34 港町の噂
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ショノアは報告のために王宮の一室に控えていた。王都に入り帰還の挨拶の後セアラは再出発を知らされるまで神殿預かりとなっている。サラドが離脱した後の彼女は元気もなく、素直に従って王都の神殿の扉を潜った。
ショノアは緊張に胃がキリキリと痛み、喉がやたらと渇くのを、生唾を飲んで凌いでいた。
陛下の側近と担当の文官が揃って入室し、ショノアは急いで跪き頭を垂れた。
「戻って来たのは二人とは、どういうことだ?」
「申し訳ありません。サラ…サラドは急用と称し離れたため、ニナが追跡にあたりました」
「ふむ、逃げられた、と?」
「逃げたかどうかは…、捜索されていることには気付いていないものと存じます」
「はたして、そうかな?」
「それはどういう…」
「まあ、良い。追って沙汰を言い渡す。加入予定の宮廷魔術師が急に港町に行くと言い出したので、戻るまで疲れを癒やすが良い」
「はっ。有り難く存じます。あの…無礼を承知で申し上げます。魔物の発生については、っ!」
冷たく見下ろす側近の眼差しにショノアは息を飲んだ。
「そちらはそなたに与えた任務とは別件になる。報告ご苦労であった」
「…はい。失礼いたしました」
ショノアは魔道具の筒と未送分の報告書を文官に渡し、騎士の宿舎に久しぶりに帰った。心に蟠るもやもやを追い出そうと訓練所に足を向け、剣を振るう。汗を流しても曇った心は一時的にしか晴れなかった。騎士の仲間にそれとなく話を聞いてみたが魔物の件は噂程度で兵が派遣されたとは聞かない。
(何故だ? 魔物は民の脅威ではないのか…)
ショノアは疎遠になっていた兄に連絡を取った。文官として働き、〝夜明けの日〟前から王宮に参内していた兄ならば何か覚えているかもしれない。
「久しいな。ショノア 息災にしているか。特別な任務を受けて王都を発ったと聞いていたが」
「はい。今は一時帰還中です。あの兄上は…十年ほど前に赤い髪のサラドという男性が王宮の話題に上った記憶はありませんか?」
ショノアの兄は顔を顰め、戸惑いを隠せず、一瞬の逡巡のあと周囲に人がいないか注意深く見回した。
「どこでその人物を知った? その話題は禁忌なんだよ。もし、任務に係わることなら尚更安易に口にしてはならない。わかっているね?」
「禁忌? …ですが、何も知らぬままで命令に従うのをよしとしていいのか…」
「いけないよ。ショノア、王宮はどこに耳目があるかわからない。ゆめゆめ忘れることのないように」
「‥‥」
結局ショノアは兄からそれ以上の話を聞くことはできなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ニナ、ごめんな」
「やめろ!」
早朝の霧深い林の中、人目がない場所で正面からはディネウに肩をがっちりと掴まれ、背後をサラドに挟まれた状況でニナは無駄とわかりながら抵抗を試みた。体格の良いディネウに対してニナは小柄で、まるで大人と子供だった。
「放せ!」
「おい、サラド、本気か? 王宮とあんなガキどもに義理立てる必要ないぞ。俺は反対だ」
「うん。でも気になることがあって。ニナは情報を集めるのは優秀だから。任せれば時間短縮にもなるし、ニナを早めに王都へ送った方が結果オレの追跡も躱せるだろうし」
ディネウは諦めてはぁっと息を吐く。
「ニナ、少しだけ、じっとしてて」
サラドが背後からニナの目を手で覆った。
「ニナ、『眠れ』」
サラドの囁やきが耳朶を撫でた直後、ニナの体から力が抜けた。ディネウが倒れないように支える。目隠しをしたまま、サラドがゆっくりと頷いた。
不可視の魔術で姿を隠蔽しているノアラがこくりと頷き返し、転移の術を発動する。薄紫色の光が霧を染め上げ、数秒で消えた。
港町の護岸では陽の光が海面に反射してキラキラしている。岩に当たって砕ける波がパチャパチャと音を立てていた。
「ニナ、起きて」
「! なにす、っ! え?」
真正面にはディネウ、背後からサラドの声がする。意識を取り戻したニナを確認してディネウが肩から手を除けた。足はしっかり地に着いているのに、軽い平衡感覚の乱れをニナは感じた。
「ここは…?」
「港町だよ。どうやって移動してきたかは内緒ね。オレたちはちょっとやらなきゃならないことがあるから、代わりにニナには港町で新しく噂されていることがないか情報収集して欲しいんだ」
状況判断が追いつかないニナに構わず、サラドがおどけた様子で依頼する。
「…。それが済んだら、一緒に王都へ行くのか?」
「うーん、情報次第かな」
目の前では厳ついディネウが腕を組んで深い青色の半眼で睨みを利かせている。その隣に移動したサラドは朗らかな表情だが一分の隙きもない。
「どうせ断われないんだろ…」
「頼むよ」
穏やかに微笑むサラドに背を向けニナは桟橋の方へと足を向ける。
ニナのことを『優秀だ』と評したサラドの言葉を思い出し、胸の奥がムズムズするような、全身が痒いような、気持ち悪いような、それでいてあったかいような気持ちに堪えられずニナは思いっきり走った。
(こんなの、知らない――)
訓練施設でも褒められることは稀にあった。それは訓練生を生かすための飴であって、大した意味は無いことを知っている。嬉しいとか自尊心が満たされるとかそんな勘違いなどしようがない。
『頼む』という言葉がくすぐったいだなんて、こんなにそわっとした気持ちは今までニナとは無縁だった。
ニナは走って走って、走りながらも人々の口に上る話に聞き耳を立てた。
走り疲れたニナはふと足を止めた。
大きな商店の窓にはガラスが嵌まり、暗い色のカーテンが敷かれているため、風景が映り込んで見える。そこに近付きニナは恐る恐る顔の下半分を隠すスカーフをめくった。
信じがたいことにガラスに映る自身の顔にはずっと彼女を苦しめていたものがない。左頬に指を滑らせてみても、すべすべとまでは言えないが、ボコボコとしていた感触がずっとずっと小さくなっている。
直に目にしたらもっと目立つかもしれないが、ガラスに映った姿ではぱっと見、わからないくらい。
口元から裂けるように延びるナイフで切られた傷痕はサラドにもらった薬で口の端が膿んで痛むこともなくなり、痕も幾らか薄くなっていたが、これほどではなかった。薬はもうすぐ使い切る。追加を要求するという考えはないので、傷痕の改善もこれまでだと思っていた。
昨夜から違和感はあった。欠伸をすると必ず口の端が割れるため、いつも歯を食いしばり堪えているのだが、うっかり口を開けてしまってもいつものような痛みがなかった。心当たりといえば、昨日の、導師という男が手を伸ばしてきたこと。あの一瞬で治癒を施されたのだろうか。あの時はサラドが薬をくれた際に「おまけ」と言った時と同じ温かさがあった。
(あの時、あの男はなんて言っていた? 『力を望むな』『身を滅ぼす』と? 傷と力に何か関係が…)
ニナはスカーフを整え、手の平をじっと見つめた。
アンデッドが蘇る直前に背後から聞こえた声が脳裏に浮かび、一気に鳥肌が立ち指先が冷える。
(知らない。わたしは関係ない――)
海が夕陽に照らされる頃、護岸に戻ったニナは、海風にあおられ白髪がボサボサになっているサラドに注意深く近付いた。ぼんやり海を眺めているように見えて、隙がない。
サラドはひとりで佇んでおり、ディネウは近くにいない。前と同じような灰色のマントに革の胸当て、靴、腰鞄を新調し、装備を整えていた。港町は良い品が豊富に取り揃えられているようで、長身のサラドにもサイズが合っている。布を巻いただけの怪しさはなくなった。
「どうだった?」
「魔物の話題はあるが『魔王』については聞かない」
ニナは聞こえてきた情報を伝えた。集めながらなるほど、と思った。港町には確かに前回なかった様々な噂が飛び交っている。
最も多い話題は先日、港に現れた魔物とそれを討伐した『最強の傭兵』のこと。
次いで聖都近くで魔物が出たこと。こちらも日が開いていないのに討伐したのは『最強の傭兵』と『大魔術師』だ。さすがにアンデッドとして蘇ったことはまだ出回っていない。
同じく聖都目前で貴族子息が魔物に拐かされ、聖都の兵士が裂傷を負ったこと。兵士の話によれば、助けを求める娘がいて、その奥に真っ黒な葉を揺らす大木の魔物がいたという。その大木は焼け落ちたが、娘の安否は不明。
魔物関連以外も噂はある。
古びた井戸の水を浄化した若い娘の神官見習いがいる。
乙女の神官見習いとやんごとなき身分の戦士が駆け落ちの逃避行中。
心根の優しい乙女神官見習いは召使いの火傷を治して欲しいと訴えたが聖都はそれを見殺しにした。
などなど。
港町は物流の他にも噂がこんなにも早く面白可笑しく回るものだと感心した。
「へぇ、ショノアとセアラがそんな風に見られちゃったんだね。駆け落ちかー、みんなそういうの好きなんだね。それにオレ殺されてるし…まあ、死んだと思われてもおかしくないか。魔物の誤解はちょっと気になるけど…」
「それから、〝夜明けの日〟の英雄、大魔術師を探し回っている男がいた」
「大魔術師を?」
「藍色の魔導着に金髪で紫の瞳の三十路くらいの男を見ていないか、と」
「ずいぶん具体的だな。魔物の討伐の際に見かけたか、それとも…。うーん」
神出鬼没の大魔術師と繋がりを持ちたいと追いかける者は少なからずいる。それでも殆どの者はノアラの容姿は知らない。サラドは少しだけ横に視線をずらし、小さく頷いた。
「…王都へは行くのか?」
「正直言えば行きたくはないけれど、気になることはあるんだよなぁ。でも聖都のことも気になるし…」
「…領主からまず間違いなくアンデッドのことは報告と陳情書が王宮にあがる。あんたはそこで見られているしこのまま王都へ行ったら日程に矛盾がある。わたしが王都へ報告に行く。無理して戦ったから体を休めてるとでも言えば済む。あの状態で馬車移動はそもそも無茶だ」
「匿ってくれるの?」
「…違う。そういうんじゃない…」
サラドが俯くニナを穏やかな目で見下ろした。夕陽と同じような橙色の瞳。ニナはサラドが『一緒に逃げるか』と冗談を言ったのを思い出し、胸がムズムズするのに堪え、勘違いするなと自分に言い聞かせた。浮ついた気持ちや叶うはずもない希望は隙を生んで死を早めるだけだ。
「ニナはそれで大丈夫? 無能とか言われない?」
「見つけてはいるから。山林の町でも宿場町でもここでも、休んでいてくれれば」
「オレのことを心配してくれてるの? じゃあ、お言葉に甘えて宿場町に行こうかな。あそこは人の出入りが多いわりに衛兵が少なくて潜伏しやすいし」
「…了解」
「オレがこのまま逃げるとは思わないの?」
背を向けて去るニナにサラドが聞いた。
「あんたならその気があればとっくに姿を暗ませていただろう?」
「うん。じゃあ、宿場町で薬を盛られて眠って待っているから」
へにゃっと笑って手を振るサラドをひと睨みしてニナは走り出した。