275 「お父さん」
顔の下半分を隠すスカーフを外し、いわゆる町娘の格好をしたニナが恐る恐るサラドの前に出てきた。全身が映る鏡などないため、そわそわと衣類のあちこちを摘んで引っ張る。
「うん。似合ってるよ」
「…嘘つけ」
ニナはちょっと恨めしそうに睨む。サラドは八重歯をちらっと覗かせて「まいったな」とでも言いたげに笑んだ。
「嘘じゃないよ。『少年』風もいいけどね。仕事内容とか場に合わせていろいろ楽しんでみるといいよ」
服飾品を扱う店に連れて来られ戸惑いながらも、次々に薦められる似たような品のうち「こっちがマシか」と思うものを選んでいくと、いつの間にか洗い替えも含めて数着がニナのものになっていた。
因みに代金はサラド持ち。店主とサラドは知り合いのようで、支払いが済んでおり、幾らか聞いても躱されてしまった。
既製の服は高値で、庶民であれば自分ないし家族が繕うのが一般的。これらはどれも中古品だが、生地がしっかりしていて質は良い。もしかしたら、中古風なのかも、と思い至る。全て新品では馴染むまで悪目立ちしてしまう。着替えてみてわかったが、この店で扱うのは普通よりちょっと機能的なものだ。
袖がゆったりした上着は手首にいろいろと仕込める。巻きつける形のスカートは脱ぎ捨てやすい。
小振りの鞄付きベルトは太めの幅で、女性らしい細腰を強調もするが、防具としての機能もある。
編み上げのブーツも今までの足を大きく男性っぽく見せるものと比べたら軽く、動きやすそう。靴底が微妙に厚いので探ったら隠しが付いていた。
冬用の外套は茶色系統で派手さはないがしっかり温かく、布をたっぷり使った形でクルリと回れば丸く広がる。こちらも内側に衣嚢が普通のものと目につきにくいものと両方備えている。
女性用のふんわりと頭を覆う形の帽子は大きくフリルを寄せ、リボンをあしらったものが流行らしいが、地見目なもの。これも不自然に生地が二重だ。
ピンピン跳ねる硬い毛質のため邪魔に感じたら短くしていたが、これを機に伸ばしてみるのもいいかもしれないと、そんな心境の変化に自身で驚く。前髪をちょっと弄り、長く伸ばせば売ることもできるからだ、と心の中で言い訳をする。
受け取った服の中には女性用のズボンもあるが、せっかくなので子供の頃以来となるスカートを着てみたのだが、人の視線が気になり落ち着かない。
「お腹空いてない? 美味しい定食屋さんがあるんだ。こっちの道を…」
食堂への道中も店内でもニナが不躾な視線を感じることはなかった。そう、誰も注目しない。
「ね? でも…そうだなぁ、ちょっと直すとしたら…。下履きのズボンはもう少し細めのものにして。スカート内に短剣を隠すのなら、こういった帯を使うといいよ」
バッとスカートを押さえたニナが顔を赤くする。
「見たのか?」
「見てないよ。スカートに寄る皺とか、歩いた時にちょっと引っかかるのが目についたから。あとブーツ、脹脛がズボンの裾でちょっとパツパツ…かなって。普通の人は気にならない程度だから、そのままでも平気ではあるけど」
ニナはもごもごと口を動かし、サラドが差し出した帯を受け取った。
厠に入って太腿に装着し、短剣を差す。これならスカートのままでも屈めば抜ける。ニナの得物は短剣としても短く細いので、動きを妨げることはない。それどころか、まるで調整済みのように安定感が抜群だった。
歩いてみたら、確かにほんの少しクンッと突っかかる違和感がなくなった。スカートに慣れていないせいではなかったらしい。内穿き用にズボンは改めて選び直すことにする。
スカート用の下履きはどうにも心許なくて、今まで穿いていたズボンをそのまま着用していること、武器を捨てられないこと、全てお見通し。ニナは「はぁ」と息を吐いた。
(敵わない…)
戻ったニナは素直に礼を言えず、ひょこっと頭を下げた。
「いきなり手放すのは怖く感じるかもしれないけど、そのうち必要なものを選り分けられるよ」
まだ外見を替えたに過ぎないが、ニナは正に生まれ変わる手続きを踏んでいる気分だった。
あの影との対決を機会に、王宮の兵から抜けたい、生き方を変えたいと、ぽそっと溢した望み。それに応えようとサラドが相談に乗ってくれている。
あの時、防御壁と魔術陣の効力が失われるとニナを取り巻く闇が濃くなった。それはニナを守ろうとしてなのか、魔人の遺体を隠そうとしてなのかは判らない。
力が抜けて動けずにいるうちにショノアたちが去っていくのが見えた。
「あ、置いていかれる」と思ったが、「このままでいいか」という考えも頭を過った。
疲れでうとうとしかけたところに、サラドと相乗りしたことがある風変わりで大きな馬が現れ、ニナを咥えてひょいと背中に乗せた。突然の疾走感に目も開けられず必死にしがみついていたら、また急にポイと降ろされた。馬はまるで一陣の風の如く去って行った。
薄暗くなる中で、周囲を確認するとどうやら港町、それも下町付近らしい。ニナはふらふらと一軒の宿に辿り着いて、貪るように眠った。
朝寝坊という括りにも入らない昼もとっくに回った刻に目が覚めて、宿を出たらサラドが待っていたのだ。
「…あんたは、何も言わないんだな。その…、けじめもなく抜けること」
ショノアたちには黙って、それこそ闇に紛れて消えた形なったが、ニナ自身はその方が互いに良いと思っている。
「んー…。ショノアたちにとっては損害だろうけど、ニナがどうしたいか、が重要だからね。…それにしても、本当に良かったの? 母君と弟君に会わなくて」
「いいんだ。あれからわたしもいろいろと考えて…」
感動のご対面なんてありやしない。
『良かった 再会できて嬉しい 感謝してる』なんて言われても白々しいだけだ。
あの頃は母も自分と生まれたばかりの弟を守るので必死だったんだろう。けれど、足音がしないことを気味悪がり『魔物みたいだ』と虐げる父から庇ってもらえなかったのは棘のように心に刺さったままだ。
特殊部隊に入れられて、素直に従わなければ、能力を伸ばさなければ、家族に類が及ぶって脅された。自分のせいで母や弟が危険に晒されるのが怖かった。過酷な訓練で次第に考える力を奪われた。
「気持ちを整理したら、今更家族ごっこをしたいわけでもないって気付いた。だから、無事でいて、それなりに生活できていて、わたしのせいである日突然に日常がなくなるなんてことがないと知れたら、もう十分なんだ。あと、どうするかは二人の問題だし」
自分の考えを訥々と語るニナをサラドは温かな目で見守った。
「うん。わかった。あとは仕事に、住む場所だね。今は傭兵向けの下宿に空きが出てるから、なかなか良い部屋が選べそうだよ。確認、だけど、特殊部隊でしたような仕事はやりたくない…って訳じゃないんだね?」
「身につけた技術をいきなり全て封じるのも息苦しそうだし。あんたを見てて…何かわたしにもできるかも…って。…甘いだろうか」
「そんなことないよ。偵察とか情報収集の依頼は結構あるものだし。依頼主から女性をって要望もあるからね。中には危ない案件もあるから、信頼できる仲介者を通すことをオススメするけど、自分でも見定める目を養う必要がある。まあ、そこはニナなら大丈夫かな」
ニナは港町にある酒場のマスターを紹介された。まず手始めに彼の口利きでいくつか仕事を請けてみるのも良いだろうと。ちょうど浮気調査が一件あるということだった。
情報も物品も人も流通するこの町は仕事の種類も多岐にわたる。
それで続けるか判断するのも良し。
港町では王都に近すぎて居心地が悪いと感じたら拠点を移しても良し。
情報が早いのも売りである港町、しかも傭兵が多く滞在していた町では既に『最強の傭兵』が不帰の客となったという噂が広がりつつあった。
ニナも当然、耳に入れている。
けれど、ニナからは聞けず、サラドからも話はない。
サラドの態度はいつも通りだ。時折ふいっと表情が翳り、虚ろな目をするが。
「…あとね。ニナは馬の扱いも御者をするのも結構気に入っていたみたいだから、荷運び、なんかもいいと思うんだ。あの大容量の荷馬車は一人で維持管理するのは厳しいけど、これくらいの…」
酒場の次に案内された場所ではニナが跨るのにも適した小型の馬と、荷馬車が用意されていた。これまた中古だが、個人で所有するのはちょっとした財産になる。
「斥候を生業にしてもいいけど、別の仕事があった方が都合も良いと思うんだ」
ニナは呆然とした。確かに一人で作業するのに適切な大きさの荷馬車。
小型の馬は白に灰色が少し混じった毛色で、脚は体高に対して太めでガッチリとしている。
「え…、これ、わたしに…?」
「そう。良かったら使って。こう見えて、この種の馬はとても力持ちなんだよ。足は速くないけど荷運びは得意でね」
じわじわと喜びに胸が熱くなる。潤んだ目がキラリと光っていたことをニナ自身は気付いていない。
「こっちを主にしてもいいしね」とサラドが笑う。
「あのおっきな馬と離れるのは残念…だけど。持ち主が国だろうから、どうにも、ね」
あのニナが選んだ馬。灰色に斑模様、たてがみと尾が黒く、脚が太くていかにも強そうでいて温厚な馬を思い出し、ツンと鼻の奥が痛む。
手を出しかけ「待って! 小さいけど、気は強いから」という忠告に引く。サラドに宥められたところでニナも挨拶をした。認めてもらうには少々時間が要るようだ。
「きっと、良い相棒になれるよ」
サラドに鼻先を撫でられた馬がヒンと鳴く。
「馬と馬車の代金は…今すぐは無理だが、絶対に払うから!」
これは譲れないという決意でニナが宣言する。その熱意にサラドは眉を下げて微笑んだ。
「…うん。そうだね。その方がニナも気兼ねがないか。…何時でもいいから、待ってるよ」
借金ではあるが、これでサラドとの関係が途絶えないことにニナも安心した。
「オレからもひとつお願いがあるんだけど、いい?」
ニナに手渡されたのは平べったい一口大の焼き菓子だ。
「これに魔力を注いで『ありがとう』ってお供えしてほしい」
「お供え? この模様、何か意味があるのか?」
「これは闇の象徴紋で、ここが名前。古代文字で『光』の意味なんだ」
「…なんて読むんだ?」
サラドが音にした名前はちょっと複雑で、簡単に発音しようとすると『ルークス』となる。
聞き覚えのある語にニナは「ああ」とひとり納得した。
「…魔力を注ぐっていうのはどうしたらいい?」
焼き菓子を包んだ両手にサラドの手が重ねられた。ほわりとした温かさが巡る。
ニナの友達だとサラドが話してくれた闇を想い、『ルークス』という名を頭に浮かべ、『ありがとう』と口にする。ぞわぞわと手の平が痒くなったところで手が放された。その拍子にポトッと落ちた焼き菓子は足元の闇が拾い、ゆらゆらと揺れてサラドに向かった。
「…っ痛…」
サラドが右の鎖骨辺りを抑えて前傾姿勢になる。体を起こした時には朗らかに笑んでいた。
「ニナ、ありがとう。無事にお礼の魔力を返せたよ」
「ほとんど、あんたがしたことだけど」
ニナは照れて顔を俯かせた。足元の影はもう動かないし、真っ暗でもない。
「あの…さ。もうひとつ、頼みたいことがあって」
「うん? なに?」
「一回でいいんだ。その…『お父さん』って呼ばせてもらえないだろうか」
父親に対する負の感情を捨てる区切りとして。あともうひとつ、捨てたい想いがある。
「え…、お父さん…?」
硬直するサラドにニナは慌てて手をバタバタと振り、熱くなった顔を隠す。
「あっ、いや、いいんだ。変なこと言って済まない。忘れてくれっ」
「あ、うん。ごめん、ぼうっとして。…いいよ」
立ち直ったサラドは困惑しつつも了承した。
「…いいのか?」
「うん」
頼んでおいて急に気恥ずかしくなり、ニナは余所を向いて、いつも以上の小声で「お父さん」と呟いた。
「うん」
サラドも嘗てないことにどう返してよいかわからず、遠慮がちに軽く手を回して、背をポンポンと叩いた。
「…ありがとう。これで吹っ切れた」
(こういう尊敬とかのはずだ。これがわたしにはきっと丁度良い…)
ニナは芽吹く前の感情にそっと蓋をして、晴れ晴れとした顔を上げた。
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