その方向を茫然と見ている。
「あのおじさんはおっかなそうだけど、あれで普通だから。単純だから怒っていれば顔にも声にも言葉にもそのまま表れるから心配いらないよ」
シルエがそう言うと「聞こえているぞ」とでも言いたげに扉が向こう側からダンッと叩かれた。
「ほらね、あんな感じで」
突然の衝撃音に耳を押さえてぎゅっと目を閉じたテオにシルエは肩を竦めて「ね?」と笑う。
テオも無事。悪魔がこの世界で暴れることもない。こんな大団円になるなんて、悪魔召喚について調べ始めた当初、シルエは思いもしなかった。
今後悪魔に攻め入れられないためにも楔は無くしておきたかったので召喚には挑んだが、正直テオの救出は半ば諦めていた。
悪魔を喚び出せたら倒すしかないと、その結果テオの命が失われるとしても、脅威を取り除かねばならないと。
ディネウも闘うつもりだったはずだ。だからこそ、サラドが彼を遠ざけようと画策したのにも勘を働かせた。四人がかりであれば下級悪魔ならギリギリ勝てただろう。
ノアラはできれば助けたいと思っていただろうが、無理と解ればすぐに切り替える判断はできるはず。過去何度もそういった経験を経てきた。
シルエは今回のことでも、サラドに言われるまではテオ以外の犠牲者の存在について、敢えて考えないようにしていた。感情に流され、がんじがらめになって動けなくなるのは危険だからだ。
(結局、サラドはこっちの予想も心配も超えちゃうんだもんなぁ…)
サラドが周囲の人を簡単に切り捨てることができる性格だったのなら、シルエもノアラもとっくにあの世に行っているだろう。
「まいったなぁ…。ホントに頭が上がらないや」
「うん? 何が?」
「…なんでもないよ。兄さんはすごいってコト」
「えっ、そんな話になってたっけ?」
サラドは「すごい」という言葉をそのまま素直に受け取らず「また、やらかした?」という意味合いに取ったようで困惑した顔をしている。
シルエはくつくつと笑って「また後でね」と手を小さく振って居間を後にした。
食べても細いままだったテオは日毎に元気になっている。底を突く勢いで魔力を使ったノアラが今度は眠ったり起きたりを繰り返していた。急激に失うと回復にも時間がかかる。魔力が生命力とも繋がり、回復にも影響するためだ。その力が莫大だと尚更なのだろう。そこをいくと魔力の総量が少ないサラドは一晩も休めば充分だ。
陽の当たるベンチで読書をしていたノアラがいつの間にか眠ってしまっていたようで、テオがおんぶ用の毛布マントを持ってきて、起こさないようにそっと掛けた。テオはノアラにも直接「ありがとう」を言いたくて機会を窺っている。ノアラの人見知りと、人との関わりにまだ恐怖が残るテオは、儀式前は顔を合わせてもお互いにもじもじしていた。
肩に掛けようとした毛布が膝の辺りに落ちてきてしまうのを数度繰り返しているのを見て、サラドが手を貸した。
「大丈夫。ノアラにもちゃんと伝わっているよ」
テオは照れくさそうに、不安そうに、小さく頷いた。
「おーす、獲物狩ってきたぞ。おら、これ食って力つけろ」
「わー、大きいね、さっすが。しかももう捌いてある」
「今回は俺はほぼ手伝えなかったからな」
ディネウがガハハと豪快に笑った。彼もこの一件は緊張していたのか心底ほっとした様子だ。
「肝はサラドが食べてね」
「えっ…。大丈夫だよ。ほら、元気だし。肝はみんなで」
ぐいっと顔を近付けたシルエがサラドの下瞼をぎゅっと引いた。
「食べてね?」
「う…うん…」
シルエがにっこりと笑顔で凄むと、サラドはそっと視線を逸らした。