69 召喚の準備
「ノアラ、これは?」
「右、ニ」
「ここだね」
テオを解放するための準備も大詰めで、散らかり放題の本を片付けながらサラドはその手伝いをしていた。大概のものは分類も迷わず、たまに指示を求めてもノアラの短い言葉や視線だけで、床に積み上げられた本が書棚に戻されていく。
「これは、まだ必要そうだから机に置いておくよ」
サラドの方を見もせずにノアラがこくりと頷く。書き留められた何枚もの紙も簡易な表紙が付けられまとめられていた。
「なんかサラド、すっかりノアラの秘書みたいだねぇ」
ノアラが「違う、違う」とでも言いたそうに首をぶんぶん横に振った。「ふーん」と疑問なのか納得なのかわからない声音で鼻から息を漏らしたシルエは、神殿から持ち帰った本に書かれた魔術陣の文言を指してサラドに意見を求めた。
「召喚についての魔術陣なんだけど、分解してみると、ここ違う気がして」
「そうだね、ここは言語が違う。無理に当てはめたのかな…。多分、こう、かな」
解析した内容を書き留めた紙の余白に「ここに書いていい?」と同意を得て、サラドがサラサラと書いたのは見たこともない図形のような羅列だった。
「え? なにこれ、何語?」
「呼び出す悪魔の名前だね。ひょっとしたら召喚しようとした悪魔ではなくて、この音に近い名前の悪魔が引き寄せられたのかも」
「あー…、とすると、ここ正しく直すと却ってまずいのか…。えー、こんないい加減な召喚をしようとしたのかな」
「準備が不十分の場合、失敗で済めばいいけど、喚ぶ側の力が弱いと、悪魔は応じるまでもなく魂を喰らうだろうから」
「うわー、じゃあ、奇跡的に成功しちゃったってこと?」
「…多分。…その、用意された生贄が多かったか、余程魅力的だったか…」
言い淀んだサラドの言葉にシルエが顔を顰めた。テオの表情は日に日に明るくなってきているが、体調は芳しくない。サラドとノアラはシルエを気遣って口にしないようにしているが、隷属の術のために依り代にされた子供はテオ一人とは考えにくい。
本来自分が持つのと異質の力を受け入れていられるのは、その力に対抗しうる自力があればこそ。なんの訓練も知識も無いまま器にされた子供はもって二、三年だろう。テオの前にも犠牲になった子供がいる。魔力を身に秘めていたばかりに。
そして悪魔の召喚と契約には生贄が必要になのが定石だ。もっとも簡単で確実な方法がとられただろうことは想像に難くない。一体今までに何人の罪のない子供の魂が捧げられたのか。
「僕が…、養護院の拡充を推し進めなければ…。不自然に消える子供たちは売られたものとばかり…」
「違う。シルエのせいじゃない。養護院に救われた子はたくさんいる」
いつから副神殿長が隷属の術を使っていたのかはわからない。脈々と受け継がれていた可能性もある。それでも力の強いシルエをねじ伏せるには強い力を必要とし、消耗も激しかったのだろう。
「養子縁組に有利だからと、地方の神殿から連れてこられる子もいたんだ…。おかしいと思って調べようとした途端、養護院の運営に口を出すことを禁じられた。だから…こっそり見守るしかできなくて、お守りくらいの術しか掛けてあげられなくて…。もっと、もっとできることがあったはずなのに」
「シルエ…」
明るい草原のような緑の目が暗く沈む。大きな手が淡い麦わら色の頭をほわりと包み、引き寄せた。
「ごめん」
「…なんで、兄さんが謝るのさ」
「犠牲になった子がいる事実は覆せない。でも、それはシルエのせいじゃない。この件を片付けて、浮かばれない魂を救おう。あの魔人に利用されないためにも」
シルエの肩がビクリと震えた。結界を失った聖都には魔人程の力があれば潜入は可能だろう。しかも影を送り込むのを得意とし、追いかけっこと称して女王を追い詰めるような享楽的な魔人だ。神官の手にかかり弔われず放置された死者が多数いると知れば、興味をそそられるに違いない。
「そうか…。そこまで考えていなかった。魔人の動向も注視しないとね…」
眦が濡れているのを誤魔化すようにシルエが何度も瞬きをしている。
ノアラがおろおろと空で手を彷徨わせた時、低い声が屋敷内に響いた。
「おーい、ノアラいるか? わっ なんだ、この状況?」
部屋の入口でディネウがぎょっとして立ち止まった。ノアラが眉尻をほんの少し下げ、しゅんと俯く様に頷く。サラドの手が放れてシルエが聞こえない程度に「ちっ」と舌打ちした。
「お、おお…、なんか、邪魔したか?」
にこっと微笑みながらも目が笑っていないシルエを避けてディネウはノアラにメモを差し出した。
「悪ぃな。これ、港町でも手に入らなかった」
ノアラがメモを受け取ってふるっと首を横に振った。すかさずシルエが覗き込む。
「どれ? あー、魔法陣を描くのに使う鉱石か。顔料にもなるけど毒も含まれるから流通はしていないのかな」
召喚の際に使用する香のための薬草や香木はサラドが調達済み。万全を期し、力を最大限込めるためにも床に魔法陣を描く顔料にも特殊なものを使用する。物流の盛んな港町にディネウが探しに出掛けたが手に入らなかった。
「画家が多いケントニス領に行ってみようか。あと、灯台の町でタイルの色づけに使ったりしていないかな? そこを回ってみて、それでもなければ採ってくるよ」
サラドが事も無げに言う。
「とって…って採掘する気? そんな簡単に言うけど」
「場所はなんとなく目星がついているから…。あ、そうだ。ついでにこの間の古語の訳も渡して来るよ」
「灯台の町なら俺が行こうか? あの町なら俺の方が顔が利くだろ。あの爺さん、結構、足元見るんだよな。サラドだとナメてくんだろ? 下手したらまたノアラの代理だとは信じてもらえないかもだぜ」
「ディネウは顔が利くんじゃなくて、脅しが利くんでしょ」
「お前…」
言いたい放題のシルエをディネウが半眼で睨む。
灯台の町の水道工事の着工時、サラドは王都で暗殺されかけた後のため、傭兵の一人としてなるべく身を潜ませていた。そのため、その後もこの町でノアラの代理として交渉を行う際はディネウが表に立つことが多い。
サラドは代理の代理といった位置付けをされている。
「じゃあ、髪、黒くして行こうか。ノアラが次に行く時のためにも、今後のためにも印象は良くしておきたいし」
「わざわざ? その度に黒くする気?」
「んー、今までも黒くしていたし…」
前髪の一束を引っ張ってサラドが自身の髪の色を見る。その白髪に手を伸ばしてシルエがわしゃっと乱した。もともと癖っ毛であちらこちらに跳ねているが、毒の影響が残っている毛先はパサついてボサボサだった。
「…。まあ、ここでサラドにどういう態度を取るのか見るのもアリかもな」
少し考え込むように顎に親指を添えて、ディネウにしては歯切れ悪く呟く。
「何? 何か気になるの? その爺さんって人」
「まぁ、な…。あんまりノアラを食い物にしようとするなら、そろそろ別の所に変えてもいいんじゃねぇか? あの爺さん、そんな世間一般の印象通りの好々爺じゃねぇよ」
灯台の町随一の商家は急成長ぶりを貴族やライバルから目の敵にされないように、次々に別会社を作って適度に分散させている。あえて爵位の話も断り、権力欲はないように見せかけ、批判や懸念を躱すため、必要な所には金もばらまいている。御隠居の支援という行動を目立たせれば、対外的には道楽で散財していて財を貯め込んでいないと主張できる。しかも社会貢献という名目で。
それでいて、町を牛耳っているのも事実で、清い商売だけではなさそうだとディネウはどこか警戒していた。
今では復興に成功し栄えた町の筆頭だが、当時の壊滅的な町の様子は魔物被害だけでなく、蜂起した民の暴動もあってのことだった。それを煽ったのは、それで得をしたのは誰だったのか。
当時、人々の心はすっかり荒んでいた。水道工事には町の住人も作業員として雇用したが、初めてのことに懐疑的で非協力的だった。傭兵に対しても好意的ではなく、魔物から救ってくれなかったと逆恨みをされることも。
商家は王宮からの指示ということで工事を担う傭兵たちを受け入れはしたが、そつなく対応し、住人との仲を取り持つこともない。自分たちの利になるのか見極めるまでは高みの見物を決め込んだ。
ディネウと見えない指導者には畏れみたいな態度があるものの、他の者には土地を奪われると危惧しているのかギスギスしていて、工事が終わると早く立ち去れといった雰囲気だった。
その時のこともあって、この町の有力者にディネウはあまり好印象を抱いていない。
幾つかの町で水道工事を終えた頃には、ずっと作業を共にしてきた元傭兵たちは技術者となり、もちろん水道の保守、修繕の知識も備え、後は任せても良さそうに思えていた。その一方で、工事済の地域から修繕について聞かれたり、問題が生じたと呼び付けられることもちらほらと増えてきていた。
ノアラはこのままだとこの繰り返しでいつまでも現場から離れられないのではと悩み始めていた。そんなノアラにディネウはあの有力者を利用したらいいんじゃないかと提言したが、長く親しく付き合う必要はないと感じている。
こちらの思惑は通った、相手も十分な利を得た。もう十分だろう、と。
「ディネウがそう言うなら」
ノアラは意外にもあっさりと承諾した。人見知りのノアラにとって新しく人脈を作るのは負担だろう。
「じゃあ、頼まれていたこれは渡すとして。今後どうするかの判断はディネウとノアラに任すよ。二人が頑張ってきたことだし。明日からしばらく留守にするね」
「それなら、僕も行く」
「お前が行くとややこしくなる。やること済ましちまえ。…あと、あんま、深く考えるなよ。後悔はもう十分だろ」
「あー、うん…。わかった。あり…がと」
「おう」
ディネウの節だった手がシルエのほわほわの髪をぐしゃっと潰すと、ペシッと叩き返された。その様子をサラドはにこにこと眺め、内心でほっと息を吐いた。
翌日、サラドが灰色のマントに、帯剣、ランタンと弓も装備して荷を担ぐと、テオが洗濯を終えた毛布マントをよたよたと引き摺ってきた。
「ごめんな、テオ。今日は市場ではなくて、ちょっと危ない所にも行くから、連れては行けない。また次、一緒に行こうな」
テオは握った毛布を顔まで引き上げて、しょんぼりと顔を曇らせたが、「うん」と頷いた。
「約束」
「うん、約束な」
「サラド、僕との約束もあるからね!」
「いい歳の大人が子供に対抗心燃やすな」
シルエが唇を突き出した不満顔をディネウに向けた。
「そうだ、これ、浄化の力を込めてみたんだ。どこかで試せそうだったら使ってみて。今後の参考にしたいから、よろしく。色々試してはいるけど、まだアンデッドに有効なのは作れていなくて」
「へぇー、すごいな。もう形にしたんだ」
「でしょー、僕、天才だから」
「うん」
「いや、そこは『天才って自分で言うな』って言ってやれよ」
まだ完成品とはほど遠く瓶に詰められた水にしか見えないものをサラドは「すごいな」と褒めそやし、大切に荷物の中にしまった。宝物のように扱われ、シルエは忸怩たる思いに顔を赤くして耐えている。ディネウが代わりにシルエのこめかみを指で突き、脇腹に拳で反撃されて「うっ」と声を詰まらせた。
ノアラが不安そうにサラドを見つめる。サラドが「ちょっと行って来る」と出掛けて帰って来なかったのは記憶に新しい。
「大丈夫。これもちゃんと着けているし」
サラドが苦笑して左手の甲を口元に近付けた。小指に嵌めた指輪の対をなす魔道具がリン…と小さな音をノアラに届ける。
「じゃあ、行ってくるね」
サラドが差し出した手をノアラが握ると、薄紫色の光に包まれ、その姿は消えていた。