67 特別な書物
軽く下げた頭と視線を上げた女性は、急かすような態度を取り、一言もなく出て行った男性を「失礼な人」だと思った。
ちらっと見えた紫色の目元は息を呑むような美しさなのに、礼節のなっていない残念な人だと。
付き人兼護衛に目配せして、建物の外に控えていてもらう。今の失礼な人もだが、気がかりな人物がもう一人いたからだ。
建物の外、扉から少し離れた場所で子を背負った人が大きな荷袋を脇に置いて壁沿いに腰掛けている。
「うーん、ショノアに悪いことしたかな。でも探索と違って視察は日程が自由にならないだろうし…。オレがいると迷惑かけるし…。ディネウの言う通り若者同士で切磋琢磨した方が…」
よく聞こえないが何やらぶつぶつと呟いていて不気味だった。フードから白髪が覗いていたのでお年寄りかもしれないが、纏っているのは使い古された毛布のようだし、食べ物の汁などで汚れている。背負われた子は幼子ではなく、首に回された腕が枯れ枝の如く細かった。
(物乞いとかではないといいけれど)
如何に一般に開放している公園内とはいえ、図書棟には貴重な書物や収集物が収められている。不審者に居着かれては困る。
心配になって扉の小さな窓から外を覗くと失礼な男と子を背負った老人が連れ立って去って行くのが見えた。
(嫌だわ。守衛を増やしてもらえるようにお祖父様に進言しようかしら)
女性はこの図書棟の主である御隠居の孫娘で、お嫁に出るよりもこの商家に残って仕事をしたいと望み年頃を迎えても勉学に勤しんできた。近頃ようやく認められ、印刷の版木のための写本という大役を任され、本日も貴重な本を祖父に返却しに来たのだった。手にするのは本を安全に運ぶための火にも耐性がある特注の鞄だ。
奥へと進むと受付カウンターの前で成人男性が床に這いつくばっている。垂れた汗がタイルの目地に吸い込まれて床の色を変えていた。御隠居は苛々と白い顎髭を何度も撫でている。
「…大魔術師とお知り合いだったのですね。私が探しているのを知っていて何故今まで…」
「マルスェイ殿、勘違いしてもらっては困る。あの御人は大事な取り引き相手。それはお主の憶測であって、確証などないだろう? 儂は商人として信用に足る人物であることを心掛けておる。もし、お主の身勝手な発言のせいで機嫌を損ねられたらどうしてくれる? とんだ損失だ」
「も…申し訳ありません」
「お主はまず相手を敬うことを知らぬのか。呼び捨てなど失礼も甚だしい。御人にはこちらからは連絡のしようがない。訪問してくださるのを待つしかないというのに。謝る機会さえもないのだぞ」
孫娘にとっては商業界隈の重鎮というよりも、豪胆ながらも茶目っ気溢れる大好きな祖父。その人がこの様に立腹した姿は珍しい。床に手を着く男性の息は切れ切れで、まるで必死に謝っているように見える。いつも冷静沈着な司書もハラハラして見えた。
「お祖父様、如何なされました?」
研究員や図書館の利用者が目にしたら誤解を招きそうな絵面に、思わず執り成すように駆け寄る。
「あ、ああ。儂の賢くて可愛い孫娘よ」
「ふふっ。そう言ってくださるのはお祖父様だけです」
孫娘はマルスェイに手を差し伸べた。
「さあ、お立ちになって」
「…ありがとうございます」
その手は小さく震えていて、酷く冷えていた。
「具合が悪そうですわね。今日はもうお帰りになって休まれた方がよろしいのでは? 歩けますか? 馬車を呼びましょうか」
「いいえ、とんでもありません。お気遣い感謝いたします。歩いて帰れます」
マルスェイは手を借りて立ち上がると御隠居に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。後日改めて謝罪に…」
「いらぬ。儂はな、差別はしたくないが贔屓はするのでな。もう…来ないでくれ。人生の先達として、ひとつ忠告しよう。マルスェイ殿は何を成したいのだ? 足元をもう一度よくご覧なさい」
マルスェイは口をぎゅっと閉じ、もう一度頭を下げて図書棟を後にした。
応接間に戻った御隠居はソファにドカリと体を沈めた。片手で両目を覆い、タイを緩めて大きく息を吐く。司書はお茶を用意しにその場を離れた。
「そういえば、入って来る時に失礼な人と、…身形がその、小綺麗でない人がいましたの。守衛を増やしては如何かと」
出入口の方を見遣って孫娘は御隠居に言った。
「‥‥。まさかとは思うが、その人に何か言いがかりなどつけていないだろうな」
「いいえ。一言も話しておりません。ドアを押さえてくださったのですけれど…」
御隠居は慌てて孫娘の肩に掴みかかった。見たこともない祖父の剣幕に彼女も身を竦ませた。
「…どうかなさいましたの?」
「その、マルスェイの前にお帰りになられた御人が儂らの大事な…、お前も尊敬するあの本の著者だよ」
「まあ!」
「ついさっき、そこに居たマルスェイが無礼な態度を取ってしまってな。もともと気難しい方ゆえ、お怒りになっていなければ良いのだが…」
孫娘は大事な取引相手の話は何度か耳にしていたが、同席させてもらえたことは一度もなく、残念に思っていた。礼儀作法を学び、いつかはこの几帳面な字を綴る学の高い人にお目にかかってみたいと願っている。
「申し訳ありません。私、失礼な人だなんて思って…」
「いや、お前に何事もなくて良かった。儂も防げず無念だよ。無口な方だから怒鳴ったり、物に当たったりは決してしない。静かに去るだけなんだ。だからこそ機嫌を損ねたら最後、取り付く島もない」
「そうなのですね…」
言い争うような声は建物外には聞こえていなかった。孫娘には先程のマルスェイがどんなことをしてしまったのかわからないが、自らがこの自慢の図書棟で恥の上塗りをするようなことをせずに済んでほっとした。同時にあの素晴らしい、新たな本との出会いが失われたかもしれない事実に気落ちする。
「では、もう本はお持ちくださらないと思った方がいいのね」
「自著ではないが、今日はこちらの本を授けてくださったよ」
「拝見しても?」
御隠居が頷くと孫娘は鞄から貴重な本を扱うための手袋を出して嵌め、気を配りながら本を手にした。
「素敵な本。保存状態もすこぶるいいわ。この美しい表紙。中の絵も。こんな細い線、どうやって印刷していたのかしら」
古語は解釈が難しい。内容が読めないことを残念に思いながらゆっくり頁をめくる。
「外套の中にもう一冊、いや二冊かも…、お持ちのようだったのに最後まで出してくださらなんだ。どのような本だったのだろう。悔しい。儂にはもったいないと思われたかのぅ」
御隠居には珍しい腑抜けた顔。
「そんなに気を落としにならないで。また、来てくださることを願いましょう。だってこんなに人の役に立つことを発表なさる方だもの」
最初に持ち込まれたのは『水道の保守、修繕の指南書』。工事の図面については防衛上の理由から、その地の領主か国が保管していて明かされてはいないが、工事の技術者が新たな着工の場に移動していく中、この本で修繕技術を工事に雇われていた経験者に学ばせることができた。
次に『農耕地の灌漑設備について説いた書』その次には『河川の氾濫予測と予防についての書』
これらの本は出版することの許しも得られた。その頃、孫娘はまだまだ未熟で作業には携われなかったが、その内容にも英断にもいたく感銘を受けた。
今現在の出版物は木版のため大量には刷れないし、手間も時間もかかるために高価で貴重だ。また技術は弟子となって学び受け継ぐのが一般的な中で、こうして書籍に記すのも異例。
何故、この商家に重要な本を託したのか。「この町が最初に水道工事をしたから」が最有力だが、財力と道徳心を試されたようにも感じる。
これらの出版物は主要な都市に寄贈し、役立ててもらうように取り計らった。おかげでこの商家の知名度も信用度もかなり向上し、商いはますます順調になり町も発展した。
「そうだな。お前の言う通りだ。古語の翻訳をお願いしたから、いらしてくださると期待しよう」
御隠居と孫娘は祈るような気持ちで、ほうっと息を吐いた。
◆ ◇ ◆
ノアラが図書棟を出るとすぐさま気付いたサラドがひらひらと手を振り、にっこりと笑った。すっかり疲れ切ったノアラは目が据わっている。
「ノアラ、手を出して」
麻袋から黍糖の小さな欠片を出し、ノアラの手の平にコロンとのせた。
ノアラの目元がふわりと柔らかくなり、口の端が少しだけあがる。口に含んだ黍糖はホロリと崩れ、いっぱいに甘みが広がり、鼻から焦げたような香りが抜ける。
ノアラの疲労によるイライラはもう消えていた。
「今日一番の収穫だよ。大枚をはたいた価値はある」
おかわりを要求するようにノアラが手の平を見せる。サラドはくすりと笑ってもう一欠片を取り出した。
「これを使って食べたいものはある?」
「…小さい豆」
「うん、黍糖と相性抜群だもんね。潰してパンにつけてもいいし、茹で汁がなくなるまでじっくり炊くと研究の合間につまむのにもいいしね。豆、買ってあったかな…。それだけもう一回、市場で見てもいい?」
ノアラは小さく息を吐いて、こくりと頷いた。
人混みを我慢しても甘い豆は魅力的らしい。
「ディネウが好きな小魚のオイル漬けも買えたよ。酒の肴に。シルエへのお土産は海老、辛味のあるソースをつけたら喜ぶかなって。卵も手に入ったからノアラにはそれでソースを作るね。テオも辛いのはダメだろうし」
サラドは他に購入したものを説明しだした。森の中の生活では海の幸はたまの贅沢品だ。今夜の食卓が俄然楽しみになりノアラの歩調も気怠そうなものから早足に変わる。
死角になる場所までしばらく歩いて、サラドの背に隠れる位置を取ったノアラは辺りを確認し、不可視の術を纏う。ふぅ、と安堵の息が漏れた。
屋敷に帰り着くと、ノアラは懐からそこそこの大きさと厚みのある本と書類を取り出した。
「え? 持って来ちゃったの?」
ノアラが「駄目だったか?」とびっくりして目を丸くした。
「その地下ってノアラが見つけて、ノアラしか入れないんでしょ。もうノアラのものじゃん」
同意を求めるようにシルエはノアラと頷き合う。
「でも…、その土地にあるものの帰属って、その土地の所有者にならないのかな…」
「えー? 問題ないでしょ」
「そういう…もの?」
「一応…、お詫びに本を置いてきたが」
図書棟での出来事を思い出し「やめておけばよかった」とノアラが項垂れた。
「ノアラってば律儀だね。どんな本?」
「絵物語。ここにもある」
「そうなんだ、後で見せて」
ノアラがこくりと頷いた。
「サラドは難しく考え過ぎだって。わっ、後ろとか肩とかすごい汚れてるよ。テオのほっぺもベタベタ。痒くなるよ、これ」
シルエが背伸びをしてテオの顔を覗き込んだ。
サラドの背後に回ったディネウが、毛布マントを脱いだ側からすかさずテオを抱き止める。
「疲れて眠っちまったのか? ほら、拭っといてやるから、お前も着替えて来いよ」
「ありがと。ホントだ。それで市場の人にチラチラ見られていたのかな」
脱いだ毛布を見てサラドが納得しているが、そのせいではないだろうと三人は思った。
「ふーん、『世界を繋ぐ力と渡る力』か…。古代王国時代は神も精霊も悪魔も人も、もっと近しい存在だったのかな。ご近所さん的な?」
ノアラが持ち帰った古書は神界、精霊界、悪魔界、そしてこの世界の『渡り』について書かれている。
「悪魔とご近所ってどんなだ。慎んで遠慮してぇ」
「さすがに神と悪魔はそうほいほいは来ないんじゃない? こう、高級住宅地に住んでる感じで」
過去に悪魔とも戦ったことはある。大きな獣も人型の魔物も魔人も悪魔も、一緒くたに全てが『魔物』と呼ばれているが、その強さは全く違う。
悪魔の力はとにかく濃い魔力の塊とでもいうのか、身体も強靭で、再生能力も高く、その戦いは熾烈を極めた。
一体現れるだけで、村どころか町のひとつふたつ簡単に滅ぶ。
ディネウであっても尻込みする相手だ。
「ほいほい来られて堪るか。二度とゴメンだ」
「それを呼んじゃおうっていうんだから酔狂だよね」
からからと笑うシルエの精神力をディネウは恐ろしく思った。