28 啓示
ニナが汲んできた水の桶をショノアの方へ押しやり、汚れた水の桶を引き寄せる。
その場には自警団の若者もいるが、聞かれても問題はない内容だと判断したのかいつもの小さな声で話す。
「宿場町では魔物の討伐の噂で持ちきりだ。そこに『最強の傭兵』が訪れ、人を探しているから更にいろんな憶測が飛び交っている。傭兵が探しているのはサラだ。傭兵は巡礼路へ行くようだった」
『最強の傭兵』という言葉に自警団の若者が目の色を変える。
ショノアは考える素振りを見せた。
(あの傭兵は巡礼路で魔物が出たこともその場所も知っているってことか?)
ニナが自警団の若者を目の動きだけで見た。
「それと、多分、これはアンタにも関係がある話。村人が迷子と偽って貴族の子息を拐かそうとしたという疑いで街門の詰所で投獄されている」
「えっ?」
「嫌疑をかけられていると? その子供には聞かなかったのだろうか」
「…大方、子供を脅して嘘を言わせるから、とか何とかでまともな尋問もされてないと思う。いつだってそうさ。聖都からすりゃ、おれたちは犯罪予備軍らしいからな」
「自警団を結成して警らをしているのは君らだろう? 誇るべきだ。聖都の兵は街道の見回りもしていないように見受けられたが」
自警団の若者は口をへの字にして顔を歪め俯いた。ニナが報告は済んだとでもいうように汚れた水の入った桶を持ち去る。
「とにかく、街門の詰所へ向かおう。そんなことが許されていいはずがない」
練った薬を布に塗り、体に貼り付け包帯を巻く。着替えさせれば深手を負って眠っているだけにしか見えなくなった。とてもつい先程まで生死を彷徨う重傷者だったとは思えない。薬の準備も応急処置もセアラは手慣れていた。
「こういったことなら田舎でたくさん手伝っていたので」と困り顔ではにかむ。
別の宿を取り、寝台にサラドを寝かせ、元の宿に荷物を引き取りに行く。忙しく動き回ってようやく一段落ついたところで、疲れているであろうセアラとニナには休んでもらい、ショノアと若者で街門の詰所へと向かうことにした。
「今回の助力には本当に感謝する。何か謝礼ができればいいのだが…」
「いいですよ。別に。おれたち自警団は金品が欲しくてやっているわけじゃない」
街門に着くと先刻食い下がっていた件もあり、門兵に不審な顔で見られた。聖都内では騎士の身分は殆ど意味を成さないが、ショノアは伯爵子息でもある。あまり気乗りはしないが、それを盾に昨日の迷子について質問をすることにした。
「昨日、迷子の保護現場には私もいたのだが、」ゴホン、とわざとらしく咳払いをひとつする。
「厚意で保護者を呼びに行った若者が不当に拘束されたと聞いたのだが、詳しく事情を説明してもらえるだろうか」
結果、疑いは晴らされ自警団の仲間は無事に釈放された。門兵からの謝罪の文言はなく、不貞腐れた態度のままだった。
彼は憔悴し疲れた様子ではあるものの、怪我や暴行痕などはなく一安心する。
「まったく、聖都は本当にどうなっているんだ? 昔からこうなのか?」
「おれたちは移住して来たから、その辺はよく知らないんですけど…。あの、伯爵様とは知らず、色々とすみませんでした」
「いや、嫡男ではないし気にしないでくれ。王都では騎士をしているが今は個人的な旅の途中なんだ」
「騎士様?! あの…、『最強の傭兵』の剣士様とはお知り合いなんですか?」
「顔を合わせたことはあるが、個人的に認識はされていないと思う。ただ先程の怪我人が…兄らしい」
「剣士様のお兄さん!」
「それって斥候の?」
彼らは一頻り驚いた後、「お世話になりました」と村に帰っていった。
泊室はショノアとサラドで同室にしてある。セアラは「変化があったら夜中でも知らせて欲しい」と告げ別の泊室に下がった。
情報をまとめたメモ書きの手を止め、ランプの灯りをかざして眠るサラドの顔をショノアは覗き込んだ。白髪に変わるだけで印象が大分違う。それにしても黒髪が一気に白髪になるとは何があったのか。眉や睫毛まで白い。
じっと見て、ショノアはまた違和感にとらわれた。以前にサラドの顔を思い出そうとした時、さりげなく彼の顔を観察した時、いつも靄がかったように印象が定まらなかったが、今ははっきりと見える。荷物から紙を出して広げ、そこに描かれた顔と見比べる。
そして、確信した。
彼はやはり、捜すように言いつけられた人相書きと同一人物だ。
「サラド…?」
ショノアは再び報告書に取りかかった。
あれからニ日が過ぎた。
サラドは昏昏と眠り続けている。甲斐甲斐しく介抱するセアラにも焦りが見えた。このままでは衰弱する一方だ。
その間、ニナは聖都内で交わされる会話に聞き耳をたて、ショノアも情報収集、報告書の作成に時間を費やした。魔物の話題は祈りに熱を与え、聖都内にいれば安心という思いを募らせている。滞在を延ばす者も増え、ただでさえ宿場町より倍くらいする宿賃や食事代は更に値を釣り上げた。
「あの、夕べの祈りに参加してきてもいいですか」
このニ日、薬の調達くらいしか出掛けていなかったセアラが断りを入れて来た。
「もちろんだ。行ってくるといい」
セアラからは笑顔がすっかり失われている。
血や泥で汚れた見習いの服は洗濯中で、今は田舎で着用していた至極シンプルなワンピース姿。見習いの身分を示すペンダントは服の中にしまい、杖も持たずにいると誰も彼女を神官見習いだとは思わないであろう。彼女も今の服装の方が気が楽で、肩の荷をひとつ下ろした、そんな様子だ。
広場を抜け礼拝堂に入るために門の列に並ぶ。先日あれだけ入れろと駄々を捏ねたので門前払いにされないか不安だったが、今日はマントもなく、服も違うためかちらりと睨め付けられただけで済んだ。
田舎を出立する時に神官からもしもの場合にと渡された路銀から入場料を払う。
初めて入った聖都の中心部、神官たちの集う場所をキョロキョロと見回してしまう。田舎者丸出しだが、周りの人々も同じなので気にならない。
入って直近が礼拝堂。その隣の施療院は広くて頑丈な建物。養護院は少し奥にあり、付近には遊ぶ小さな子供たちの姿もある。広い場所にたくさんの洗濯物がはためき、見習いと子供が取り込んでいる最中だった。
壁越しの神殿を見上げ、時間を忘れるほど眺め続けた。美しく技術に富み、古代魔術に守られた建築。尖塔のひとつひとつが彫像に飾られ窓には模様を描いた色ガラスが嵌め込まれている。遠目には見分けられなかった、祈りの言葉に通じる意匠に目を凝らす。
礼拝堂は神殿の内部を模倣しているらしい。上部が曲線を描く柱で支えられた高い天井と美しいばかりでなく戒めをも表す絵画、象徴である長く光の尾を引く星と小さな星が重なった形のモニュメント。
胸の前で手を組み、夕べの祈りが始まるのを待つ。
あの素晴らしい薬を与えてくれた神官がいないか探したが見つけられなかった。できることならば命が救われた礼を言い、更にできることならば目覚めるための助言が欲しい。
鐘の音が鳴り響き、祈りの言葉が唱和される。音が反響して重く腹に届く。
祈りの言葉を口にしながらセアラはサラドのことばかり考えていた。
この祈りがサラドに届けば、と願う。
ふと、その心に気付いてセアラは愕然とした。
祈りの言葉も〝治癒を願う詩句〟も広く人々の幸福を想って唱えよと教わってきた。
たったひとりを想って祈るなんて。
この想いは良くない。
信仰としてあるまじきもの。
祈りの途中で雑念に苛まれるなど許されない。
どうしよう―― 。
思い悩んでいたその時、空から光が降り注いだ。
セアラは周囲からひとり隔絶されたように真白く静謐な空間にいる。天も地もない浮遊感のある白い世界は眩しいのに目は開けていられる。反響していた祈りの言葉も聞こえない。
その耳に、いや、頭に直接響いたのは
―――答えを見つけなさい
そう命題を告げる言葉だった。
(ひとりのために祈ってもいい…の?)
次の瞬間、セアラは元の、祈りの言葉が反響する礼拝堂に戻っていた。
夕べの祈りが終わり、鐘が鳴っても、人々がざわざわとはけていってもセアラはしばらく祈りの姿勢のまま茫然とそこに佇んでいた。
その様子を礼拝堂の二階の渡り廊下から見下ろす人物がいた。骨と皮のような手を手摺にかけ、少しだけ身を乗り出す。
「今、啓示を受けた者がいるね」
「啓示、ですか? 修行中でもないのに」
「へぇ、今の光を感じられなかったんだ」
その言葉に高位の神官は顔に朱を注ぎ、唇を噛んで押し黙った。その目は『そういうお前は神官でも見習いでもない卑しい血の癖に』と蔑んでいる。その視線を受けても、ふんっと鼻で笑い導師はゆったりとした長衣の裾を翻した。
宿に戻ったセアラはまだドキドキと煩い胸をおさえた。
(答え…? 祈りは広く人々の幸福を願うものだけど、もし許されるのなら、今は、今だけでも)
セアラは眠るサラドの寝台脇に両膝を着き、その右手を取って自分の唇に寄せ〝治癒を願う詩句〟を唱えた。
(どうか、目覚めて。また私の名前を呼んで欲しい)
キラキラとした光が、掴んだサラドの手を照らす。
ピクリと左目の瞼が動いた。うっすらと開けた目。声は出ないが唇が微かにエの母音を形作る。セアラが掴んでいない左手が眼前に誰かが見えているように差し伸べられ、空を掠め力なくパサリと落ちた。
「サラさん!」
セアラは歓喜で思わず叫んだが、サラドは再び気怠そうに瞑目してしまった。不安に突き動かされ胸に耳を当てて鼓動を確認する。トクトクトクと刻む音にセアラは気が抜け、トスッと臀をついた。
(…答えはこの先々で見つけていこう。私の祈りの在り方を)
祈るようにセアラはサラドの手を額に着けた。想いが届くように願って。