66 魔術師 対 魔術師
マルスェイは視察そっちのけで商家の邸宅へと向かった。
旧領主の不正が明らかになった際にその館は蜂起した民に襲撃された。ゴテゴテしかった領主館を慎ましやかな外見に修繕した現在の邸宅は、商家一族だけでなく従業員の住まいも兼ね、応接間に小さなパーティーを開催できる広間にと商取引の場も揃えている。
この町の有力者である商家は現在二代目が継いでいる。先代は聖都でケントニス伯爵夫人とお茶会に参加していた内の一人。
この商社を大きくした御仁は早い段階で手堅い商売を行う長男に家督を譲り、自身は各地を飛び回って買付けや交渉に専念していた。その役どころも長く同行していた次男に引き継ぎ、今は楽隠居の身。
この御隠居こそが学者や芸術家や技術者の支援者で、多くの者をこの地に誘致した張本人だ。
遺跡の床タイル画を修復するのに招いた技術者から学んだ職人がタイルの破片で戯れに描いたモザイク画は評判となり、その絵はこの町を彩る代名詞となった。
美化することなく、一目でその人と分かるような特徴を捉え、内面を描き出す作風が貴族からは好まれず糊口を凌いでいた肖像画家も御隠居が面白いと評価したことで、今では工房を構え、予約待ちの状態。
御隠居が趣味で集めた書物を保管するための棟は、料金を支払えば誰でも利用できる図書館として門戸を開いている。持ち出し厳禁のため、連日通っていた若者が「その視点は面白く見込みがある」と引き抜かれ、研究室と住居を与えられたのがはじまりの研究棟。学者ならば自由に蔵書を閲覧できる研究員の身分は喉から手が出るほど欲しいものだろう。
商いの方も一族の者にこだわらず数多ある系列会社は能力のある者に適材適所を任せている。
そんな人の元で働きたいと願う者は多いが、自由で豪胆な発想を持っている御隠居の人を見る目はその分厳しく、信頼を得るのは容易ではない。
商家の邸宅を訪ねたが御隠居はこちらには不在だった。望みは薄くてもマルスェイは図書棟にも足を向けた。
重厚な扉を開けると一階はガランとしていて、吹き抜けの天窓から射す光を受けた三段のみという謎の階段と手摺がある。遺跡の一部で、階段の角は取れ傾斜もついてしまっているが、美しい紋のある石材と手摺に彫られた不可思議な生き物が御隠居のお気に入りで、その保護を兼ねてこの棟は建てられた。
階段は上に伸びていたのか、地下があったのかは定かではないが、タイル画と合わせて、面妖な雰囲気だ。研究員がここで人影が消えるのを見たという逸話付き。
壁面の鍵付きの棚は貴重なガラス扉がこれでもかと使われ、貸し出し不可の書物や収集物が目線の高さに飾られている。その財を見せつけるような、持ち主の趣味を誇示するような造りだ。
タイル画の床をコツコツと靴音を鳴らし、上階に延びる階段脇に設置された受付カウンターへ向かう。
二階からが図書館。一般の閲覧可能な本が収められている。
いつもはきちっと姿勢良く椅子に腰掛けた司書がいるのだが、カウンターには不在だった。
「本の整理にでも行っているのだろうか」
しばらく待っていると司書がお盆を手に奥の応接間から出てきた。
応接間は御隠居のコレクションルームでもあり、最も重要な書物もここに厳重に保管されていると聞いたことがある。
つまり、応接間が使用されているということは、そこに御隠居がいるということ。マルスェイは自身の幸運に感謝した。
「御隠居にお目通り願いたい!」
図書棟内は思いの外、声が響く。
「困ります。マルスェイ殿。我が主は今、来客応対中です。お静かに願いたい」
この図書館を預かる司書は御隠居の側仕えとして長くこの商家を支えて来た人物。半分以上白い物が混じるようになった髪をきちっと撫でつけ、目尻に皺が寄っていても油断のない目つき。細身の体軀によれのないシャツとタイとベストを着た生真面目な印象の男性だ。
膨大な資料、統計、顧客に取引相手の好みまでを記憶する能力が遺憾なく発揮されて有能な秘書だった。御隠居とともに第一線を退き、今はその能力を司書として活かしている。また自身も本好きで、主の趣味も把握しているため彼の独断で新しく本を買い入れることも許可されているほど信も篤い。
「いつまででも待ちますから。どうかお願いいたします」
マルスェイも魔術書に、災害記録、魔物の観察録などの閲覧を求めてこの図書館には足繁く通ったため、彼とも面識がある。だが、あくまで図書館の利用客としてだ。
「本日はお引き取りを」
「では、せめて約束を取り付けていただけないだろうか。この町にいられるのはそう長くない」
「先触れもなく来て、些か無礼では?」
司書はすっと無駄のない所作で立ち上がり跳ね扉を押さえカウンターから出ると、マルスェイの前に立った。
今、カウンターの奥にある、主専用の応接間には特別な客が来ている。
ふらりとやって来るその上客が持ち込む手書きの本は主が不在でも全て無条件で、言い値で買い取れと言いつけられているほどだ。
それほどに貴重な内容ばかり。水道の保守、修繕の指南書に農耕地の灌漑設備について説いた書、河川の氾濫予測と予防についての書、古代文字の解読についての考察など、どれをとってもこの図書館の宝となっている。
まるで、必要となることを見越して書かれたかのような、これをどう扱うか試されているような書物の数々。
最近は遺跡から発見されたと思われる古書もちらほら持ち込まれている。可愛らしい童話などだが、そういったものこそ、当時の世俗や政治の暗喩が含まれており、研究者にとって垂涎の的だ。
殆どの場合は代理人のみか、あるいは一緒に来るが、当人は無表情に無口、気に入らなければ何も言わずに立ち去るため、応対に神経を使う。
その人が珍しく単身で訪れた。決して邪魔をしてはならない。
「我が主は資産家の道楽人に見えるかもしれませんが、私達は商人です。援助をするのもいわば先行投資なのです。ご自分の価値をお考えなさいませ。それを更に下げるような行動をされるようでは、いかに主が寛容であれど、私が許す訳にいきません。貴方は…がむしゃらなだけ」
マルスェイは投げつけられた言葉に動転した。
今までも御隠居とはケントニス伯爵夫人と同席の場で会ったことがあるが、からかわれるばかりだった気がする。それは彼がきちんと向き合う価値のない人物と見做されていたということなのだろうか。
凍り付いたように動けずにいるとガチャリとドアノブが音をたてた。司書はマルスェイに下がるように目で伝え、さっと扉を押さえに行き、深々と頭を下げる。
そこから現れた人物にマルスェイは言葉を失った。
鍔広の帽子を手に、紺色の外套の襟を立てて口元を隠した、金髪に怜悧な紫色の目をした男性。見えている部分だけで相当な美形だと想像させる。
すっかり白くなった顎髭を撫でながらご機嫌な様子で御隠居が続いて出てきた。
「だっ、大魔術師! どうか、どうか私を弟子にしてください!」
縋るように近寄ったマルスェイの動きをスルリと避け、距離を取ったノアラは呆気に取られている彼を睥睨した。ご機嫌から一変、険しい表情の御隠居は間に割って入り、マルスェイを厳しく見据える。
「これは、こちらの者が大変なご無礼を…。マルスェイ殿、儂の大事なお客人に何とする?」
「あ…、申し訳ありません。つい、興奮してしまいまして。私は宮廷魔術師のマルスェイと申します。サラ殿とは一時、旅を共にさせていただきました!」
僅かに細められたノアラの紫色の目。ここにいる者はその表情の違いを見極められない。
身長だけならマルスェイの方がやや高いのに見下されているように錯覚する。今更ながらに鳥肌が立ち、ぶるりと震えた。
(サラ…? サラド?
ディネウが『ガキ共』と呼んでいた者の一人か?
ディネウはサラドに彼らと関わる必要はないと諭していた。ということは僕も関わらない方がいい。
宮廷魔術師ということはサラドが代理となった者?
まるで親しくしていたような言い方だが…。共にした時間はそう長くないはず。
園遊会後の、サラドが平伏させられていたあの場には居たか? …壁際に居たかもしれない)
無感情に見えるノアラの頭の中ではディネウとの会話が再生され、情報が処理されている。その間、数秒の間はピリピリと張り詰めた。
いつものノアラなら完全無視でこの場を去っていただろう。
「断る」
「そう仰らずに、少し、ほんの少しだけ、助言をいただけるだけでもいいのです。私はただ魔術を極めたくて」
「極める…か。傲慢で強欲だな。僕もまだ浅識。手助けにはなれない」
ノアラが受け答えをするだけでも珍しいこと。御隠居も司書も固唾を呑んで見守っている。
平坦で静かな声とは裏腹に、じっと見据える視線は無意識に魔眼の術を発し、気圧されたマルスェイはその場に膝と手を着いて四つん這いになった。ダラダラと脂汗が額から滴り落ちる。
「…に手を取って貰ったことがあるか?」
マルスェイの心は千々に乱れ、唇も震えるばかりで質問の意図を問うこともできない。
「僕に魔術を教えてくれたのは兄…だ」
意味がわからないという顔を向けるマルスェイをノアラはじっと見続ける。面倒見の良いサラドのこと、魔術を志す意欲がある者を放ってはおけず、きっと手を取って、魔力の在り方とその循環について説いただろうとノアラは推測した。
待ってもマルスェイからの返答はない。まさか声も出せない状態だとは思わず、何故、答えないのかとノアラは眉間に皺を寄せる。御隠居が「ひぃ」と小さく悲鳴を上げた。司書は口を塞いで耐えている。
「…それが始まりで全て。そこで何も得られないのであれば、僕から言うことなど何ひとつない」
マルスェイは目線を少しだけ下げた。威勢よく突撃してきたのに、沈黙を保つ目の前の男にノアラは小さく嘆息し、ゆっくりと一度瞬きをした。
「目障りだ」
ぽつりと口から漏れ出たのはディネウの言葉だ。彼はしつこく付き纏われた場合によくこう言っている。
ノアラは慣れない問答に疲れ、背を向けて出口に向かった。いつもは外まで見送りもされ、面倒だと感じているので、追いかけて来られる前に大股の急ぎ足で進む。
今日は誰も呼び止めて来ない。ディネウの使う一言は効き目があるな、とノアラは思った。
出入口の扉では急ぐあまり入って来ようとした女性とかち合った。仕方なく扉を押さえて待つと、丁寧な礼を返して通り過ぎる。その優雅に見える緩慢な動作に「早く入ってくれ」といわんばかりに扉を押さえた指先がタタンッとリズムを刻んだ。
中に入った女性は振り返り、再び一礼をした。ノアラは一刻も早くこの場を去りたかったので、彼女が挨拶を口にする前に、扉から手を放し、スッと目を逸して出て行った。