73 セアラとニナ
モンアント領に入るには物々しい石壁が待ち構えている。見上げるとアーチ状の門には鉄柵が持ち上げられていた。壁の上部胸壁にも物見の塔にも兵士の姿は見当たらない。
「こちらの門が閉じられることはほぼない。敵を町の中に閉じ込めるためのものだからな」
マルスェイが町の有り様を解説した。
門を潜って最初の町は市場や商店も並び、道も石畳で他の町と何ら変わりのない暮らしがあるように見えた。手前付近は果樹が多く、奥に従って見通しの良い畑が連なる。
「ここから先は丘陵に農地が多く、あえて道も整備していない所も多い。仮に砦を破られてもこの町で食い止め、一気に他の町まで攻め込まれないためのものだ」
確かに道も真っ直ぐには延びておらず、その所々には攻撃を防ぐための石壁があり、濠のような窪みも残されている。
大きくはない領地は戦地になることを前提にされていた。
「この町以外には砦まで宿もない。迎えの馬車も来るはずだ。今夜はここで休んで明日は国境近くまで向かうとしよう」
「マルスェイがいる時点でここの視察は秘密裏にはならないな」
苦笑したショノアに「モンアントにやましい事などない」とマルスェイはふんと鼻を鳴らす。
「宿なんだが、これからは安全のためにも個別ではなく基本、俺とマルスェイ、セアラとニナの二部屋にしていこうと思うのだが、異論はあるだろうか」
その提案にニナは眉を顰め、セアラは「どうしよう」と顔に書いてある。
「私、就寝も早く、起きるのも早いのですが、迷惑にならないでしょうか」
「わたしに警護しろと?」
ちらちらと横目にセアラはニナを気に掛ける。ニナはその意図を汲んでショノアを睨んだ。
「いや、そんなつもりはないが…。お互いに安全に気を配れば、危険を未然に防げるだろう?」
ニナが「ちっ」と舌打ちをした。同室が嫌なのだろうと察してセアラがきゅっと唇を噛む。
「女性同士、相談しあえる事もあるだろうから、仲良くして欲しい」
「女性同士…、えっ?」
驚きに目を見開いて口を両手で塞ぐセアラの反応にショノアとマルスェイは「やっぱり」と内心で頷き、ニナは忌々しそうに目元を歪めた。
「ちっ …あいつが女性扱いしろとでも言ったのか」
「そうじゃないが…。今まではレディに対し配慮が足りなかったよな。その、すまない」
「思ってもいないことを…」
ニナの睨みを避けるようにショノアは目線を外し、降参とでも言うように両の手の平を顔の前に挙げて見せた。
「そういう訳だからよろしく頼む」
泊室に入ったセアラとニナの間には奇妙な緊張感が漂っている。
「…物音をたてないのは得意だ。いないものとして扱ってくれて構わない」
「そんなことはっ。…あの、ごめんなさい。今まで気付きもしなくて」
「当然だ。知られぬようにしている」
「どうして?」
胸の前で手を組み、首を傾げるセアラの仕草は女性らしい――それも庇護欲をそそられるような可愛らしさがあり、いちいちニナの癇に障る。
特殊部隊でも、女児は標的に警戒されにくく接近するのに役立つ。成長後も女性であることを全面に押し出してその身体的特徴を活かし、武器にする者もいる。歓楽街などの潜入にはもってこいだ。
ただニナはそれに適さず、肉置き豊かな体型には程遠く、胸の膨らみなどほぼない。かといって筋肉も付きづらく、肋が浮く痩身。頬の傷も印象に残りすぎた。
女性にしては低めに抑えた声も少年を装うため。肩幅が張って見える服を着て、座る時にも足を揃えることなく開き、手の仕草にも気を使う。そうして作り上げてきた姿は身体に染みついて、もう女性らしい動きは逆に気恥ずかしくて取れず、他人の癖も戦略的なものかと勘繰ってしまう。
その反面、男と見れば小柄な少年であろうと相対する敵は手加減などせず全力で潰しに来る。素早く逃げることと切り結んだ時にも力負けしない技を身につけるのはとても苦労した。
「女というだけで舐められる。危険に遭う。アンタも前に被害にあっただろう? そういうことだ」
山林の町の宿であったことを思い出し、セアラの顔色が悪くなる。指先も僅かに震えていた。
「本当はショノアが同室で守りたいんだろうが、体裁が悪いからとわたしに押しつけたんだろう。神官見習いの服がまだ抑止力になっているし、ショノアが目を光らせているが、自分自身でも気を付けろ。そういう純真無垢そうなのを手籠めにしたいって趣味の奴だっているんだ」
忌々しそうにニナが吐き捨てる。俯いた状態でセアラはこくこくと頷いた。
「…ごめんなさい。手間をかけさせて」
「部屋にいる間は一人も二人も同じだ。一緒にいない時のことまでは知らない」
ニナがふいっと顔を背けた。
「…でも、嬉しいわ。今まで私だけ女性でお荷物だと思っていたから。本当に、その、不安で。…あの、いきなりだけど…ニナは月のものの時はどうしているの? 辛い時はそれとなく言ってもいいものかしら、って悩んでいたの」
「月のもの?」
ニナの周囲ではこの表現は使わなかったのか、通じないことでセアラは困惑した。二人しかこの部屋にはいなくてもはっきりと口にするのははばかられ、もごもごそわそわと恥じらった。そして業を煮やしたニナにひと睨みされ、耳元に顔を近付けて小声で説明した。
「…普通は毎月あるものなのか?」
「人によって違いはあるけれど28日前後の周期だと思うわ。まさか…ないの?」
ニナが小さく頷いた。特殊部隊の訓練所でそういったことを教えてくれる者も、信頼して相談できる者もニナにはいなかった。夜中、一人で打ち身や裂傷、栄養不足に喘ぐのは日常だった。
「最後はいつ?」
首を傾げしばらく考えたニナは結局「忘れた」と答えた。
「駄目よ!」
悲鳴のように叫び、セアラは思わずニナの腕を掴んだ。
「もっと自分の心身を労らなきゃ。ちゃんと食べて、ちゃんと休息して、整えないと」
「…余計なお世話だ」
セアラの手を振り払い、ニナは迷惑そうに呟く。
「サラドさんだってそう言うはずだわ」
「なんで、ここであいつの名が出てくるんだ?」
「いつも皆んなの疲れ具合とか体調とか気にしてくれていたもの。そうだわ、私の治癒を受けてくれない? まだかすり傷くらいしか治せなくて、病を癒すなんて夢のように遠い目標だけれど…。練習にもなるわ」
「わたしを実験台にする気か」
「あっ ごめんなさい。そんなつもりじゃないの…」
しおらしく俯くセアラの姿を目にした者はニナが無下にしていると捉えるだろう。そして相手は悪くないのにその表情で見つめられると罪悪感を抱かせることにセアラは無自覚だ。それが想像できてニナはなお苛々した。
「もう寝る。邪魔しないでくれ」
「…おやすみなさい」
翌日はマルスェイの宣言通りひたすら国境を目指した。先に文を出していたのか領主の館である砦では歓待を受けた。領主とその嫡子はマルスェイとよく似た淡い金髪に薄い青色の瞳をしている。体躯だけは彼よりも鍛えられているのが服の上からでもわかった。
「セアラにお願いがあるのだが…」
マルスェイの珍しく殊勝な態度にセアラも何を言われるのかと、つい身構える。
「魔物の大発生が起こった場所は今でも死んだような状態なんだ。そこで祈りを捧げては貰えないだろうか」
「そんなことでしたら、喜んで」
マルスェイの要請にセアラも快く応じ、マルスェイもほっと表情を崩した。
「恩に着る。ありがとう」
魔物の後遺症についてが、この地での調査内容であるためショノアも異論はない。翌日、次期領主であるマルスェイの長兄と兵士二名が道案内と護衛として同行し林の中を進んだ。
日が高く昇るとまだ日中は暖かい。ひらりと眼前を舞った落葉は赤茶に色づいていた。下生えの草に気を付けていないと種子や綿毛がマントの裾にびっしりと着いてくる。
コツンと小さな衝撃を頭と肩に感じてセアラがきょろきょろと振り返った。
「ああ、ちょっと止まって、セアラ」
セアラのきっちりと編み込んだ髪にショノアが手を伸ばす。その距離の近さにセアラは緊張して思わず目をぎゅっと瞑った。髪が少しだけ引き攣れた感触があり、「ごめんっ」と焦った声がする。
「取れたよ。ごめん、少し髪を乱してしまった」
ショノアの手の平には外皮にかえしのような繊毛がある種子が載っている。頭上の枝を仰ぎ見て「栗鼠か小鳥の仕業かな」とショノアが呟いた。
「あ、ありがとうございます」
その遣り取りを見ていた者から「おや、おや」といった声があがり、二人は思わず突き飛ばす勢いで距離を取った。前にも二人が駆け落ち中だと噂されていることがあったため、誤解を招きかねない行動は慎もうと思っていたはずだった。
「違います!」
「…セアラ、それではあまりにショノアが不憫だ」
「あっ! 違います。ショノア様はこれを取ってくれただけで…」
「わかっているよ。大丈夫」
引っ張り出された一筋の髪を慌てて編み込みの中に整えながら、耳を紅潮させてあわあわと否定するセアラをマルスェイが宥めた。
「す…す、すみません…」
「兄上、彼女はとてもはにかみ屋なんです。からかうようなことは控えていただきたい」
「レディに対して失礼だった。申し訳ない。ただ微笑ましかっただけで…」
いたたまれない表情のセアラをそっとしておくためにもマルスェイは兄とモンアント兵に話を振った。
「王都から騎士団が合同訓練に来るそうですが進捗はどうですか?」
「今は各地で収穫祭の準備があるので、冬の初めに第一弾が来訪予定だ。お前もどうだ? 少し体が薄くなったんじゃないか」
兄に手の甲でコツッと胸部を叩かれたマルスェイは、軽い力加減のわりに重い痛みを感じて「コホッ」と噎せた。
「いや、私は――」
「魔術師であれ、体は資本だろう?」
「あのっ、俺…いえ、わたくしにもご指導いただけないでしょうか」
「君は今朝も一人で剣を振っていたね。…うちは厳しいぞ?」
ショノアが腰に差している剣が騎士のものであるのを見て、兵士たちがニヤッと不敵に笑った。
「よ、よろしくお願いいたします」
「では、明日の朝から早速」
自主鍛錬にショノアの参加が決定したのを受けて、マルスェイが話を逸らすように懸念事項も伝える。
「崖の灯台近くにて非常に大きな虫の目撃談があったようなのです。残念ながら見つけることはできませんでした。こちらでも警戒を」
マルスェイが物資の運び人が示したのと同じように肩幅より少し広く両手を広げる。それを見て、兄は過去の惨劇を思い出したのか空中の少し高い位置に目線を固定した。あの時、現れていたのは成人男性と同じくらいの巨大な虫だった。
「虫か…。今年はもう収穫を終えたが、大群ともなれば畑が全滅しかねない。冬には虫の活動は鎮まるはずだが見回りは強化しよう」
そうこうしているうちに急に開けた視界はそこだけ別世界のような、黒ずんだ土のぽっかりとした空間だった。
「経緯については聞いたかもしれないが、ここに魔物の卵嚢を見つけ、火で囲んだ。卵に関しては焼けたようなのだが、その中で成長していた魔物は火さえも力に変えて一気に孵化したらしい」
マルスェイの兄が痛ましいその土を掴む。指からこぼれ落ちるのは、肥沃な土でもなく、痩せてさらさらの砂でもなく、水気を含み崩れた炭のようなものだった。
「この通り、土もこの有り様で、ここだけ草も生えない。この土を掘り出して別の土を入れ替えても元の木阿弥。耕して肥料を混ぜてみたり、植樹もしてみたがすぐに枯れてしまう。まるで呪われたようだ」
陽の光さえ避けているようなその空間を呆然と眺めていたセアラは導かれるように数歩前に出て膝を折った。背筋を伸ばし、胸の前で手を組み、すっと息を吸い、目を伏せる。
祈りの言葉が紡がれ出すと、ニナ以外の残り全員が自然と右手の拳を胸に左手を背に回して軽く頭を垂れる姿勢をとった。
「…すみません。私の祈りでは気休めにしかならないかもしれませんが…」
結びの言葉を終え、暫しの余韻の後、立ち上がったセアラは深々と腰を折った。手応えは感じられなかった。魔物を探し出した時のような引っかかるものも、身体を巡る力も。
しゅんと項垂れるセアラにマルスェイの兄は「とんでもない」と声をかけた。
「素晴らしい清浄たる気です」
おとぎ話のように光が溢れて黒く煤けた地を一瞬で木々が覆うような奇蹟は起きない。それでも心なしか明るい陽が射しだしたような気配にモンアントの者は希望を抱いた。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマーク 嬉しいです!