65 サラドとショノア
たくさんの人がひしめく中で、市場から中心街に向かうひとつの人影にショノアの目が止まった。子供を背負った背の高い男性。灰色のマントでもないし、弓を手にしてもいないが、あの背格好は見覚えがある。
(いや、まさか、でも…)
そんなに都合の良いことがあるはずはない、と半信半疑ながらもショノアはその人影を追った。
(あれ、確かこっちに…)
人通りの少ない路地に入った途端にその人影を見失ったショノアは立ち止まってキョロキョロと周囲を見回した。
突如、背後から伸びた手がひたと首に当てられる。軽くしか触れられていないのに「いつでも絞め殺せるぞ」と主張する指先。背後を取られたことにも気付けず、全く隙のない気配に気圧され身動ぎひとつ取れない。
「目的は何だ?」
「…う…誤解だ…俺は…」
自身でも信じられないほどに震える声がショノアの喉から漏れた。
「ん? ショノアさま?」
指がするりと解かれ、背後の気配が数歩離れる。
「つけてくる者がいるので、少々手荒な真似をしました。ご容赦を」
「サラ! 違うんだ。悪いのは俺の方で…。すまない。俺は貴方に謝らねばならないことが」
「何をです?」
振り返ると、そこには殺気など微塵もない、良く知る朗らかなサラドがいた。
「俺は貴方を王都へ連れていくようにと指示され、まるで騙すように…」
サラドは合点がいったという顔をした。にこっと柔らかく微笑む。
「ああ、知ってましたよ。オレの名がサラドだってことも御存知でしょう? オレの方こそ、隠していたようで申し訳ありません」
サラドはゆっくりと丁寧な所作だが、背にテオを背負っているため浅く頭を下げた。
「…知って…いた?」
「ええ、でもオレの方も命がかかっていたので。九年振りに行った王都であんな…、因果ですかね。国や王都に害意はありません。信じてもらえるかはわかりませんが。名は最初に会った宮廷魔術師殿が勘違いしただけです。偽名を使うならもっと掠りもしない名にしますからね」
ショノアの事情をサラドがどこまで把握しているのか測りかねるが、怒っている様子は一切ない。
「でも俺はただ己の身可愛さに貴方が危険に曝されるだろう王都に…」
「上司の命令に従うのは当然です。ショノアさまは騎士でしょう? 戦場であれば、自分の意思を優先していては全体の統制が乱れ、守るべきものも守れなくなりますからね。敵の守るべきものを気にしては戦えません。己を律し、割り切る覚悟も重要ですよ」
「許してくれるのか?」
「許すも何も、何とも思っていないので」
静かな声。ショノアの方が良心の呵責にたえられない。
躊躇したが、どうしても聞かずにはいられず、口をパクパクと動かした。
「その…無遠慮だとは承知だが…陛下の愛人だと言うのは…」
「ああ、その話も聞いてしまったんですね。あり得ません。ふたりきりで会ったこともないですし。ショノアさまも陛下をご覧になればわかるでしょう? オレの気が回らず、陛下にも、王配殿下にも本当に申し訳ないことをしました。まあ、こちらも、信じてもらえるかはわかりませんが…」
「信じる!」
ショノアが食い込み気味に語気を強めた。一瞬驚いたものの穏やかに目を細めサラドが微笑んだ。
路地は日が陰り少し肌寒い。サラドは毛布マントから出ていたテオの腕を中に収め、軽く跳ねるようにして背負う位置を直した。
「背中の子は…」
「事情があって、今、保護しているんです」
「サラの子ではないのか」
「ははっ、違いますよ」
サラドにはもう新たな庇護者がいる。もう次の活動を始めているのだと思うと、ショノアは所在が不明な焦燥感に襲われた。
「あの…、厚かましいのを承知の上で頼む。これからも俺達に手を貸してはもらえないだろうか。きっとセアラも喜ぶし」
「セアラが? 何故?」
サラドは首を傾げた。本当に心当たりがないという様子にショノアは苦い思いをした。
「大変申し訳ないのですが、オレはもう、王都には二度と足を踏み入れないと約束してしまいましたし…」
「そんなっ。陛下はきっと…」
いち臣下のショノアが女王陛下のお心を勝手に推し量って口にしていいものなのか迷い、口を噤む。
「陛下のためにも、オレは王都に…、国に関わってはいけないんです。みんなは各地へ視察に行くことになったそうですね。是非、地方の実状を、人々の声を王宮に届けてください。それがきっと暮らしを豊かにする力になります」
少しでもサラドを引き留め、心変わりをさせたいショノアはぐっと口を引き絞り、頭を必死に働かせる。そして、思い出した事柄にぱっと顔を輝かせた。
「報酬! 受け取っていないだろう? 一緒に来て貰えればすぐに用意させる!」
「うーん、では、その分はこの先で、資金面で苦慮している養護院にでも寄付してください。お任せしますので」
ショノアは見当が外れて「そんな…」と見るからにがっかりと肩を落とした。サラドの笑顔が少し寂しげに陰る。
「…でもショノアさまのお気持ちは、王宮の中にもオレを信用してくれる人がいるんだとわかって、嬉しかったですよ」
「っ! 貴方の汚名を晴らすと約束する。だから…」
「お気持ちだけで十分です。…また機会があれば」
穏やかな笑顔のサラドが、胸に手を当てて礼を執ると、スッとショノアの背後に移動した。慌てて振り返ったが、もうその姿はどこにもない。
「待ってくれ。サラ…サラド! 貴方の友人を愚弄して申し訳なかった!」
自己満足だとしても叫んだショノアの声は人のいない暗がりに吸い込まれていき、応える声はなかった。
◇ ◆ ◇
サラドと分かれてすぐノアラは不可視の術を纏った。うっかり人とぶつからないように、いつもはサラドやディネウの背に隠れるように位置取っているので、一人の場合は人通りの少ない道を選んで足早に進む。
ついでに暗渠排水が通っている所で匂いを気に掛けてみたり、公園の入口の水汲み場では口に含んで異常がないかを確認した。
(問題ないな…)
遺跡の構造から見つけた水道の設備を現代に合わせて調整し、最初に着工したのがこの町だった。ノアラの指示はいつもディネウかサラドを通していた。有力者との交渉事も、工事を請け負った作業員との意思疎通も。
初めは何をしようとしているのか伝わらず、水を流すための道を地下に作って、地上から汲めるようにするなど理解してもらえなかった。そのため、この水道のために遠くの川に堰を作ることも、無駄なことと反発された。それほど水は御し難い存在だった。
終末の世を生きた人々は何をしても無駄と諦めることに慣れきっている。上手くいかないことも多く、躓いてばかり。
ディネウと傭兵たちが周囲の文句にもめげずに作業してくれなければ、どうなっていたか。
人払いをして時間をかければ、ノアラの土の術を使い完成させることも不可能ではないが、それでは人の為にならない。
何かを成そうとしてもノアラひとりでは考えただけで終わっていただろう。
でも、今こうして美しい水の流れがあり、排水が滞ることもなく町が清潔を保っているのは嬉しい限りだ。
ノアラは濡れた手を振って水を払った。サラドは口まめで「水の精霊が喜んでいるよ」とよく報告してくれる。水汲み場で水の精霊がくるくると舞って笑んでいてもノアラには残念ながら視認できない。その様を想像して口の端をちょっと上げるだけの不器用な笑顔をした。
公園の奥にある図書棟の扉が誰もいないのに開かれ、閉じた。上の階から利用者が不思議そうに目を見張るがノアラは気にせず奥に進んでいく。ノアラの目的は一般の人が利用できる蔵書ではない。
一階はエントランスと受付と応接間。上層各階のぐるりとほぼ全面の壁が書棚、床面にも書棚は設置されているが、まだ半分も埋まっていない。空いた棚はこれから充実させていく意欲の表れだろう。
一部は吹き抜けになっており、本の保存のために壁面の窓は最小で、厚地のカーテンが敷かれている。その代わりに天窓には贅沢にも乳白色のガラスが嵌められ、柔らかな採光が床の一部を照らしている。
吹き抜けの下には遺されたタイル画があり、上階からその全貌が見下ろせる。何かをシンボル化した文様だろうか。それらが繰り返され重なり合う輪を描く。その中心には遺跡の一部分、三段のみの階段と手摺がある。
ポールを立て、美しい絹で織られた房付きの綱で遮り、人が近寄らないようにしてある遺跡物に無遠慮にも近付く。もちろん誰にもノアラの姿は見えておらず、綱だけが不自然に揺れた。
ここの地下に存在する遺跡がノアラの目的地。地上部分は見る影もなく基礎の岩と床が少しあるだけだが、地下には古代王国の書架が無傷で遺されていた。
輪の文様の中心に立ち、魔力を流して認証を行うと、特殊な扉はノアラを迎入れた。中はさほど広くはないが書棚が整然と並んでいる。やや埃っぽいようなかび臭いような匂いが鼻腔を刺激してくしゃみが出た。
水道工事の際に地下の存在を知ったノアラは経路の計画を急遽変更して、この場所を避けた。それ故、地下に何かが隠されていることに勘付いている者はいるだろう。その上に図書棟が建てられたのも偶然にしては出来過ぎている。
しかし『扉』は常識的な形を取っていない。転移の術と同じ仕組みを使い極短い距離を移動し、更に通過する人を識別する警備機能が付いているものだった。
ノアラも自身の屋敷の設備から推察し、その方法を解読できた際には思わず拳を握ってしまうほどに達成感を覚えたし、中に秘された書架を見て二重の喜びにほくほくと顔を緩めた。
強い魔力なしには通れないため、ノアラ以外に人が立入っている様子は今のところない。
時々関係のない本にも目が留まってしまい、つい寄り道をしながらも、必要そうな文献を次々にメモしていく。
そうしているうちに時間はあっという間に過ぎていってしまう。重要そうな一冊は外套の懐に収め、もう一冊、薄めの本を手にした。この本はノアラの家でも見かけた。
持ち出しても特に悪い影響はなさそうな、精霊と人の恋物語。印刷技術の高さだけでなく、子供向けにこういった絵物語が出版されていたというだけでも古代王国が豊かだったことが窺える。ノアラは少し考えて、その本を手に地上に戻った。
受付のカウンターに進み、司書に絵物語を差し出した。この場所を利用させてもらう代わりにと、時折こうして本を提供している。
ノアラに気付いた司書は立ち上がって恭しく頭を下げた。突然の来訪にも表情ひとつ崩さない。
「よくぞお越し頂きました」
「これを、」
この司書相手であれば、面倒な遣り取りもなく、本を受け取ってくれる。それですぐにでもここを立ち去ろうと思っていたのだが、今日に限って、この図書館の持ち主が応接間から顔を出した。
「おお、いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」
ノアラはげんなりして少し眉間に皺を寄せたが、常が無表情すぎて伝わらない。嫌々ながらもここで無視して帰るわけにも行かず、帽子をとって応接間に入る。ここの主人が趣味で集めた品が統一感なく所狭しと並べられた部屋は情報量の多さに頭痛を覚える。
司書がすぐにお茶を用意し、ノアラの前にカップを置いた。良い香りが漂う茶葉も、このカップもきっと値打ち物なのだろう。
ただ、過去にも色々あり過ぎて、ノアラは他人から供されたものは口にしない。
商人らしく愛想の良い笑顔を向ける白い髭の男。ノアラとしてはこの本を受け取ってくれるだけでいいのだ。ノアラの自著は代金を受け取らなければ駄目だと言われているが、今日の本に関しては下から持ち出しただけ。それでも毎回、金額を提示してくるが、別になくても構わない。受け取らずにいると、何故か金額が上乗せされていくので、出された金から一番少ない額を取って去るようにしている。
ノアラの自著にしても、そろそろ次の研究に専念したくて、どこまで工事に携わればいいのかと悩み出した際に、サラドから「なら説明書みたいなものを作れば、あとはどうしようもない場合だけディネウに相談が持ち込まれるんじゃないかな」と言われ「そうか」と素直に書いてみたものだ。
しかもノアラのメモはわりと感覚的で書いた本人がわかればそれで良いというもの。そのため内容を順序立ててまとめ、清書したのはサラドだ。
最初の説明書をこの町に持って来た時はディネウが立ち合ってくれたのだが、意図がきちんと伝わったようで、それを広めてもらえた。大事にしまわれてしまったら、また別の町にも渡さなければならず手間だなと不安だったので一度で済んでほっとした。
(面倒くさい、早く解放して欲しい)
主人は十数枚の紙束をノアラに見える向きでテーブルに載せ、顔色を窺うように目を覗いてきた。
「ここの古代語がどうしてもわからないようで、ご教授いただけないかと…」
この様に古代王国の本の訳や解釈を頼まれることもある。サラドがいれば早いのだが、何故今日に限って、とノアラは小さく呻いた。ざっと目を通すも、適当な返答はしたくない。
「今は忙しい。持ち帰って後日でも?」
「もちろんです!」
「期日は?」
「其方様のご都合のよろしい時で結構です」
主人はずっと年上で、図書館を建ててしまうくらいの富豪なのに、ノアラに気を遣いながら話しているのをひしひしと感じる。それではノアラも気がひけてしまう。
何事にも動じず、涼しい顔に見えるかもしれないが、ノアラの背中は嫌な汗でじっとりとしている。
(苦手だ…)
早く話が終わらないかとばかり考え、頷いたり、首を横に振ったりしていた。
(やっぱりサラドと来れば良かった…)