59 王都のこれからと新たなる出発
女王が意識を取り戻した時には明朝で、王城内は既に鎮静していた。事後処理に文官たちは忙しくしていたが、暴動があったとは思えない静けさだった。
回廊で保護された後、近衛兵に囲まれ、一旦自室に戻った女王は情けなくも気を失ってしまった。足裏も治療済みで、ゆるりとした衣に着替えもされていた。
「陛下…、母上、お加減は如何ですか?」
「ああ、顔を良く見せておくれ」
部屋に通された第一王子は心労で顔色が良くなかった。この国の王でもある母と抱き合い無事を喜び合う。
「父上は自ら牢に。今はよく眠っていらっしゃいます。かなり憔悴した様子でした」
「そうか…」
王子の手を借りて執務室へ移動した女王は側近にその間の報告を求めた。
「王配殿下の意を汲んだ特殊部隊長の指揮で騎士らは足の腱を斬られ動きを封じられた者が殆ど。しかし、陛下と共にお戻りになられた王配殿下のひと言で全員投降いたしました。
蘇った死体は騎士が攻撃して動きを封じた後、神官数名で囲んでいましたが、祈りが効いたのか急に灰となりました。陛下を襲撃した者も同時くらいでしょうか…、意識を失って倒れました。
もう内部に反乱分子はないかと。王配殿下の尋問はこれからになります。まこと悪夢のような出来事でございました」
「あれは魔物による洗脳だ。反逆の意志などない」
「それでも、処断を誤ってはなりません」
「…負傷した兵士はどうしている?」
「それが…。負傷者をフロアに集めるようにと助言した者がいたそうでして。その後、何処から侵入したのか『最強の傭兵』と一緒に現れた正体不明の者が治癒していったと…」
隠し通路で王配の刃に倒れたはずの護衛も意識を取り戻し、命辛々ながらも女王を探し歩き、外に通じる道に出たところ保護された。女王を守れなかった責は重い。処罰と辞職を願っているという。
女王はふと、足裏に痛みがないことに気付いた。直接触れることもなく、広範囲の複数人を一度に治癒してしまうなど英雄の逸話でしか聞いたことがない。
「…そんな凄腕の治癒士など一人しか…導師は亡くなったのではなかったのか。では本当に導師と英雄の治癒士は別人であったと?」
「わかりません。淡い灰色のマントというだけで容姿については全く見えなかったと。それと町の消火と救助でも『最強の傭兵』と淡い灰色のマントの目撃証言は多数寄せられています」
「なんと…。あんな失礼を働いたというのに助けてくださったのだな。治癒士が健在ならあの人も無事だろう…」
女王の目が甘く切なく細められた。謀反の動向でも町の火事でも失態続きに側近は額の汗を何度も拭っていた。
「町の様子が知りたい」
「今はまだ危のうございます」
「物見からでもよい」
女王は城下の町並みが見渡せる場所に立ち、黒く焼けた石壁が点在する様と、王宮前広場に避難した人が群がる様にゆっくりと目を馳せた。雨雲は去り薄日が射している。まだ煤の匂いがした。
「なんてこと…。この町が、こんなことになるなんて…」
町の中頃、王城から扇形に広がる箇所には防御壁が張られていた。その虹色の光彩が風に溶けるように儚く消えて行く。同じように広場と神殿の防御壁も消えるところで、それを目にした人々の歓声とも落胆ともとれる声が微かに響いてきた。
二十年ほど前には火が消え失せ、今回は火事に見舞われた。どちらも火の加護を逆手に取られた結果だ。
「国を代表としても、個人としても礼を言うことすら叶わないのだな」
女王はこれも何かの機会と腹を括って、第一王子を伴って水鉢のある部屋を訪れた。逃げ惑った記憶が鮮明な隠し通路は寒気を覚える。護衛が通ったであろう跡が血の染みとして残っていた。
幾重にも隠された秘密の部屋までの道順は日に一度は必ず確認に訪れているので間違いようがない。
頑丈な石で囲まれた狭い部屋に一歩踏み入れる。
そこで目にしたのは壊れた水鉢と燃え尽きた指輪。
膝から頽れた女王を王子は慌てて支えた。がっくりと項垂れる女王に手を添えながら王子は部屋の中を見回した。溝の掘られた台座の上には割れた陶器の鉢。床に溢れた水。そこに転がっている黒く焦げた何か。それ以外に何もない飾り気のない狭い部屋。
「陛下、如何なされました? この部屋は?」
「ああ…、なんてこと。余は…余の代で加護を失うとは…」
顔色を失いぶるぶると震える女王は指輪だった物に指先で触れ、熱くもないのに弾かれたように手を引っ込めた。
「陛下、ここに何があったというのですか?」
「ここは…、ここには代々受け継がれて来た火の加護の要が…、これが、その要の指輪」
ガクガクと震える指では床から指輪だった物を拾い上げることができず、ころころと転がすばかり。王子はそれをひょいと拾い、女王の手の平にのせた。
焦げて色も形も失った金属の塊をぎゅっと握り胸に抱くように引き寄せる。
弱々しくとつとつと王位継承者に託されてきた指輪の逸話とその守りについて語る女王の話に王子は黙って耳を傾けた。
「陛下…。この指輪については陛下しか御存知ないのですよね?」
「厳密に言えば、此度のことで王配も知っただろう。そして過去と此度と二度にわたりこの王都の危機を救ってくれた英雄はこの指輪の存在を知っている」
「‥‥。ならば、この指輪の喪失は陛下と私の秘密に致しましょう。今から私たちは共犯者です。この部屋は封印し、この指輪の存在も闇に葬りましょう。
…今回の火事で民もこの町の守りが絶対ではないのを知りました。守りの力だと思っていた火にいわば裏切られたのです。
民の心が離れないように、大事なのはここでしっかりと救済措置を取り、町を復興させることです。そして魔物や災害に負けない力を、民を、町を、国を守る力を示してまいりましょう。
陛下の御威光を。
陛下の重荷と秘密を私も背負い、私の代で忘れ去ります。初めから加護の指輪などありませんでした」
王子の力強い言葉に女王は目を見張り、のろのろと頷いた。
「そうだな…。我らはこの未知の力に縋り過ぎていたのかもしれぬ」
「そうです。もし結界が失われたとしても、あの〝夜明けの日〟から徐々に弱まっていたことが判明したと発表すれば、民も納得するでしょう。そこは後で綿密に詰めることにして…」
「ふふっ。我が息子はいつの間にかこんなにも頼もしくなっていたのだな」
「母上…。勿体ないお言葉です」
全体的な面差しは母親似、目元は父の王配に似た王子は唇に弧を描き、軽く頭を下げた。
これからのことを話し合うためにも二人は狭い部屋を出た。女王は一度だけ部屋の内部を振り返った。
水鉢の異変に怯え、指輪を嵌めてしまった王女の頃。そして、ささやかな異変に気付いた数か月前のこと。
この部屋の扉は後日、石を積んで埋め封じた。連綿と続いてきた秘密と共に。
女王は王配から提出されたサラドの遺髪とされたもの、紋章入りのブローチ、身につけていたロケットペンダント、それからずっとしまい込んでいた王女の紋入りの男性サイズの指輪を揃えて置いた。最後に手記をそこに並べようとして、またぎゅっと手元に戻した。擦り切れてきた表紙をじっと眺め、鍵付きの引き出しにそっとしまう。
側近と王配を呼び、サラドに関するそれらのものを処分するように言いつけた。そうして彼女なりのけじめを見せた。
並ぶ品の中に王女の紋入りの指輪があるのを見て、側近が僅かに目を見張る。
「なんだ? 余が持っているとは思わなかったか」
「失礼ながら。あの男が持っているものとばかり…」
「恩人に対し失礼な呼び方をするな! …この指輪も渡せなかったのだ。もしかして、これを取り返そうと?」
「はい…。悪用され陛下の名を汚されてはいけませんから」
「馬鹿な。余を慮ったつもりがこの結果か? この国の繁栄を願った結果がこれか? 今回だけは手を差し伸べて貰えたが、次、何かが起こったとして、もう彼らの助けは望めぬ…。それどころか…。この国は大事な友を失ったのだ」
女王の後悔が滲んだ声と震える拳に、側近も王配も黙して頭を下げ続けた。
何者かに操縦され罪を犯した王配はその憑物が取れるまで聖都の神殿に預けられることになり、罪状も処罰もその後にということで一旦保留された。
「陛下、私の忠誠は今も貴女に。臣下達の手前、必要とあらば迷わずこの首を撥ねてください」
王配は喉から出血するほど呻き声を上げ続けたため未だガラガラ声だった。ねっとりと熱い視線で主君であり妻の女王を見つめる。
王女は父親にひしっと抱き着き別れを惜しみ、女王と第一、第二王子はその出立を静かに見送った。
ある日、召致されたショノアは控室にて久々にセアラ、ニナ、マルスェイと顔を合わせた。
セアラは火事の後、自ら解毒、防御壁を願う詩句の修得を望み、修行に入っていたそうだ。前よりもオドオドした様子が減り、緑色の瞳に決意が漲っている。
ニナは特殊部隊の所属になるため、関与や罪が明らかになるまで牢に入っていた。拒否や逃げる素振りを見せれば痛くもない腹を探られる。それに牢の中は宿舎の自室と大して変わりない。その上、訓練もなく、黙っていても食事が出るので特に苦痛もなかった。
謀反に加担した者の尋問は順番に行われ、ニナは一時的に牢から出されただけのため手枷を嵌められ兵が背後に付いている。
マルスェイは魔術研究に勤しんでいたようだが、気もそぞろであまり手が付かなかったらしい。宮廷魔術師団長に辞職を求めたが却下されていた。
以前と同じように文官、場合によっては側近との接見かと思いきや、通された部屋には立派な椅子が一脚あり、様子が違う。礼を執って待っていると、入って来た人物のシャラシャラという上品な衣擦れの音に緊張が急激に高まった。
女王は少しやつれた印象を受ける。兵士にニナの手枷を外し退出するように命じた。
「面を上げよ」
「は…拝謁を賜り恐悦至極に存じます」
「『魔王』の探索、大義であった。リード卿、其方の報告書は良い出来であった」
「有り難きお言葉」
ショノアは女王の言葉を受け歓喜に震えた。
「して、引き続き各地、地方を巡って『〝夜明けの日〟から十年を迎えるにあたり、さらなる復興を祈念』し特別な祈りを届け、現状を視察してくるように。以上だ」
女王はショノアが方便として使った理由で視察を命じ、退室した。引き継いで説明を始めた文官から、セアラの同行は王都の神殿から許可を得ている旨が伝えられた。
「あの…、私は今、修行中の身で…」
セアラはおずおずと口にしたが、その場の空気は辞退など認めないと言っている。セアラ以外の三名は王宮所属のためもちろん拒否などできない。視線を落としてセアラは言葉を呑み込んだ。文官の説明は続いたが緊張と不安であまり頭に入ってこなかった。
控え室に戻ったセアラが青い顔をしているのを見てマルスェイは「大丈夫だよ」と根拠なく励ました。
「私も宮廷魔術師を辞したいと上申したのだが認められなかった。でもきっと修行と同じくらい視察は君を成長させるよ。セアラの役目は各地で祈ることだし、特別なことはないだろう?」
「でも…まだ何も身に付いていないのに…」
マルスェイがさらりと言った言葉にショノアはぎょっとした。
「宮廷魔術師を辞める? 何かあったのか?」
「…この間の火事でいろいろと思うところがあってな。魔術の習得は師弟関係が基本だ。極めたいと望むのなら大魔術師に師事するのが一番なのは明白で、雲をつかむつもりでその情報を求めていた。魔術を志した本質を見失い、いつの間にか大魔術師に会うことが目的のようになっていたが…。子供の頃に見た姿に単純に憧れていたのもある」
マルスェイは領地を襲った虫の魔物のこと、そこで英雄に助けられたこと、その戦いぶりを見て魔術師を志したこと、武家から魔術師を輩出することで悪い噂が立たないように姓を捨てたこと等を話した。
「…すまない。俺は貴殿を誤解していたようだ」
「構わない。私が変わり者だと言われる分には。父や兄、モンアント家が悪く言われさえしなければ」
しんみりと謝罪するショノアにマルスェイはあっけらかんとしている。
「兄達と協力して領地を守り戦う力が欲しかったんだ。だが、それならむしろ魔術よりも奇蹟の力ではないかと意識が改められた」
魔物が跋扈していたあの頃は強力な攻撃魔法が魅力的だったが、火事の中で見た防御壁と治癒の力は偉大だった。あの力は平和な世の中でも貴重で役に立つ。
「え? 魔術と奇蹟の両立は不可能なのでは?」
「やってみなければわからない。そこで是非セアラに話を聞かせてもらいたかったんだ」
「私などよりも神殿にいらっしゃる神官様に伺った方がいいと思いますが」
「もちろん行ったさ。だが魔術師に対しては風当たりが厳しくてね…」
神殿は奇蹟の力を崇めるため魔術の力を異端としている。
「確かに王都や聖都のような大きな神殿では排他的かもしれません。地方の神殿ではそれほどでもないかも」
「そうか! 視察先のどこかで修行を受けさせて貰えないか聞いてみるとしよう」
「では魔術師の弟子になるのは諦めてしまうのか? ここまでも相当な努力をしたのだろう?」
ショノアはやはりマルスェイは変わり者だと思った。努力して身につけた剣技を捨てて魔術師になったかと思えば今度は神官へ鞍替えしようとするなど考えられない。
「そりゃあ、もちろん機会があれば願い出るさ!」
「‥‥。マルスェイは気が多いのだな」
「可能性が僅かでもあれば捨てたくはない。それだけだ」
視察の任命に、ショノアは報告書を褒められてまんざらでなく、セアラは二の足を踏み、マルスェイは急にやる気を出した。彼らの遣り取りをニナは枷を外された手首をゆるゆると擦りながら眺めていた。
ニナが下命を受けて拒むことなど不可能だが、地方であの影が言う種が発してしまったらどうしようという不安がある。『もう魔物や裂け目を呼ぶことはない』とお墨付きはもらったが、根っこは残るとも言われていた。小さい村や貧民街でもしも…そう想像すると体が震える。ニナはじっと手の平を見つめた。
『ニナは悪くない』ときっぱり言ったサラドの言葉を頭の中で反復し、気を静める。
「この視察、サラさんに同行を願ったりはできませんよね…」
セアラの弱々しい呟きに場がしんと静まった。