74 モンアントでの日々
早朝の鍛錬に参加したショノアは早々に音を上げそうになった。それでも今までと違う訓練法は新鮮でもあり、己の弱い部分を知り補うことができる。体が悲鳴を上げる以上に充足感が大きい。
兄に無理矢理引っ張り出されたマルスェイも基礎訓練を一緒に受けるはめになり、モンアント出身者としてより厳しいものが求められヒイヒイ言っていた。
「マルスェイ、大分堪えたようだな」
「え、ええ、まあ…」
訓練向きの動きやすい服装から着替えて朝食を済ませたマルスェイを兄が庭の散策に誘った。領主の館の庭といっても見目良い優雅なものではなく、植えられているのは基本的に食用になる物や薬になる物が主で趣には欠けている。
「父上からの許しを得てお前がここを飛び出してからもう何年経ったか…。いざという時に動けないのでは意味が無い。身体作りは休むな」
弟の情けない姿を薄い青色の目が鋭く見おろす。マルスェイはその目をしっかりと見返した後、俯いてぎゅっと拳を握った。
「兄上…。その、宮廷魔術師団は未だ実績がなく、評判も良いとは言えません。王都の騎士たちが来た際には何を言われるか…」
「そんなことは知っている。強くなるのに近道がないように、研究だって一朝一夕では成せないだろう。それが解らず、つまらぬことを言う者など無視すれば良い。私達はお前の決意を支持したんだ。迷うな」
マルスェイはぐっと真一文字に口を結んだ。
「もし…もしも、私が別の道を模索するとしたら、兄上はどう思われますか?」
「…? なんだ? 騎士に戻りたくなったのか?」
「いいえ、先頃、王都の城下が火事に見舞われたのはこちらにも情報が入ってきていますよね? そこで目の当たりにした力が、人々を守るための力が、それこそが必要なのではないか、と思い至ったのです」
「まさか、マルスェイ…。神官になりたいとでも言い出す気か?」
「神官になりたいというよりも、奇蹟の力を使えるようになれないか、と」
「並の信仰心では奇蹟の力など授けては下さらぬだろう?」
「仮説ですが…、これまでに聞き集めた話からすると、奇蹟の力 = 信仰心の強さ、ではないと思えるのです。そこを解き明かすことができれば…」
「罰当たりなことはするなよ、マルスェイ」
兄の厳しめの声音にマルスェイは再び口を引き結んだ。
「確かに昨日のセアラ嬢の清き祈りを見た限り、毎日共にしていたらその力に心酔するのもわからなくはない。だが――」
「いいえ、彼女ではなく…。ああ、もちろんセアラの祈りは素晴らしいです。人々を惹きつける力があります。王都で見たのはもっと人智を越えた…、あの時ここを守って下さった防御壁と同じ、いえ、もっともっと強い力でした。到底、足元に及ばなくとも…、千分の一でも、欠片でも、大事なものを守りきれる力の手がかりが欲しい」
話しているいちに次第に興奮してきたのかマルスェイが取り憑かれたように早口になっていく。
「…火の術はどうした?」
マルスェイはゆるゆると首を横に振った。
「適性がないようでして…」
姓を捨て、表向き家族ではなくなったとはいえ、兄はこの無鉄砲ともとれる末の弟のことが心配だった。あの惨事の記憶はこの弟をずっと縛り続けている。これまでは敵を一掃させた攻撃力の強い術への憧れに突き動かされ、今は何からをも守る力を欲している。それは全てこの地のため。この土地と領民を守るため。
しかし仮にその力を得ることができた場合、危機に瀕した時に望みは叶わず、王族と王都を守るのが最優先され、そこから離れることは許されぬだろう。
「やれるだけのことは全てやる、それがお前だったな…」
兄の諦念にも似た声にマルスェイの想いは揺さぶられた。
モンアントでは果樹や畑で荷を運ぶ小型の馬、農耕馬、駿馬、軍馬、重い荷車を引くのに適した体格の大きい馬、と体高も特徴も様々な馬がたくさん飼育されている。
マルスェイが提案していた通り、馬車を御す訓練のために砦の厩舎へと四人はやってきた。
「ここには名馬もたくさんいますよ」
「あそこでたてがみを編まれているのは何故ですか?」
セアラが指さしたのは数頭の比較的大きくスラリとした脚の馬。たてがみを三つ編みだったり、細かく幾筋にも分けて結んだり、それぞれ趣向を凝らされている。
「気性の荒い馬もたてがみを結わくことで少し大人しくなるんです。こちらの指示に従わせる調教の一環ですね」
広い放牧場で草を食んだり、自由に駆け回る馬たち。複数ある囲いの中では騎乗して障害物を越えたり、犬を周囲に配して走る訓練などをしていた。
小型の馬がセアラの前に連れてこられた。長身の男性なら跨がって膝を真っ直ぐに伸ばせばつま先が地に着きそうなくらいだ。
「収穫物を運ぶのを主とした馬です。小さいので果樹の間や畑のあぜ道でも小回りが利きます。あまり人を乗せることはしませんが、この個体は子供が乗馬を習うために躾けておりますのでご安心ください」
「可愛らしいですね」
「こう見えて、結構、我が強く勝ち気なんですよ。一番温厚なのはあの荷馬車用の大きな馬ですね」
目線より低い位置にある馬の顔に出しかけたセアラの手をマルスェイが引いた。ガチッと歯が鳴らされ、耳が左右別の方向を向いている。セアラはビクリと体を震わせ、手をぎゅっと体に引きつけた。
「大丈夫、緊張しているだけだよ。このおばあちゃんには私も子供の頃、世話になった」
「おばあさんなんですか?」
「長生きではありますが、愛称ですよ。最近は多少なり丸くなりましたが、昔はよく自分より大きな馬にも歯を剥いていましたよ」
厩番のお爺さんがセアラの手を取って、馬にブラッシングをしていく。
「おっかなびっくり触ると嫌がります。気持ち強いくらいの力加減でブラッシングしてあげてください」
お爺さんは小型馬の首筋をポンポンと叩いた。セアラはこくこくと頷き、真剣な表情で馬の全身をブラシで撫でていく。その内に耳の動きも少なくなり、目もやや細められ、鼻先が伸びていった。
「こうして信頼関係を築くのも大事なことです」
「ではセアラの方は頼んだ」
「かしこまりました。坊ちゃん」
坊ちゃんと呼ばれたマルスェイは気恥ずかしそうにショノアたちに合流した。
足も太く、ショノアの身長よりも遥かに体高がある大型の馬に空の荷車を取り付ける手順が説明されているところだった。
たてがみも目にかかるくらいに長く、蹄の上にも伸びた毛がふさふさしており、長い尻尾がゆらゆらと揺れている。
代わる代わる指導を受け、昼休憩を挟んだ後はセアラとマルスェイは神殿へ、ショノアは剣術の訓練に参加するため移動し、ニナだけが引き続き御者の教習を受けた。周囲にいるのは馬丁や騎乗訓練をする兵士、あとは放牧されている馬たち。マルスェイの知人とされているからか、馬を怯えさせないためか、指導員は怒声を浴びせることもない。三人が去った後の方がニナは落ち着いて訓練に集中できた。
一日訓練に付き合ってくれた馬に水や飼葉を運び、体を洗う手伝いもしたが小柄なニナでは大型の馬の世話は一苦労だった。ひと言の文句も無く黙々と作業をするニナを見る厩番の目は優しい。
翌日もニナは御者の訓練へ向かった。昨日と同じ馬の体を清め、蹄を調べ、放牧場へと連れ出す。馬が自由に寛いでいる間に馬房の清掃と乾いた寝藁への交換を行う。指示をされずとも周囲を見て、確認事項だけの質問で動く。他の馬丁たちの話し声、小さな愚痴やたわいもない世間話にもつい習慣で聞き耳を立ててしまうが大抵は馬の心配事の話だった。
ニナは教わった口取りや荷車の設置もしっかりと記憶しており、少し手間取ったのは重さくらいで、感心された。
その翌日もニナの行き先は厩舎だった。
(あいつら…。御者の役目はすっかりわたしに押しつける気だな)
ニナ自身もこの視察では己の特質がそれほど必要とさせていないことに気付いている。狭い馬車の中でマルスェイのおしゃべりを聞くことになるくらいなら御者台にいる方が気楽だ。警戒もしやすい。
飼い付け時に林の中で採って来た果実をあげても良いか聞くと、厩番はにこにこと頷いた。皮が薄く甘みと酸味があるシャキシャキとした果実をナイフでスライスして差し出すと大きな下唇が繊細な動きでニナの手ずから食べる。馬が次を催促するように前掻きをすると足下に地響きを感じる。顔だけでニナの上半身を優に超す大きさに、腕ごと食べられてしまいそうに見えてしまう。
訓練場を出て実際の道を移動し、方向転換も停止も問題なくできるようになったニナは最後にその馬に跨がらせてもらった。厩番が手を貸そうとしたが、身軽な動きでひらりと飛び乗る。鞍は着けていないのですぐに降りたが、高い視線と温かな体温は心地良かった。
ニナが厩舎に詰めていた頃、セアラは灯台の町同様に神殿の手伝いをし、マルスェイは地元にかこつけて魔術師ながら神殿の教えを請うていた。
「魔術師だから信心がないとは我々も思ってはおりません。ですが、貴方様のためにも修行を認めることはできません」
モンアントで領主の三男が姓を捨てて魔術師になったのは周知の事柄。そのため、権力に物を言わせて道理をねじ曲げたなどと噂が立たぬよう、神殿はマルスェイのいきなりの修行を拒んだ。まずは真摯な姿勢を、と祈りの言葉の唱和や基本的な教えの講義を受けさせた。
その頃、ショノアは早朝の自主鍛錬に加えて午前中の訓練にも参加。打ち合いを願い出て、多くの兵士と木剣を交わし、合間にそれとなく領地のことや日々の生活の話を聞きだしていた。己を鍛えることと命令に従うことに関しては厳しいが、兵士の多くは気の良い人物だった。この土地出身ではなく、騎士職に就いていた頃の領主を慕って転任して来た者もいるらしい。
また国境の警備体制も学ばせてもらった。砦には国境側に多くの矢狭間があり、そこから覗くと林の先に豊かな川、中州、水量に乏しい川、そして砂利ばかりの灰色の土地が見えた。あの中州が国境。その線引きは過去何度も移動し、川の利権や土地を争って、その先の草地までが王国だったこともあるという。
街側を見れば丘陵地に畑と林が広がるのどかな雰囲気だ。とてもここに巨大虫が押し寄せたとは信じられない。十年以上の時が癒やしたのもあるだろうが、魔物被害の形跡などあの林の中の黒ずんだ地だけだった。
午後は砦の市街へ降りて人々の様子を窺う。兵士やそれに関わる者たちが中心の造り。商店と飲み屋などが数軒、鍛冶屋の一画も。常に戦を想定した町、ショノアは騎士でありながら自分がどれだけ安全な場所にいたのか改めて身に染みて感じていた。
そして日課となった、夕べの祈りを終えたセアラを迎えに神殿へと足を運ぶ。
モンアント滞在の最終日、セアラの希望で林の中の黒ずんだ地に再び訪れることにした。
「これは…」
最初に異変に気が付いたのはマルスェイの兄だった。まだ他よりも色は濃く、ぽっかりとした空間であることは変わりないが、前と同じようにひと掬い土を手に取る。べちゃっとした炭のようなものは今ぼそぼそとした焦茶色の、紛れもない土だった。
「すごい! 奇蹟だ」
驚愕と歓喜に兄が片膝をついてセアラに礼をとった。それを筆頭に兵士も、マルスェイも次々に膝を折った。
「どうか我々も一緒に祈らせてくれ」
四人の男性に傅かれ、セアラは当惑しながらも急いで自らも膝をつき、祈りの言葉を紡いだ。頭に思い浮かべたのは港町から分け入った村で濁りが気になるという井戸に祈りを捧げた時のこと。その際にサラドがセアラの背中を押してくれた言葉だ。
『祝福があると人々を安心させてあげること。祈りと感謝の大切さが伝わればそれで十分』と。
(この土地の傷が癒えて、人々が安心できますように。祝福がありますように)
この時も光が溢れることも、急激な改善もなかったが、皆が満足した顔を向けてくれた。
「セアラの祈りは本当に素晴らしいな!」
感極まってマルスェイがセアラの手をぎゅっと握り、それをやんわりとショノアが解く。また誰かが「おや、おや」と茶化した。