41 導師の死
神殿の長い長い夜は明けた。
本来ならば厳粛な儀式を終えて静穏な朝を迎えるところ、神殿からはまだ悲痛な祈りの声がポツポツと聞こえ、町中は騒然としている。
二番目の門は内側から閂でがっちりと閉ざされ、常駐しているはずの門兵もいない。元々翌日も開放されない予定ではあったが、儀式が恙なく終わったとは思えない昨夜の衝撃に、門前には信奉者がちらほらと集い、静かに手を組んでいた。
冷静さを取り戻すためにも寝不足を吹き飛ばすためにも日課の鍛錬を行ったショノアはやはり朝の祈りを済ませたセアラと顔を合わせた。明るくなるのを待っていたのか、マルスェイはブツブツ言いながら脇目も振らず街門の方へと走って行く。顔を合わせてもショノアとセアラに挨拶すらしない様子は鬼気迫るものがあった。
「きゃあ、サラさん! しっかりしてっ」
起きてこないサラドに痺れを切らし、泊室を覗いたセアラが、右手と衣服を血で汚して床に寝転がる姿を目にして悲鳴を上げた。
「う…ん…おは、よう…?」
揺すり起こされたサラドは寝惚けているのか気の抜けた声を出した。
「血がっ どこか痛いところはっ?」
「何があった?」
セアラとショノアに詰め寄られて、サラドは右の手の平をぼんやりと眺めた。
(…治ってる)
床で眠ってしまったために体は冷えて、節々が痛むがあとは怠いだけだった。後ろ頭を掻き、昨夜のことを思い出そうとするが今一つ判然としない。『シルエの幻影を保て』というノアラの声が強く耳に残っていて、幻術に力を注ぐために『導師』の姿を脳裏に思い浮かべると、ぎゅうっと胸が締め付けられた。
「うん…? 傷はない、な。えっと、慌ててナイフを…握った?」
「何で疑問なんだ?」
「お怪我がないならいいんですけど。昨晩はその…凄かったですものね」
詳細はまだわからないが、神殿で儀式中にただならぬ事態が起きたことは想像に難くないため、セアラは目をきょろきょろと彷徨わせ言葉を選んで発した。
マルスェイは出て行ったまま、ニナも姿が見えず、三人は先に朝食を摂ろうと階下に降りた。
食堂では情報のなさに従業員も宿泊客も不安を隠せず昨晩見聞きしたものをそれぞれに照合している。自然とヒソヒソと潜められた声は陰気な雰囲気を作っていた。
そこに青い顔をして戻って来たマルスェイは椅子を引いて重そうに腰を下ろした。まるで示し合わせたようにニナも表の扉から入って来た。
「神殿内を少しだが見て来た」
「は? 壁を越えたのか」
ショノアの声の大きさにニナがギロリと睨む。
「あの光の後、複数名が奇病に罹り倒れたらしい。それから、導師が亡くなったそうだ」
ショノアが息を飲み、セアラが気遣わしげな目でサラドを見た。結界が壊れたことで導師の身に何か起きたであろうと推測していたマルスェイはテーブルに肘を付き組んだ手で額を支えて項垂れた。
「そっか。導師が…導師…どう…し」
「あ、あの。サラさん…」
茫然自失で焦点の合わなくなった目を宙に向けているサラドを見て、ショノアはその話題を断ち切るように咳払いをした。マルスェイはもちろん、ニナもおそらくサラドと導師の関係を知らない。
「とにかく正式発表があるまではニナの情報は慎重に扱わないとな」
「街門も閉ざされている。神殿内の騒乱が治まるまで聖都に閉じ込められそうだ」
マルスェイは壊れた結界の某かを見つけられないかと期待して街門周辺まで行ったが、ぐるぐると見て回っても痕跡ひとつない。魔石を使っていた形跡もなく、人の魔力のみで構築されていたことに改めて驚愕したところだった。
町の誰も結界を失ったことに気付いてもいないだろう。導師の死に加え、それを知ったらどんな混乱が起こるか、この町を見限る商人も出てくることが予想される。
その日、二番目の壁を出入りした者は数名。手紙を手に子供を迎えに来た親と食材を納入した者だけだった。
導師は子供達の保全を訴える自筆を遺していた。教育施設の子供達も隷属されていたことが明るみになり、改善は最優先で行われた。親元に帰る意思があればすぐに応じ、今後、別の町から迎えに訪れるであろう親類縁者もすぐに通すように門兵に通達した。また学びたいと望めば戻れることも保証し、通いも可能にし、寮の管理者は変更された。
隷属の術からどのようにして解放されたか、いつ手紙を出したのかについて、子供達は『導師が約束してくれたから』ということ以外は固く口を閉ざしている。
養護院の子供の人身売買に関わった者は厳しく処罰されることになり、買入した側の捕縛についても王都へ連絡を取り付けることとなった。神殿長の甥御は王配であり繋がりが活かせる。
この国では奴隷は違法であるが、単に養子縁組、徒弟にしたと言い逃れもできるため全てを裁くことは残念ながらできないであろう。
しかし、決して二度と同じ轍を踏むことがないよう各地の神殿にも徹底させることを神殿長は神に誓った。
翌日になって、導師の逝去は広場に掲示された。喪に服すため葬儀まで街門の閉鎖も告げられた。
信仰上、自死は認められない。そのため死因は急な病によるものと公表された。
導師は非公認の存在だったが神殿として公に弔い、異例であるが歴代の神殿長と並んで霊廟で眠ることに決まった。棺に納められた導師の遺体は葬儀の日まで礼拝堂に安置される。
この数日、神殿長はかつてないほどめまぐるしく動き、神殿の改革を押し進めている。
町は門の閉鎖にもこれといった反発は起きず、従順に応じている。この町が神殿ありきで発展してきたゆえの処世術なのだろう。
巡礼者は哀悼と奇病の平癒を祈る日々、観光客は街門の規制が解かれるまでおとなしく過ごしている。
神殿からの情報は殆どなく、一見沈静化したように見える町では副神殿長をはじめとした多数の神殿関係者が原因不明の体調不良に倒れたという話と導師の死が町の人々に大いなる不安と関心を与えていた。信仰の始祖ともいえる儀式を見舞った出来事に「天罰では」と不穏な憶測がたつのは止められない。
喪に服すためとは表向きで、神殿長は最高責任者として導師の死に責任を感じたため、街門を封鎖するよう命じた。
隷属の術下にあれば自死は実行不可能であるはずで、頑丈な壁の崩壊もあり導師は他殺、あるいは事故死ではないかとの見解が強まった。だが、犯人もその侵入手口も杳として掴めないまま導師の葬儀の日は近付いている。
相手は治癒と防御の力に長けた導師、そんなに易々と殺されるだろうか、それがジャックには疑問だった。あの切迫した導師の目が忘れられない。
神殿内で蔓延っていた不正が一掃されるのは良いことだが、その裏で導師の死がまた利用されようとしている。あの夜襲った天災は、導師や副神殿長が世の罰を代わりにその身に被ることで、神殿の外に被害が及ばず人々は救われたのだという美談に仕立て上げる動きがあった。
あの夜の真実は箝口令も敷かれ、数多ある不都合を隠す。副神殿長は力ある貴族の出身、その後ろ盾を受けた導師の醜聞は避けたいのだろう。
(天から落ちた光に責を負ったということでは合っているかもしれないが…。膿は出し切れないということか)
ジャックは導師の最期の姿を思い出し、悲嘆に暮れた。
サラドは広場の花壇の縁石に腰を下ろし、軽く開いた脚の間で緩く手を組み、呆然と神殿の尖塔を眺めていた。ここ数日、聖都内をぶらぶらしては所々で休憩する日々を送っている。ショノアは町の見回りと報告書作成、ニナは情報収集へ、セアラはサラドの代わりとでもいうように祈り、マルスェイは壁の周辺を熱心に調べている姿が見られている他、ケントニス伯爵夫人らを訪ねたりもしているようだ。
耳には絶えず風の精霊のお喋りが聞こえ、その中にある町の様子や噂を拾うと、導師の死はかなりの勢いで広まっているようだった。
「お労しい」という声の他に「罰が下った」や「これで徴収が減るのでは」と期待するものもあった。「副神殿長は導師を止めるために犠牲になった」なども。
導師を悪し様に言う噂を打ち消す言葉を流布しそうになって、サラドはぎゅっと組んだ手に力を入れた。
(あくまで死んだのは導師だ。どんな噂が流れても情報操作するような真似をしては二の舞を演じる。ガマンだ…)
壁の内側から広場の花壇に座る白髪の男性がいるのを目にしたジャックは急いで駆け寄った。
「あの、もしかして導師様のお兄様ですか?」
「え?」
「前に施療院に来られた際に導師様に『お兄ちゃん』って呼ばれた方ではありませんか」
「ああ、そうですね。お互い孤児なので血の繋がりはないんですが。オレの自慢の弟です」
「孤児…。導師様も孤児だったんですね」
ジャックは神妙に目を伏せ、下唇を噛んだ。養護院に預けられたばかりのことが思い出される。導師はよく養護院の様子を見に来ては、お腹は空いていないか、不足しているものがないかと気に掛けてくれていた。最期の姿は見る影もなくなっていたが、頬がふっくらしたやや甘い顔立ちの青年で、身長もそれほど高くなく、童顔なのか威圧感などはない「お兄さん」という印象だった。後から知った時にあのお兄さんが偉大な奇蹟の力を持つ者だとはとても信じられなかった。
「あの…。大変言い難いのですが、その導師様が…身罷られまして」
「そのようですね。…どんな最期でしたか?」
「‥‥。とても…その…苦しそうでした」
導師の死因は病気とされている。嘘は吐きたくないが、まだ真相が確かでない今、全てを詳らかに打ち明けられない自分にジャックは嫌気が差した。
「お兄様には家族としてお別れの機会をと思いまして声を掛けさせていただきました。お顔を見てあげてほしいと」
ジャックは無意識に首に手を添え、ぎゅっと眉間に力を入れて目を細めている。
倒れて首から流れ出る血に塗れていく姿がブワリと脳裏に浮かび、サラドが悲鳴を上げた。
「いっ イヤだっ! 見たくない! やめてくれっ だって…」
急にサラドの呼吸が荒くなりヒッヒッと速く短く吸い続け、地面に手を着いて倒れ込んだ。ジャックは指を緩く曲げて空間を作った状態でサラドの口を覆い、背にもう片手をあてて、ゆっくりと声をかけた。
「深く吸おうとしないで。息を吐いてください。もう少しゆっくり吐いて。吸って。ゆっくり吐いて…」
吸う、倍の時間吐く、を促され繰り返すうちに少し落ち着きを取り戻したサラドは再び縁石に腰掛け、項垂れて息を整えた。その眦には涙が浮かび、ゴホッゴホッと噎せている。
「申し訳ありません。配慮が足りませんでした」
謝るジャックにサラドは首を横に振り、手の平を向けて「気にしないで」と伝えた。
「あっ、いました。サラさん!」
手の甲で口を押さえゴホゴホとまだ噎せぶサラドの元にセアラとショノアが駆け寄って来た。その隣に兵士がいるのに気付き、足を緩めて会釈する。
「どうかしたんですか?」
「その…ゴホッ」
「あの、もし、気が変わりましたら、お待ちしておりますので」
自分の存在が取り乱させていると覚り、立ち去ろうとするジャックの言葉にサラドはまた息を飲んだ。見開いた目が泳ぐ。
(シルエは生きている…あれは幻術の導師…)
「ショノアさま、セアラ、今日は、ゴホッ、一人で…外で夕食を済ませます。ゴホ…、すみませんっ」
立ち上がりざまに言い切ってサラドは一気に駆け出した。