62 ノアラの屋敷
ノアラの屋敷は王国の西、隣国との境にある不可侵の森深くにある。
王都と聖都の間にある墜ちた都と同様に、森の中には遺跡故の魔術が働いているため、足を踏み入れた者はまず間違いなく迷って遭難する。そのため、どちらの国の領土ともせず、不可侵の条約が結ばれた。この森にうっかり迷い込んだ者はどちらの国からも咎められないが助けても貰えない。
そこに輪をかけて、ノアラがこの屋敷の主人となってからは、人見知り故に屋敷自体に隠蔽の魔道具を仕込み、要所要所に霧まで発生させている周到さだ。魔物も人も辿り着けはしない。
屋敷の周辺の活動範囲内は陽射しが悪くならないように手を入れ、他の木の成長に影響を及ぼす木は伐採し薪にしている。作業用の切り株に適度な長さに玉切りした丸太をサラドがポンと置くと、ディネウが斧で割る。大きいものはもう半分に。細いものはサラドが鉈で割り、落とした枝も長さを揃えていく。カン、コンと小気味よい音が響いていた。
「そういや、あのガキ共、地方に視察へいくらしいぜ。港町で船に乗るのを見かけた」
「へー、大丈夫かな。まあ、視察なら野宿とかはしないだろうけど…」
「もう、お前が気に掛けることもないだろ」
「そう言いつつ、ディネウも伝えてくれるもんね? 心配?」
「俺が心配するわけねぇだろ」
ディネウは嫌な顔をしたが、サラドは首を傾げた。
「そういえば、港町の方は大丈夫そう?」
「あいつらは血の気が多いから大丈夫だろ。『せっかく復帰してくれたと思ったのに、またどっか行っちまうんですか』とか泣きつかれたけど」
「相変わらず慕われてるね」
後ろ頭をガシガシと掻いてディネウがふぅと息を吐く。ディネウがいれば「どうにかしてくれる」と丸っきり当てにされるのと頼られるのは別物だ。
「…そういや、俺がいない時に、腕のいい斥候がいるって耳にしたヤツが接触を図ってきたみたいだな」
「へー…」
「ま、全部、追い返せって言ってあるけど」
「ありがとう。手間掛けさせて悪いね。今度、傭兵団に何か差し入れでもしようかな」
「気にすんな」
情報入手後に斥候を処分する腹積もりの依頼人もいる。身の危険もそうだが、いろんな秘密を知り得ることになる仕事を信頼関係も無しに易々と受けると思っているのだろうか。
「流石に急に女性が抱きついてくることはなくなった?」
「あー、最近はねぇな。あれ、でも目の前で急にこけたヤツと追いかけられてる様子もないのに『助けてくれ』とか飛び込んできたヤツはいたな…」
「待ち伏せされてたのかな?」
「…どうだろ」
「あの劇の影響は根強いね」
「そんな、のんびり言うな。どんだけ迷惑だったか…」
「だよねぇ」
間延びした言い方に反して、深刻な表情をするサラドにディネウも苛々するのが馬鹿らしくなってくる。
「よし、この薪棚もいっぱいだな」
「この木だと乾燥まで二年くらいかな。今度ディネウの家の分もやらないとね」
サラドはきちっと薪を棚に積んでいる。こういった丁寧さはディネウにはないため、一人での作業だと三分の二くらいの量で棚がいっぱいになっていただろう。
「そろそろシルエとノアラも帰って来るかな。ディネウも一緒に夕飯を食べていきなよ」
「おう。ちなみに今日のメシは何?」
「今夜はね、罠の収獲があったから…」
ディネウは基本、夜は湖畔の小屋で過ごす。夕食を共にしても真夜中になったとしても小屋に帰る。朝には見回りと体力作りを兼ねて湖の周囲を走り、水に祈りを捧げている。湖には古代の水の神殿が沈んでおり、ディネウの想い人もそこにいる。
ディネウの祈りは彼女への挨拶だ。小屋に帰れない日でも欠かさず、夜「おやすみ」と朝「おはよう」と。
恥ずかしくて、そんな姿は誰にも、兄弟にも見られたくはない。
シルエがいない九年間でもノアラの家で食事をすることはままあったが、最近は兄弟として過ごした日々が戻ったような穏やかさと賑やかさに、心がほっこりしてくる。
「なんか、いいな」
「そうだよね。みんなと兄弟でオレは幸せだよ」
思わず零れた呟きに返事をされたのが照れくさくて、ディネウは耳がカッと熱くなるのを感じた。
屋敷の両端は円形になっており、片方は書庫。もう片方は倉庫で、そのうちの一部屋は調薬室。小さい竈に水瓶、作業机には秤や薬研、乳鉢といった道具が揃えられ、壁面の作り付けの棚には所狭しと瓶詰めや小引出しが並び、たくさんの植物が吊るされている。
「うわっ すごい匂い」
部屋に入るなりシルエは鼻をつまんだ。細々した物は多いが整頓されていて掃除も行き届いている。
「ずごい、じながずだね-。ざずが」
「匂いは慣れる」
ノアラは暗に鼻を放して喋れと言った。
「ぷはっ。マーサの家を思い出すなぁ。うわー、きちんとラベリングされてる。わかりやすーい。これ、サラドの字だね。並べ方とかノアラはもっと感覚的だもんね」
シルエは手身近にある瓶を手にした。これはよく使われる球根から抽出したものだ。腹痛に効き、お湯に溶かすととろみがつくため、つなぎとして入れ、薬を飲みやすくするためにも使われる。
イガイガの種子、ぽってりとした形の胚珠、起毛のある葉、繊毛のような根、花形の苔、ひょろひょろの白い茸、網の目状の海藻、蛇の薬品漬け、獣の肝を粉末に加工したもの、鉱物、良く使う物から珍しい物までありとあらゆる薬草、毒草。
そこでサラドは乾燥済みの草の整理をしていた。
「おかえり。どうだった? 進展ありそう?」
「いや本当に信じられないよね。こんなもの隠し持ってるとか」
シルエの両手にはそれぞれ、悪魔召喚の本と隷属の術の本がある。
「持って来ちゃったの?」
「もう、誰の手にも渡らないようにね!」
堂々と胸を張るが、していることは窃盗だ。
サラドはパラパラと頁をめくり、目を落とした。手書きの本は複数人の筆跡からなっている。
「古語を写本した頁とその隣が訳だね。いつの時代のものだろう。…ここまでよく解読したな」
「別の方面に熱意を使って欲しいよ」
「おい、お前ら。いいから、その部屋から出て来い」
雑多な原料の混じり合った匂いが苦手なディネウが部屋から離れた位置から呼ぶ。低音の良く響く声だ。
残りを手早く片付け、サラドは調薬室と閉めた。
「何も問題なかったか?」
「あっ、そうそう、王配殿下がね、丁度、憑物落としと身の清めとかで神殿内の懺悔室に閉じ籠もっていたよ。さすが身分がある人はするっと入れるんだね。どんなに信心深くても平民はそうそう本神殿には入れて貰えないのにさ」
「王配が? シルエ、お前、余計なことしてないだろうな?」
ディネウが半眼で睨むとシルエはスッと目を逸した。
「ノアラ、こいつ、おとなしくしてなかったのか?」
急に話を振られたノアラは書き取りした紙束を落としそうになる。
「ノアラはシルエのお目付け役じゃないんだから、そんな言い方ないよ」
紫色の目はシルエに向けられ「自分で話して」と訴えている。
「おら、とっとと白状しちまえ」
「えー…、ちょっと、その、ちょっと、だよ。懺悔室に裁きの術をちょーっとだけ」
「お前、怪しまれるようなことを何でわざわざ…」
「大丈夫だよ。修行中の人の大半は神の御声を聞いたって言うんだよ? ちょっと痺れたりするくらい神の御業だって」
「神を騙るとか冒涜もいいところだな。導師が聞いて呆れるぜ」
「僕も、導師も最後まで神官の職には就いてませーん」
「そんなことしなくても王配殿下だってもう罰は受けたようなものなのに。そんな追い討ちをかけなくても」
「サラドは甘い。その分、僕は許さないから」
ディネウとの掛け合いではふざけた調子だったシルエが急に声を低くする。
「…怒ってくれて、ありがとな」
「ん…」
サラドが眉を下げて微笑むと、シルエも急に反省したようにおとなしくなった。ディネウが「ちっ」と舌打ちする。
話が落ち着き、ほっとした様子のノアラが歩きながら本をめくり、対する記述をメモ書きから探し、ぽそっと呟いた。
「もう少し、調べたいことがある」
「僕も自分が見たものと、解釈が違いそうなところをもうちょっと詰めたい。今回は勢いでとりあえずやってみようとはいかないからね」
「じゃあ、ノアラは図書館に行く? だとしたらオレもテオを町に連れて行ってあげたいな、と思ってて。そろそろ塩とかも買いたいし」
ノアラは少し考え込んで、サラドを見上げた。
「明日?」
「うん、わかった。よろしく頼むね」
「えー、それなら僕もサラドと行きたい」
「お前はやることがあるんだろ?」
「シルエはまた今度、一緒に行こう?」
「絶対だよ」
「そんじゃ、メシにしようぜ。腹減った」
腹を押さえたディネウが先行して歩き、「僕もお腹空いた」とシルエが続いていく。ノアラが手にする本にはこの短時間で頁にたくさんのメモが挟まれ、表紙が浮く厚さになっていた。
夕食後、テオを寝かしつけ、ディネウが湖畔の小屋への扉を潜った後、サラドとシルエとノアラの三人は屋敷の地下室に下りた。
そこはドーム型の部屋で、魔術の試行や訓練を行う施設となっている。壁は強力な防御に覆われ、かなりの威力の術を放っても外に被害は及ばない。
「わっ! さっすが古代の魔術師の屋敷。設備がいたれり尽くせりだね」
シルエが感嘆の声をあげた。
「なんか、思い出すね。うっかり迷い込んだ遺跡で、うっかりサラドが解錠して、気を付けながら扉を開けたのに、いきなりゴーストがノアラの体にスコン、って」
もう十数年前、この屋敷に迷い込んだ時のこと。ほぼ完璧に残っている遺跡をノアラの好奇心と知識欲が素通りなど許すはずもなかった。
試しにサラドが鍵に挑むと解錠に成功した。霊体の気配はしていたので抜かりなく構えてはいたが、襲いかかってくるのではなく、扉を開けた瞬間に物凄い勢いでノアラの体に入り込んだ。
この屋敷の主だった古代の魔術師は研究のために長い寿命を求め、己の魂を別の器に付与させることを繰り返すことで永遠に近い生を可能にしていたらしい。だが、負担は重なっていき、最後は術を準備する前に急逝してしまった。
そのまま古代王国が都を打ち棄てたか滅ぶかしても、長い長い年月をこの屋敷に囚われ、自我と知性を失い魔力に執着したゴーストに成り果てていく。
ノアラの高い魔力に誘引されて、屋敷に四人を引き入れ、器として得たのも束の間、サラドにより引き離された彷徨える魂は、敢えなくシルエに滅せられた。
ゴーストから解放されたノアラはしばらく目眩を起こしていたが、古代の魔術師の魂が辛うじて持っていた記憶が移行していること、一瞬でも体を支配されたことにより新しい主として屋敷に認識されたことを話した。
「あの時は焦ったよね。ディネウなんかノアラを斬るわけにいかないからブルブルしてて」
「本当に」
ノアラが申し訳なさそうにちょっと俯く。
悪く思う必要はないとサラドがゆっくりと首を横に振った。
「しかも、正気に戻っての一言が『窮屈』だもん。ゴーストに乗っ取られそうになったっていうのに」
その時の感覚を覚えているのかノアラは胸の前で手をまごつかせ、口を半開きにした。息苦しい、ということだろうか。
「でも結果こんなに良い物件が手に入ったのなら怪我の功名、みたいな? 書庫を見た時のノアラの顔、魔物討伐なんか辞めて早く調べたーいって感じで、うずうずしてたもんね。
あーあ、僕にも、何処かに良い家が転がってないかな。やっぱり東で探すべき? 東は荒廃しているからあんまり調べていないよね。いい遺跡が残っていたりしないかな」
「部屋、空いてる」
「でもずっと居候してていいのかな? 拠点は複数あるに越したことはないし。楽で楽しいと出て行きたくなくなっちゃうじゃん?」
「あっ…と、オレもだよな。ずっと思ってはいるんだけど…」
両手の指先をちょんと合わせてサラドがもじもじとする。
「構わない。サラドも」
そうっとノアラがサラドとシルエの衣類の端をつまんだ。ノアラから触れてくるのは転移の際などのやむを得ない時を除けばかなり珍しい。
サラドが気まずそうな顔をしたので、シルエはにこりと笑顔で話を打ち切った。
「じゃあ、研究が一段落するまでは家探しは保留しちゃおうかな」
壁の頑丈さを確かめるようにサラドはその表面に触れた。白くツルリとした石材は少しの灯りでも照り返して全体が明るく感じる。重厚で継ぎ目はなく、振動でもびくともしなさそうだ。地下のため温度変化もあまりない。
「悪魔召喚を行うことになっても、ここにシルエの防御壁を上掛けして張ってもらえれば、最悪、この中に閉じ込められるかなって」
「僕らと一緒にね」
サラドがぐっと息を詰まらせる。
「そうならないようにしっかり調べ上げるよ。ね? ノアラ」
ノアラがこくりと頷く。
もし、そんな状況になったとしたら、サラドが自分だけ残るだろうことをシルエは知っている。だからこそ、絶対に失敗はできない。
「任せてよ。僕ら最強のタッグなんだから」
「うん。信じてる。あとはテオが生きたいって思う心だな…」
三人はこの部屋に補修が必要な箇所がないか手分けして調査し、その夜の作業は終わりにして就寝することにした。