55 結界と火と不死者
ひと息ついて動悸もやっと治まったノアラは隷属の魔術から保護した少年に食事を準備しはじめた。ディネウが「じゃあ、俺は帰るわ」と言って、彼の住まいに繋がる扉を抜け、パタンと閉じると、背後には何故か付いてきたシルエがニコリと良い笑顔で外套と杖を手に立っていた。
「何の真似だ? 家には何も面白いモンはねぇぞ」
「ディネウ、ちょっと協力してよ。サラドが眠っているうちに王都に乗り込むから」
「おい、早まるな。何する気だ?」
「結界を壊す」
「は?」
「僕はね、聖都で神殿周りの結界の強化と町外周に結界を張るよう命ぜられていたんだ。神殿周りの壁はそれまでも神官が複数名で、伝えられた方法で力を注いでいたらしいんだけどね。その結界の強化のために分析したところ…」
遺跡である神殿の古代より続く結界は単純に防御壁の強化、効果を付加したものではなく、視認もできず、読み取れない術式で謎が多い。そして解析できた範囲から、おそらく贄を使い複数人で張ったと思われ、維持に必要な力として、地、精霊、住まう人の力を源としているのが判明した。
神殿周りの結界は一部が壊れ不完全だったが、脈々と伝えられていた神官達が力を注ぐ方法で辛うじて保っていた。その弊害として人の思念も閉じ込め、増幅させている。
強い祈りは強い呪いにもなり得る。
長い年月をかけて、祈りによって支えられた力は凝り固まり地に染み付いた。聖都の中にいる者は知らず知らずのうちに囚われ、この信仰を至尊として他を認めなくなる。個人も強い思いがある者ほど影響を受け、疑うこと無く盲信する。副神殿長はその最もたる例で、善悪に囚われず手段を選ばなくなった。神殿長も寛容で柔軟な考えができなくなっていたと推測される。
導師ジェルディエとして、隷属の術をもって命ぜられれば拒めない状況で、命令違反にならないギリギリにシルエは手を加えることにした。
まずは、神殿周りの結界を修復せず、光彩を消した防御壁に変えた。弊害を取り除くため、伝えられた文言を一部書き換えて神官達による力を注ぐ方法を修正。これで防御壁としてなら神官達でも維持可能だ。有事の際に神殿は安全地帯になるだろう。
聖都周りの防御壁は補充する魔力をシルエのみにして、悪影響を最低限に抑えるよう気を使った。シルエが聖都を離れれば防御壁は時間を追って自然と消滅するが、因果関係をはっきりさせるためにも神殿で放った裁きの術と共に消滅させた。
これで、地や精霊の力を奪うことなく、ゆっくりではあるが聖都を縛る思念は解けていくだろう。
「まさか僕まで『こうしなきゃ』って思いに囚われるなんて、恥ずかしい限りだけど。急激に動き出したから呑まれちゃったんだよね…」
シルエは自嘲気味に首に触れた。間一髪、サラドが助けに入らなければこの世に別れを告げていただろう。
「王都の牆壁の結界は聖都のそれより完璧に遺っている。気になるのは維持のために必要な力はどうしているのかってこと。
仮説ではあるけれど、旅立ったばかりの頃、王都に来たことあったでしょ? その時、王女が持っていた『秘匿されているから内緒にして欲しい』って言っていた指輪、あれ、怪しいなって。
あれを使って…精霊か、人か、どこからか力を奪っているんじゃないかなって」
「待て、待て。それ俺じゃなくてノアラやサラドに相談すべきだろ?」
黙ってシルエの説明を聞いていたディネウが呻いた。シルエは軽く肩を竦める。
「ノアラはサラドがダメって言ったことはしないし。そもそも破壊とか嫌いだからね。遺跡や古代の魔道具を壊すなんて言ったら反対するもん。修復や改良ならまだしも」
「サラドがやめろって言うのがわかっててやるのか」
「でも分析して精霊が犠牲になっているってわかれば納得してくれると思うんだよね。そこは事後報告で。なんなら今後ノアラと防御壁の研究をするということで」
ディネウは片手で顔を覆い、溜息を吐いた。
「ディネウだって感じているでしょ。王都には選民思想がある」
「まぁ…な。だけどよ。そんなちょっと買い物行くみたいなノリで、結界を壊すとか言われてもな? 俺だって、はい、そうですかって賛成できねぇよ」
「でもさ、もし、住む町を守るためとはいえ、ほんの少しずつであっても知らずに自分の生命力を奪われているって知ったら、人々はどうかなぁ? 信じるかは別にして疑念は浮かぶよね。一律なのかそれとも選ばれているのか、誰が判断しているのか、どうかってね。あの頃みたいに常に危険に曝されているなら容認できても、誰かの犠牲とか、誰か頼りではなく、人が住む町は人の手で守れるようになるべきだ」
ディネウは腕を組んで「うーん」と唸り声を噛み殺した。王都には傭兵がほぼいない。裕福な商人に私費で雇われて契約している者が少数いるが用心棒のようなもので、傭兵とは少し立場が異なり、町を守るという意識は持ち合わせていない。王都に住む貴族は傭兵を戦争屋などと揶揄し見下している。
魔物に襲われる心配のなかった王都ではその需要もなく、騎士や衛兵が幅を利かせ、傭兵への偏見の強い町であえて活動しようとする者はいない。
ぬるま湯のような環境で騎士も兵士も町を守り切る気概に欠けるとディネウは感じていた。
「女王が襲われたのとサラドが生きているとわかった今、結界が崩壊なんかしたら、報復したとかいちゃもんつけられて、またアイツが悪モンにされたりしねぇか?」
「結界って目に見えないし誰も証明できないって。いざとなったら導師ジェルディエの怨霊の仕業ってことで」
「怨霊って何だよ。それこそ誰が証明するんだ?」
「それは失敗してから考えても良くない? 失敗する気はないけど。とはいえ九年の引き籠もり期間があるから、上手く立ち回れるかちょっと自信ないんだよね。だからフォローしてよ。ディネウは目立つから、目眩ましに」
「冗談言うな」
「本気だけど?」
「くそっ、どうなっても知らねぇぞ」
「大丈夫。一応ノアラに書き置きはしたから」
シルエはサラドが用意してくれていた外套を羽織った。腰までと膝下までの丈の二重になったフード付きのマントで淡い灰色の起毛素材は光の加減で銀にも見える。フード周りの内側にノアラの外套と同じく若草色で刺繍が入っていた。
「ん、ふふっ」
「おい、なにニヤついてんだ?」
顔を隠すために魔道具の仮面を被る。薄布でつくられたそれを装着すると光が細かく乱反射し、いかにも仮面という不気味さもなく、視界も呼吸も遮らずに、顔の印象を朧気にして特定されなくする便利な道具だ。不可視の術を自分ではかけられないシルエは昔もこうしてこの仮面に頼っていた。遺跡で見つけた壊れた仮面からサラドが着想し、ノアラが作製した逸品。
手にした杖は真っ直ぐで何の飾り気もない。全長が肩くらいまで、その中央と四分の三くらいの高さ、二箇所に小さな石が埋め込まれているだけだ。
「なーんか、ぞくぞくするよね。帰ってきたって感じ」
「頼むから、暴れすぎるなよ」
「んー、王や王配、そこら辺の人、次第かな」
ディネウが苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「黙ってりゃ、虫も殺さないような顔なのにな…」
「何か言った?」
「何でもねぇよ。よくお似合いで」
シルエが杖を一振りするとブンッと空を裂く音がする。見た目に反した重い音から頑丈さが窺える。ニヤッと笑い、ディネウの腕を掴んだ。
「それじゃ、行くよ。王都へ!」
王宮前の広場に転移したシルエとディネウを待っていたのはあちこちで上がる火の手、鳴り響く警鐘と悲鳴だった。
「あれ? こっちから何かする前に自爆した? これじゃ結界を調べるどころじゃないじゃん」
「んなこと言ってる場合か! 行くぞ」
「まず、この気配の元を探って…、待って、ディネウ!」
ディネウは一番近くで燃える家に走り寄った。人々はてんでんばらばらに逃げ惑っている。
そこに火のついた木材を振り回す子供を目にし、手刀で木材を弾き落とした。子供は歯を剥き、唸り声を上げ、激しく掴み掛かってきた。
体中に水疱の痕、内出血で紫に変色し、浮腫んだ箇所がある土気色の皮膚。瞳孔の開ききった目。とても子供とは思えない力がこめられた殴打、筋が千切れようと骨が砕けようと厭わない動き。
「ちっ アンデッドかよ」
ディネウは子供の両腕を片手で掴み、脚を挟んで動きを封じるが、抵抗は凄まじく、噛みつこうと激しく首を振っている。
「待って! その子は私の…」
泣きながら伏せるように地に這う女性と目が合ったディネウはギリリと奥歯を噛み締めた。
「あんた、この子の母親か? これは生き返ったんじゃない! この子のためにも死後の旅路を祈ってやれ!」
母親はディネウの足許で滂沱の涙を流した。手を組み口が小さく動く。子供の名前を何度も、何度も。
「シルエ! こっち来い! 早くっ」
バサリと翻ったマントが翼のように広がった。淡い灰色が火の色を受けて銀に照り返す。
シルエがスッと手を差し伸べると天から射した光が子供を貫き、その体を灰と化した。
反発する力が失せ、ディネウは背けていた顔を戻した。
「王都内に蘇った死者の気配がざっと三十、王宮から広がるようにある。まだ商業区より先には至っていないが伝播しているね。あと王城内に少し厄介そうな気配を察知したよ」
「くそっ。居住区に至る前に食い止めねぇと」
シルエがディネウに声を潜めて伝えた。消えた子供が残した灰を手に泣き崩れている母親の肩をディネウがポンと叩き、声を張った。
「余裕のある者は火消しへ! 自信のない者は広場へ避難、怪我がある者は神殿へ連れて行け! 衛兵は住民を誘導しろ!」
「傭兵風情がでしゃばるな! ここは天下の王都だぞ」
逃げる人々を統制できず右往左往していた衛兵がディネウを咎めたが、振り返った彼を見て身を竦ませた。目を引く大剣に、紺色の艶を帯びる濡れたような黒髪、深い青の瞳、濃い色の毛皮を羽織り、腰当ての内側にも斑がある変わった色の毛皮を尾翼のように巻く、どっしりと構えた男。
「…最強の傭兵…」
「うるせぇ! 文句は火事が収まってから聞く! 近くの水道栓はどこだ? 火消し団の統率者は?」
「その…、この町は火に守られていて、大火事が起こったことがなく、あの…」
「はぁ? 火事を想定した訓練は何もしていないのか? 宮廷魔術師に水の術が使える者を集めさせろ!」
ビシバシと檄を飛ばすディネウにシルエはまたぼそぼそと耳打ちした。
「ノアラを呼んだから、火事は任せる。僕は死者を何とかする」
ディネウの手の平をシルエが叩き、パンッと音を立てた。深い青色と草原のように明るい緑色の目が交差する。
「伝達係はいるか! 兵を集めて広場に避難者用にテントを張れ! もうすぐ雨が降る」
ディネウの良く響く低い声に衛兵が従いバタバタと動き出した。
(とは言え、この広さに一気に術を掛けるのは流石に無理だし…。そうだ!)
シルエは広場を防御壁で囲った後、鐘楼に登った。耳栓をして鐘を突く男がシルエに気付いて動きを止めるが、指をすっと唇にかざし、片手で鐘を突き続けるように促す。
(昔、王都でサラドの子守唄に僕の状態異常解呪の術を乗せた。今回も警鐘に術を乗せ、次の鐘楼に移動して行けば、何とか早く収められるかも…)
アンデッドを滅す術を鐘の音に乗るよう展開する。なるべく広く、と。
しかしサラドとの共闘のように上手くいかない。術はシルエの実力で可能な範囲にだけ光を届けた。それでも高さがある鐘楼からは、アンデッドがいた場所で術の光がしばし留まっている様が見えた。
(くそっ、失敗か)
シルエはこの町の鐘楼で一番の高さがある神殿へ向かった。神殿では弔いのために安置されていた死者の蘇りと暴動に恐慌状態だった。遺体を悪しきモノに奪われることがないように安らかな眠りを祈り、安置しているというのに、神殿としてはあってはならないことが起きてしまっている。
シルエは杖の中央付近を軽く握り少し地面から浮かせ、片手を逆手に添えて足下をポンッと蹴り、くるりと一回転させた。魔力を受けて杖に埋め込まれた石が光り二重の円を描き出す。杖に添えた指が鍵盤を叩くように忙しなく動き、円の中に複雑な文字と文様を浮かび上がらせる。魔法陣を用いた術は先程より強く、広い範囲のアンデッドを黄泉路へ帰した。
「死者を冒涜するモノから解放するため協力を」
波のように広がる光が暴れる死者を包み、天に還す姿を目にした神官達は息を呑み、思わず祈りの姿勢をとった。その視線を背中に受けながら、施療院を含めた神殿を防御壁で囲い、安全を確保する。
虹色の光彩を放つカーテンに手を伸ばす人が触れられずに宵空を掴んだ。
「怪我人をこちらへ運ぶよう指示しています。保護と治療を」
「あの…〝治癒を願う詩句〟を使える者は少なく…」
「奇蹟の力だけが癒やしではありません。人の手による治療行為、寄り添い宥め励ますことは何よりも安心感を与えます。生きる力を失わないように支えてください。それが祈りでしょう?」
火事による熱風がマントを翼のようにはためかせ、フードに隠された顔は光が拡散してぼんやりとしている。幽玄な姿と、ゆっくりと諭す声は慈愛と威厳があり、神官達は恭しく頭を下げた。
シルエは鐘楼への立ち入りの許可を得て、上へ駆け上がった。ガンガンと響く警鐘。身体防御の術で耳も保護されているが、それでも塞ぎたくなる。
焦燥感を揺さぶる音に術を乗せるのはやはり成功しなかった。
眼下を見下ろし、再度、察知の術を展開する。活動するアンデッドがいる範囲を見極め、町中に巨大な防御壁を張り、これ以上の拡散を阻止した。