274 帰ろう
重い足取りで湖畔から林に進み入るサラドに気付く人はいない。
とにかく町へ戻りたい一心なのか、慌ただしく林を後にする王子一行は前だけを見ている。
ただ唯一、気遣わしげに「ニナ」と呼ぶセアラの声が最後に聞こえた。
雨雲も一行に伴って移動をはじめた。来た時に比べて大分薄くなっているが、まだまだ彼らは雨に悩まされることになりそうだ。
シルエは縦に構えた杖を支えにして立ち、常より時間をかけて浄化を行っている。残照のような柔らかな光はじわじわと周囲に広がり、そのまま溶け消えた。
その傍らでノアラは自身が施した術の後片付けをしている。
サラドは濃い闇が残っている一部の場所に目を向けた。
小さな、本当に今にも消えてしまいそうな小さな光が寄り添うように二粒、浮き上がることもできずに震えている。サラドは手元を隠すように二人に背を向けてしゃがんだ。
(たくさんの犠牲を生んだ…、罪の重さは計り知れないけれど、罪は罪として)
二粒の光をそっと掬い取る。
(命の環には還れずとも〝死〟の元には行けますように)
サラドの手の上で光は限りなく薄くなり、淡雪のように溶けた。
重くなった腰を上げ、独り言のように呟く。
「…もう大丈夫だよ」
濃い闇の中で僅かに身動ぐ気配がした。
「…激闘…だったんだろうねぇ」
瘴気が払われたか確認を兼ねてぐるりと首を巡らしたシルエが、奇っ怪な風景への変貌にしみじみと呟く。
「…なんかさ、まだ実感が湧かないよ。あの、ディネウが、さぁ…」
まるで、自身も焼け死ぬ一歩手前だったことなど忘れたかのように。
「…それにしては東と西の二箇所より瘴気が少ない。あの雨雲もあったから、もっと酷いかと覚悟していたんだけど」
ノアラに話し掛けるつもりで振り返ると、そこには大剣を抱えたサラドがいた。
「水の最高位精霊がディネウを迎えに来てくれた影響かな。それと、エテールナさんが鈴を使ってくれたんだって」
開いた手の平で鈴がシャラリと鳴る。
サラドのいつもと相違ない表情と口調が逆に痛々しい。シルエは顰め面になりそうなのを自覚して、ぎゅっと瞬きをして誤魔化した。
「あ、なるほど。道理で。助かったよ。正直、もう限界でさ」
もたれ掛かっていた杖からシルエの体がズルリと落ちかける。大剣を両手で持つサラドが体ごと動くも、肩で受け止めるしかない。おろおろと手を出していたノアラが、困惑しつつ大剣を代わりに持った。
「はは…。みんな酷い姿だよね」
立っているのも覚束なくなった自身にシルエが苦笑する。
ノアラは切り刻まれた服のボロボロさも大概だが、血や土埃による汚れも痛々しく見える。サラドも藻やらヘドロやらがこびりついていたり、焼け焦げた跡があったりと、相当なもの。
当然『みんな』には剣のみを残したディネウも含まれている。
「…本当、だね」
三人とも泣き笑いの表情になる。ノアラは重たい大剣を抱え直した。
「ごめ…も…ねむ…い…」
「今日のところは帰って休もう」
「ん…帰…ろ…」
長い長い一日が終わる。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ショノアは手綱を握り、王子一行の殿で荷馬車を走らせる。御者台にも幌の中にもニナの姿はない。
ショノアは人知れず小さく嘆息した。あの場所から離れられたという実感と、規則的な蹄と車輪の音にやっと少しばかり精神が落ち着いてきた。そうすると途端に体が悲鳴を上げていることに気付くが、町に着くまでは、と己を励ます。
何が起きたのか、時系列で思い出そうとしても考えは纏まらない。
あの時、ショノアはすぐ目の前にいたはずのニナと魔人を見失った。急な天地両側からの光に目が眩み、周囲から上がったワッという声に意識が逸れた間に忽然と消えていた。
それから、あの場に居合わせた誰もが圧倒された〝水の神〟との邂逅。
あまりの迫力に腰を抜かしたり、額づいて震えたり。
少なくとも歓迎はされていない。それは確かなこと。
すでに空は宵の色が広がり、茜色は端に追いやられている。
第一王子は王族らしく凛とした態度を取り繕っていたが、憔悴しているのは明らかで、話しかけても返答が一言あるかないか。
治癒士から王都へ帰すように申し付けられているショノアは撤退を促した。
これ以上、怒りに触れてはならない、一刻も早くここから離れたい、ここで夜を明かしたくないという意見は全員一致で、取るものも取り敢えず出発となった。
セアラはまだ震えが治まらない手で「ニナがいない」と訴えたが、視界が悪くなっていく中で捜索は難しい。結果、ニナは無事で、三人の方が遭難という図が容易に想像できてしまう。
「ニナはきっと…一人でも、大丈夫だ」
ショノアは最後に見た光景に目を瞑り、己に言い聞かせるように告げた。「ひどい」と小声で詰るセアラに、『馬車を停めた場所まで退く』旨を強いた。
迷わないように石を置いた道を先導するためにも。
マルスェイは道々に置いた石を回収できず、愚痴愚痴言っていたが、最終的には折れざるを得なかった。主に魔力酔いによる不調で。それでも「魔力を感じる。この素晴らしさ。…うぇ」と喜んでいるのだから、筋金入りだ。
雨で濡れた石は塗料が落ちかけていて、もうほぼ手頃な大きさの小石でしかないように見えた。マルスェイがその事実に気付いているかどうか。知ったらどれくらいへそを曲げるかと考えただけで頭が痛い。
待機組は守護者が起こす地揺れや咆哮にすっかり怯えきっていた。ピリピリして暴れる馬を宥めて出立を急がせる。ざわつく中、ショノアたちの荷馬車を牽く脚の太い馬は繋がれた場所でうとうとしていた。
ショノアはそこで夜を明かして、態勢を整えてからニナを捜しに戻る…ことも考えていたが、王子より随行を求められた。
「私だけでもここに残り、ニナを待ちます」
「しかし、」
「…お二人と違って私は王宮勤めではありませんから、構いませんよね?」
相手の言葉を遮るという無作法をしてまで、セアラが断固とした意志を示す。
ショノアとマルスェイが命令に背けない立場であるのは理解し、そのうえでニナを切り捨てることに憤ってもいる。
また、王都に帰ってしまえばあまり自由が利かなくなる身であるのを自覚しているのだろう。
「今は自分たちの安全確保が優先だ。ニナの能力であれば、一人で王都までだって戻ってこられるはず」
苦慮のうえでショノアが出した返答に、セアラはキッと顔を上げる。
林の中に停め置いた馬車まで戻るのは仕方ないと思った。でも、この言葉を信じて良いとは思えない。それならば、ニナはとっくに追い付いている。
けれど、一向に姿を見せない理由は?
怪我で動けない?
魔人は死んでいなくて、ニナを連れ去った?
悪い考えばかりがぐるぐるして、頭を占めていく。
無言で日持ちしそうな食糧を自分の背嚢に詰め、荷台を降りようとしたセアラは大きくよろけた。
疲労と魔力の使い過ぎによる痛手はかなり深刻で、緊張が強いられる野営、まして歩き回る余裕は残されていないと知る。
「ほら、寒さは体力を奪うし、夜は危険だ。多分、一番近い村までだから、辛抱してくれ」
ぐらぐらと目眩もしてきたセアラは為す術もなく荷を奪われ、座面に腰を下ろされた。ショノアとしてはこのまま眠ってくれた方が安心なのだが、こくりこくりと船を漕いでも頑なに座った姿勢を崩さない。逆側の座面では当然のようにマルスェイが横になっているのに。
ショノアはやれやれと思いながら、馬に出発を告げた。
整備されていない道、暗さが増す一方の時刻と条件は良くないが、できる限りの灯りを手に、ヒィヒィ言いながらも急ぐ。小さな村は通り越し、使用人や荷物を載せた馬車の大半を残してきた町に向かって。
夜半に出迎えることになった町側も困惑が隠せなかった。
守護者が暴れた余波は近隣の村町にも到達しており、また雨も降りだしたから。
王子も文官も、到底想定していなかった事態に遭遇し、余裕がなかったのだろう。
行きに見せた穏やかさはなく、王子は挨拶に顔を見せるだけ、実力者揃いである近衛兵は張り詰めた様子だし、『疲れを癒やしては』と滞在を勧める声も歓待の宴席も断り、一晩休むだけで急ぎ発つ。まるで何かから逃げるようにして。
王都までの道中、それを繰り返すことになった。
そんな鬼気迫る大行列に「参拝はうまくいかなかったのでは」という懐疑は広がる。だが、質問などできようはずもない。説明もなく、ぼかされては憶測ばかりを呼ぶ。
湖畔までの案内のために一歩早く王都を出ていたショノアたちは、後続の王子一行が宿泊した町でどのように喧伝していたのかは知る由もないが、噂の火消しが難しいだろうなとショノアは感じざるを得なかった。
ショノアは一応、はぐれた仲間を捜しに戻りたいと希望を伝えた。だが、王都への帰還随行から外されることはなく、それはセアラの身も含めての命令で、納得してもらうのに苦心した。いや、セアラは納得などしていないのだろう。ただ、王族に逆らってはいけないと知っているだけのこと。
予想はしていた。あの事態を詳しく知る関係者として放つわけにはいかない。また、定かではなく、内容を詰めていない公式発表前の事項を話されては困るであろうことも。ことは〝神〟に関わることだ。
王都の牆壁を抜けると、全体に気が緩むのを感じた。休憩も最低限の強行軍。日数的には短いはずだが、長い道のりだった。
「…彼女はむしろ探されたくないのかもしれませんよ」
マルスェイがぽつりと明かす。眉尻を下げたセアラの表情はいつもの困惑よりも批判が強い。『何を根拠に?』と顔に書いてある。
「だって、ニナは辞めたがっていたでしょう?」
マルスェイが確認するようにショノアを見る。セアラは「どうして?」と小さな声ながら強く問う。
ニナは一兵として正式な任命も所属部もない。寮に部屋もない。特殊部隊員見習いとして受けていた処遇を知っている範囲で語れば、セアラは愕然とした。マルスェイも知らない内容も含まれており、驚きつつ「ありそう」だと苦笑していた。
「この機会に足抜けを…と考えたとしても不思議ではないですよ」
「そんな…」
「あの場、あの時に、というのは我々も後味が悪いですが、これ以上ないきっかけでもあったのかもしれません。ええ、私自身が罪悪感を薄くするためにそうだと思いたいのも否めませんけれどね」
マルスェイが目を伏せて、小さく首を横に振った。戦場で脱走兵はいるものだと。
戦場という言葉に衝撃を受けながらもセアラは「ニナはそんなことしない」と反発し、目を潤ませる。
「…けれど、ニナが生きていることを信じるのなら、それが一番ありえるんですよ」
ショノアは最後のニナと魔人が二人からは見えていなかったと思い込んでいたが「マルスェイはどこまで把握しているのだろう?」と彼の怜悧な横顔をぼんやり眺めた。
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