5 サラという男
神官の杖の先端にはその象徴である星――長く光の尾を引く星と小さな星が重なった形――が飾られ、その下に鉄製の丸い籠が付けられている。籠は金具で中央からふたつに開き、中に薬草や香を詰められるようになっている。時には魔を祓うといわれる聖なる木の葉や、体を蝕む虫を寄せ付けない草を乾燥させたものに火をつけ燻したりと様々な使用法がある。
セアラの杖には今は何も充填していない。
セアラの手の震えが杖を伝わり、籠が揺れカチャカチャと音を鳴らした。
星の中央に埋め込まれた浄化の力を持つという地中深くから採られた透明な石がキラリと光を弾いた。
「わ、私…擦り傷を治すのがやっとで…」
セアラの顔は真っ青だ。
「大丈夫。〝治癒を願う詩句〟は覚えている?」
サラドの声はゆっくりと、落ち着きがありひどく優しい。
セアラはこくこくと頷いた。
「オレに続いて」
サラドはセアラの手を御者の背中に当てさせ、その上に自らの手を重ねた。セアラの手をすっぽり包んでしまう大きな手はちょっとガサガサで指先は固い。
サラドの紡ぐ言語はセアラの知っている〝治癒を願う詩句〟とは音が違っていた。戸惑っていると目を覗き込まれ「大丈夫」と念を押されるように頷かれる。
セアラはコクリと唾を飲み込むと、杖でトンと軽く地を突き、覚えている詩句を唱えだした。不思議と違う言葉なのに調和して、二人の声は時に追い越し、時に追い縋るようにして二重奏にように響き合う。
そしてタイミングを合わせたようにピタリと二人の音が途切れると、キラキラとした光の粒が雨にように御者に降り注いだ。
馬車の乗客からわっと声が上がった。
苦しそうだった御者の息が落ち着き、服の胸元をぎゅっと握り込んでいた手から力が抜けた。
セアラは隣からほっと息が吐かれる音を聞いたが、動くことができなかった。手がカタカタと震える。
セアラが茫然としている間に、サラドは御者の呼吸や手首を確認し、背中を支えて上半身を起こさせて腰の提げ鞄から出した丸薬を水筒の水で飲ませている。ショノアに毛皮を馬車内の座席に敷いてもらい、御者を抱き上げて運び込んだ。
「俺が町まで馬を走らせて代わりの御者を呼んで来ようか?」
「あ、」
ショノアの申し出にサラドがすっと手を上げた。
「御者なら一応できます」
サラドはショノアに御者が仰向けにならないように、吐いてしまっても喉に詰まらせて気管が塞がることがないよう注意して欲しいと頼んで御者台に乗り、
「急病人がいるのでなるべく急ぎますね。専門でないので揺れても勘弁してください」と言って手綱を取った。
やっと我に返ったセアラはそこが落ち着くというようにその隣に座ることを望んだ。
その間、ニナが動くことはなかった。
確かに御者よりも多少は揺れたが、王都と港町は石畳で整備された街道で結ばれ、比較的距離も短いことが幸いし問題なく馬車は夕暮れ前に街門を潜ることができた。
「はぁー、荷馬車とは勝手が違う…。人を乗せてると思うと流石に緊張する…」
馬車を停めて、サラドは肩の力を抜いた。
港町に無事到着し手続きを済ますと、この町で一番大きな診療所を聞いたサラドはちょっと首を捻り、乗合馬車の従業員の一人を伴って別の診療所へ御者を連れて行った。
セアラの奇蹟の力に助けられたと知ると、乗合馬車の従業員には感謝で、去り際の乗客からもあやかりたいと握手を求められ、彼女は恐縮しきりだった。
待合所にいた待機中の御者の話によると、彼は近頃体の不調を訴えており、事故を起こしてはいけないと自ら暇を申し出ていたらしい。それでも同僚の急な疝痛に出勤に応じてくれたようだ。不運がふたつ重なってしまったが大事にいたらなくて本当に良かったとほっと胸を撫で下ろした。
サラドの帰りを待合所で待っていた三人は、それまでほぼ無言で、大変気まずかったのもあり、その戻りにほっとした。
ショノアから予算や意向を聞いたサラドの案内により中層の宿屋に、まだ打ち解けていないのもあって今回は四部屋を取って、泊まることにした。
それぞれの部屋に荷物を置き、夕食を摂るため食堂に集まることにしたのだが、待ってもそこにニナは現れない。
ショノアは自分勝手な、と陰気な目をしたニナを思い浮かべ眉間にぎゅっと皺を寄せた。
サラドはやや考える素振りをし、取皿に適当に料理を盛ると、給仕から水差しも借りて階段を上がって行った。
「ニナ、食事おいとくよ。終わったらまた出しといて」
コンコンとノックをした後、返事も待たず一方的に声をかけ、わざと足音をたて階段を降っていく。
戻ってきたサラドにショノアは不機嫌さを隠さなかった。
「集団を乱す行動は慎むべきだ」
「まあまあ。そう急かなくても。今までの郷との違いに戸惑っているだけかもしれませんし」
「最初は肝心だ」
セアラはオドオドと成り行きを見守っている。サラドは少し困ったように眉を下げた。
食事を済ました三人は休むことにした。長時間の馬車で体が凝り固まっているし、初日の緊張にトラブルもあり疲れも出ていた。
ニナの部屋の前に空になった皿が出ているのを見てサラドはにこっとしてそれを片付けに行った。
コンコンとノックの後に「サラだけど」と声がかかり、「はい」と短い返事をしてセアラは扉を開けた。
水の張った桶と布が差し出され、セアラは無意識にそれを受け取った。
「足を拭うだけでもさっぱりするよ」
「わあ、ありがとうございます」
桶には十分な水量があり、足だけでなく体も拭えるだけある。セアラは素直に喜んだ。サラドは同じ桶をあとふたつ抱えていた。ちょっと困ったように眉を下げて微笑んで「あの…」と躊躇いがちに言い出した。
「あの、それと安易に扉は開けないようにね。よく確認して。いいヤツばかりじゃないから」
忠告にセアラはちょっと顔を赤くして「気をつけます」と言いながら扉を閉めた。
ショノアは昨日、今日のことを振り返り、書き留めようとペンを走らせている。
寝台脇の小さな書物机の足元には水の張られた桶がある。
あのサラという男は領地の近くでもないのにショノアが伯爵家の者であることに気付いた。昨日の顔合わせの様子から宮廷魔術師にいい様に連れてこられただけの憐れな男かと思っていたが、家名で爵位がわかるとは、それなりに知識のある者のようだ。
宮廷魔術師や上司の尊大な態度に怒るでもなく温厚で低姿勢だったし、物怖じもせず発言していた。
それにしても今日のあの行動。走る馬車から御者台に移った身のこなし、救命活動、乗り合いの比較的大きな馬車を御し、町の構成の把握、気も回せる。
魔術師としては使えなくても下男としてなら有能なのでは、代わりの魔術師が来た後も残留してもらってもいいかも…とつい考えてしまう。
だが気を許すのは尚早だろう。サラなどという名、偽名に違いないし、定職にも着いていないようだ。警戒はしておくべきだろう。
サラの顔を思い出そうとしてショノアは首を捻った。
黒髪だった。左右の前髪が少し垂れているくらいで額は出ている。癖っ毛なのか、あがった前髪も脇も毛先はあちらこちらを向いている。無精髭もなく清潔感はある。やや垂れ目。瞳は橙…いや赤…茶色だったか。すごい美形という感じでもなく、まあ普通の面立ち。服も極ありきたりの旅装。背は高めで筋骨隆々という感じではない。どちらかといえば靭やかな獣にような体躯。歳は三十半ばだろう。
思い浮かぶ項目はあるのに全体的にこう、はっきりと思い描けない。
ショノアは再び首を捻った。
昨日集められてこの下命を受ける前、ショノアは陛下の側近と文官から先に、旅に出てもらうという粗方の説明と任務外にもうひとつ、ついでに人捜しをするようにと聞かされた。もし当の人物を見かけても声掛けなどはせず報告するように、と。ただこちらも決して口外するなと念を押された。他の三人にも。
ショノアは騎士だ。秘密裏に諜報を担う部隊もあると聞くが、何故自分にこのような任務が下ったのだろう。
見せられた人相書は木炭での素描で様々な角度と表情が描かれていた。モデルとして正面からしっかり描かれたものがなく、どこからか盗み見て描いたものだろうか。その殆どが自然な、柔和な笑顔で、ラフスケッチという感じだ。
十代後半から二十代半ばの青年だったが十年以上前に描かれたもので、生きていれば今は三十代半ばだという。
髪は赤みの強い茶色、瞳は橙と但し書きがある。
名はサラド。
サラを見た際に既視感があったのはこの人相書きではなかったか。年齢も、名も似ている。
だが側近も文官も彼を目にした筈だが何も言っていなかった。
単なる偶然なのか。
そう、側近は生きていればと言っていた。
もう一度サラの顔を思い出そうとして、いや似ていないかと思い改めた。
明日の朝になればまた顔を合わす。逃げてしまうものでもない。判断を急ぐ必要はないだろう。
比較的顔の特徴がわかりやすい絵をひとつ模写して貰った絵を眺めつつ、ショノアは本日の記録を書き上げた。




