46 迷える精霊
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サラドは足が速く身軽で木々の繁る中を迷いなく走り抜けて行く。全速力で追いかけてもなかなか間を詰められないどころかマルスェイは何度も木に激突しそうになったり蔦に引っかかったりした。
息が完全にあがったマルスェイがサラドに追いついた時、彼はめまぐるしく姿を変える炎と対峙していた。
抗うように、兎、蜥蜴、鳥、山犬、と生き物を象り変貌する炎。
「魔物か?!」
マルスェイは先端に大きな玉の付いた杖の、上部を逆手に掴みサッと構えた。左手を杖の中央付近に添える。元従騎士であるマルスェイは魔術での攻撃が間に合わない際のため、細身の剣を仕込んだ杖を特注した。今のところ使用した事はないが、現役の騎士には到底及ばなくても剣の腕にはそれなりに自信がある。
しかし、炎が相手では剣も役に立てるとは思えない。
(水の術を――)
詠唱の一音目を発する前に、サラドがマルスェイを一瞥することなく、サッと腕を横に伸ばし左の手の平を向けて制止した。何も語らず、じっと炎を見つめたまま。その目は炎と同じ橙色を照り返している。
炎は今、狐の輪郭で高く跳ね上がり、前脚から地面に降り立った。そのまま頭をもたげサラドと向かい合う。
両者の間にある張り詰めた空気に縛られたようにマルスェイはそれ以上全く動くことができなかった。
精霊はこの世界と接する精霊界に棲まう者。
この世界の自然が育む力は精霊と密接な関係にあり、こちらの力を精霊界に運ぶ下位の精霊は代わりに恩恵も与えてくれる。
その境目は編み目のように隙間があって、下位の精霊は自由に行き来をしている。精霊界は謂わば彼らの家のようなもの。
しかし力には密度のようなものがあるため、中位、高位の精霊となると世界を渡るには門を開く力を必要とする。精霊は気まぐれだが、位が高くなれば力に比例して知能も高くなるので、その力が及ぼす影響を鑑みて世界を容易には渡らない。それに、力の強い精霊がこちらの世界に存在するには己自身の力と自然の力をたくさん消費するため、あまり居心地も良くないらしい。
こちらの世界へ喚ぶのにもその編み目を拡げるための魔力が必要になり、余程懇意にでもなっていなければ、気まぐれで気難しい精霊が召喚に応じるかどうかは運次第となる。
地力の均衡が乱れる程に強い場所では編み目に綻びができ、中位の精霊が迷い込むこともあるが、それは極々希なこと。特に、火山でもないのに火の精霊が迷うことなどは。
サラドが今、相対している精霊は中位の火の精霊。
周りに火を振りまきながら、少しでも大きな穴を探して動き回り、また世界と世界を繋ぐ小さい穴を何とか潜ろうと姿をくるくると変えている。
――帰りたい 帰りたい 帰りたい
迷い狂える精霊は暴れ回り所構わず力を放出する危険な存在だ。放っておけば力を使い果たすまで狂い続け、この世界で消失という死を迎える悲しい存在でもある。
その悲痛な声は、その声が聞こえる――精霊と同調する者の精神を蝕む。頭の中を掻きむしり、胸の奥を押し潰す。
――帰りたい
(どうか、落ち着いて。それ以上暴れたら消えてしまう)
わんわんと響く声に負けじとサラドは目の前の精霊に声をかけ続けた。それと同時に精霊界にいる高位の火の精霊に呼びかける。
(どうか、助けて。道を作りたい。協力してくれ!)
待てども返答はない。それでも諦めきれずに呼びかけ続ける。目の前の精霊は狐の姿で留まり、サラドを見上げていた。
――痛むぞ
唐突にそう言われ、サラドの眉がピクリと動いた。
――私が精霊界から道を開けば、膨大な力が動き、また別の精霊がそちらに流れ出る恐れがある。今、其奴が暴れたせいで、その場の力が減少している故、そちらの世界から一方向だけの道を作るには、特殊な力を要する。お前の体にはかつて私がつけた傷があろう。そこになら道は作れる。だが、通る際に大きな圧力がかかるためかなり痛むぞ。
(それくらいなら、喜んで。お願いします。助けたい。このまま消えて欲しくない)
――いいだろう。同胞のために、感謝するぞ。サラド
サラドが目を伏せると右肩の鎖骨付近に焼き鏝を当てられたような痛みが走った。
――帰りたい
(ここに。ここに、道がある)
――帰…る!
狐姿の中位の火の精霊はピョンッと跳ね、サラドの右肩に体当たりをし――消えた。
ぎゅっと詰まった力が硬い玉のようにぐりぐりとサラドの力を奪いながら体表を突き、内で爆発したような衝撃が抜けた。
「――って、痛ぅ…」
それまで微動だにしなかったサラドが膝を折った。それが時を動かす合図だったようにマルスェイもピンッと張った糸から解き放たれた。
「大丈夫か?」
マルスェイには炎がサラドを襲ったように見えたが、突如消えた炎の行方を捜して首を回らした。サラドが擦っている右の鎖骨周辺の衣類には焦げた跡がある。髪が燃えた嫌な臭気が鼻を刺激した。
「…痛た。マルスェイさま、手を貸してください」
「どうした? 立てないのか?」
差し出された手を掴み、すっくと立ってサラドは首を横に振った。
「いいえ、違います。この火事を収めたいのでお力を貸して頂きたいのです」
「は? 無理だ。こんな大規模な火事をどうやって」
「マルスェイさまは水の術との親和性が高いですよね。そのお力で雨を呼びます」
「雨だと? 天候を操るなど、そんなの伝説級だぞ。それに私は水の術は、その、何だ…」
「手遅れにしたくないんです! 癪でしょうがオレに従って」
マルスェイはサラドの気迫に息を呑んだ。マルスェイの右手を両手で包んだサラドの手にぎゅっと力が入る。
「マルスェイさまは、魔術は己の魔力だけで発動しているとお思いですか?」
「それ以外に何がある? 常識だろう?」
「違います。自然が、精霊が力を貸してくれているのです。人の魔力はそれを引き出し制御する力に過ぎません。だからそれを感じて、感謝することを意識して」
「感謝とは?」
「自分を取り巻く世界に感謝を。水は湧き出、命を宿し、優しく包み、汚れを濯ぐ、その反面、嵐は攫い、洪水は壊し、濁流は全てを押し流す…」
サラドの言葉に耳を傾けていると重ねた手から冷やりとした力が流れてくるのを感じた。
ピチョンと一滴の水が落ち、マルスェイの体内に波紋を拡げる。水がもたらす永遠の旋律。揺れる水面を覗き込んだかと思えば、激流が駆け巡り、暴れまくった。その力がマルスェイからサラドへと廻る。
マルスェイは魔力が暴走する軋みに耐えかね膝から頽れた。サラドの腕が伸び、ゆっくりと腰を下ろすように支えられる。
ガンガンと響く頭痛に吐き気、目眩が襲う。
「申し訳ありません。無理させました」
霞む目にサラドが眉を顰めて下唇を噛んでいるのが見えた。余りの頭の痛みで気付くのが遅れたが辺りはザーザーと雨が降り、焦げた臭いに土の匂い、水の匂いが混ざり合っている。
そこにショノアとセアラが息を切らせて駆け付けて来た。マルスェイの様子にセアラが〝治癒を願う詩句〟を唱える。雨に打たれながらマルスェイはその言葉をぼんやりと聞いていた。少しだけ頭痛が治まるのを感じ、ショノアに背負われたところでマルスェイは急激な眠気に意識を手放した。
マルスェイは馬車の中で眠っている。
立ち昇る煙の色が変わったことで、予想はしていたようだが、そぼ濡れて戻って来た四人を見て、街道脇に避難してきた村人は山に雨が降っていることを知った。このまま鎮火されることを願い誰ともなしに「ありがたや」と雨へ感謝を口にした。
街道には自警団も幾人か集まっており、避難民を励まし誘導していたため、これといった混乱はない。
ショノアとセアラはマントを脱いでパンッパンッと振るって水気を切り、馬車にかけて乾かしている。マルスェイの外套も雨に強い仕様で、それだけ脱がせれば中はそれほど濡れていなく、体を冷やしてしまう心配はなさそうだった。
サラドは右の鎖骨を擦り、ほっと息を吐いた。
(良かった。間に合って。森や山の一部は焼けてしまったけれど、それはそれで命が循環するし…。それにしても、)
それにしても、何故、火の精霊が山の中にいたのだろうか、そこに恣意を感じて、サラドは胸騒ぎの原因を探った。
精霊の召喚は喚ぶのと還すので一組だ。廃れた――精霊と仲を深められる者が減少して失われたという精霊召喚術。サラドの他にも精霊と会話できるものがいてもおかしくはない。無意識に呼んでしまった可能性ももちろんある。
火の精霊の苛立ち具合から、無理な召喚に還りを阻止し、意図的に迷える精霊にさせられたのだと感じた。
魔物との戦いに明け暮れていたあの頃、裂け目を操る魔物、アンデッドを従える魔物、それ以外にも精霊を狂わせて従わせる魔物が確かにいた。まさか――。
サラドはぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「マルスェイの様子はどうだ?」
「よく眠っていらっしゃいます」
「倒れるなど、マルスェイに何があったんだ?」
「魔力の急激な枯渇かと。無理を強いてしまいました」
サラドがしゅんと項垂れるとショノアは慌てて「いや、サラを責めている訳ではない」と否定した。
サラドも気が急いていたことは否めないが、マルスェイの堂々とした態度からそれなりの魔力を有し制御できるくらいには修得しているのだと思っていた。急激に流れ込んで来たマルスェイの魔力を借り呼び集めた下位の水の精霊たちと雨雲は予想以上に効果的に雨を降らせたが、彼が力の巡りを制御できておらず、倒れるほど使い果たしてしまったのは誤算だった。
魔力切れは苦しみを伴い、時には命も落とす。サラドは眠るマルスェイを見て申し訳なく思った。
「近くの町々で兵士が仮設のテントを張ってくれたそうだ。村人たちも分散でだが今夜は様子見となる。我々もそこにお邪魔させてもらおう」
山火事は雨に任せて鎮火や被害の確認は明日に回し、人々はゆっくりと移動を開始した。
翌朝には雨は止み、山ではもうもうと白い煙が見られた。
領主により組まれた調査隊が山に入り、村の無事は早々に確認され、人々は帰り支度を開始していた。逃げる際に転んだりして負傷した者にセアラは治癒を施している。マルスェイはまだ気怠そうにしていたが、意識もはっきりしており、魔力切れの後遺症もなさそうだった。
「何にせよ人命に被害がなくて何よりだったな」
ショノアが眩しいくらいの笑顔を見せる。
一行はマルスェイの回復を待つため、その日もこの町に滞在することにした。