273 別れ
「うっわ、びっくりしたぁ…」
地下深くにある土の神殿に通じる祠から、いきなりシルエが現れ、尻餅をついた。
つい先程リンリンと鳴った魔道具をノアラはぼんやりと見る。まだ「転移が可能な範囲に着くまで待ってくれ」と返答すらしていない。
「…どうやってここに?」
「ああ、それがね――」
風の最高位精霊は『西の地も浄化しなさい』とシルエに命じた。その代わりに土の神殿に直通で寄越してくれたのだった。
「これって、転移とはちょっと違う? 空からいきなり地下坑道に落とされて、急速度で抜けた感じ?」
ノアラはシルエが此度も最高位精霊から直接言葉を賜ったこと、加えて稀有な体験をしたことを知り、茫然とする。
「それにしても、随分と派手にやられたね~」
いつもの軽口に現実に引き戻された。
治癒のために杖を向けるシルエをそっと制止する。決して、羨ましさと妬ましさで意固地になっているというわけではない。
「問題ない。傷は塞がっている。魔力を温存してくれ」
「そ。なら、いいけど」
返事は素っ気ないが、シルエの表情はノアラが空になった小瓶を手にしているのを見て満足そうだ。
ノアラは怪我の有無よりも外套がボロボロになったことに悄気げている。無表情だが、帽子の鍔を少しずつ回して確認する様はいじけているようにしか見えない。年季ものの帽子は、途中で吹き飛ばされたことで幸いにして大きな損傷はなく済んだ。
「じゃあ、ちゃっちゃと浄化をして、魔人対決といきますか」
漂う瘴気に向けてシルエが杖をクルリと回す。ややキレが悪いが、練り上げられていく文様は清く慈しみ深い。
夕陽と相まって一層柔らかい浄化の光にノアラは自然と頭を垂れた。
朝陽の清廉で強い光芒も思わず背筋が伸びる美しさだが、なんとなく今はこちらが似合っている気した。
暗い靄が晴れて、休息をもたらす夜の色になる。
努力してもノアラには成せないこと。
改めて周囲を見渡し、その荒れ様にノアラは顔を顰めた。雷で焦げた地に、無惨に切り倒された木々。散らばる枝葉。水を失い窪んだ泥地と化した池は季節が巡っても水面を覆う葉や早朝に咲く花は見られないだろう。
ふぅと吐息が漏れる。
「性分の違いだと思うな。僕も認めてもらえたとは言い難いんだよ」
ノアラの心の裡を覗いたようにシルエが肩をひょいと竦める。
土の最高位精霊は四大のうちで最も慎重で、姿も見せようとしないし、言葉も少ない。
「あっちもね。大分焼け野原にしちゃったから。でもさ、僕ら、かなり頑張ったと思うんだよね」
杖を半回転させて地を突いたシルエは「そうでしょ?」と同意を求める。ノアラは首を縦にも横にも振らなかった。
「…よし、完遂かな」
シルエが額に浮いた汗を拭う。その身にかかる負担を心配し、ノアラが声をかけようとした時、ザワ…と梢が揺れた。
「ん?」
「あ、」
二人は同時に顔を見合わせる。
「防御壁の魔力供給に変化が」
「魔術陣が役目を終えた」
言葉が被さる。
「…ってことは、あれ? そこまで期待はしてなかったけど、あのコたち、やってくれた? 煽っといた甲斐があったかな~」
「煽る?」とノアラが訝しがる。
「いやぁ、僕らはもう警戒対象だろうからさ、魔人に逃げられる可能性が高いけど。あの騎士サマ相手なら油断しそうじゃん。それに、ほら、物理攻撃に弱かったし?」
「…討ったのか」
「んー…。あのガチガチな守りの陣にいて全滅ってことは考え難いし。ま、とにかく戻ってみよう」
シルエに続いて歩き出したノアラが急に足を止め、耳に手を当てた。
「あ…今…」
「なに? どうしたの?」
「サラドから連絡が入りかけたような」
この時、虫の知らせとでもいうのか、二人とも互いに嫌な予感がしたことを口にはしなかった。
ディネウの小屋の転移扉を潜って湖畔に到着した二人は立ち尽くした。
倒れ伏すディネウに縋りついて、サラドが「嫌だ」「ダメだ」と繰り返している。
ディネウを一目見て、シルエは覚ってしまった。
脇腹に深い傷、出血も多い。けれど、問題は別にある。
奇蹟の力を以てしても蘇生はできない。治癒の基本は体が治ろうとする力。本人の生きたいという意思も効果を左右する。たとえ傷が浅くても、処置が難しい病でなくとも助からないこともあるのだ。
(ディネウはもう――)
「シルエ! シルエ、早く! お願い!」
悲痛な叫びが身につまされた。サラドも治癒はかけたのだろう。優しい魔力の残滓を感じる。
(ばかディネウ…だから、ヤバくなる前に使えって言ったのに)
ディネウの右手には剣が、左手には小瓶が握られている。戦い果てた姿そのまま。
シルエは心の中で毒づきながら、力を惜しまず最大の治癒をかけた。結果は見えている。とは言え希望は捨て切れない。
治癒の光は一瞬ディネウを照らしたかに見えたが、体をすり抜けて地に流れていく。
サラドはその光を目で追い、逃がすまいと土を掻く。ザリ…と指が掘った筋がついた。
「そ…んな…」
「…ディネウはさ、もう、その運命を受け入れてしまったんだよ。僕の力も、もう届かない」
「だって、ディネウの…は近くにいない。体から離れて、旅立つとしても、近くいるはずなんだ。だから、まだ…」
サラドは嗚咽混じりに「どこにもいない」と視線をうろつかせる。
「ねぇ、見て。ディネウってば『やりきった』って顔してる。ね?」
「…う…ん…」
シルエはディネウに短い祈りを捧げ、日常的であっさりとした別れの挨拶をした。サラドの肩にそっと手を置いて、「ここの浄化をしてくる」と囁き、足早に去る。その声は少しうわずっていた。
続いて、息を詰めて見守っていたノアラが恐る恐るディネウの脇にしゃがんだ。手に触れて額を寄せる。
まだほんのり温かい。
とても信じられず、巫山戯て眠ったふりをしているのではないかと疑い、痙攣ひとつしない目蓋をじっと見る。
サラドに連れられてノアラが村に入ったばかりの頃、ディネウにはそういった悪戯をされたものだから。怯えてばかりいるノアラの緊張を解し、仲を縮めようとしていたのだろうが、苦い思い出として残っている。
思えば、村を出てから、いや、風の最高位精霊に加護を願ってから、ディネウは常に律していた。
どんなに寛いでいたって、酔っていたって、裸でいる時でさえ、完全に無防備になることはない。
幾度とない死地、命に関わる大怪我を負ったのも一度や二度ではない。
この剣に何度も助けられた。その背中に守られた。戦闘時だけでなく、人の視線からも。
ノアラなりに最上の敬意を表す。一言、感謝を告げた。
サッと離れ、迷った挙げ句、シルエの後を追う。
サラドを一人にしてあげた方が良いと気を遣ったのもあるが、ただノアラ自身が辛くて、この場に残れなかった。
入れ替わるようにサラドの前でコロリと鈴が転がり、シャランと鳴る。清らかでとても切ない音色は心を映したかのよう。
「ごめんなさい。彼を…止めきれなかった」
エテールナは守護者が倒されて、魔力を啜られる危険がなくなるとすぐに湖を飛び出した。
悲しいかな、エテールナは湖畔から離れることができない。
そのため、その意を汲んだ水の最高位精霊がディネウを引き取りに行ってくれたのだ。
ディネウの手から離れた鈴はエテールナに拾われ、せせらぎと音を合わせてシャラシャラと響き、湖畔と林を隔てた。
お陰で瘴気は湖に及んでいない。
「お借りしたわ。彼は湖が汚されることを嫌うから。せめて心残りを減らしたくて」
エテールナは鈴をサラドの手に載せた。
その微笑みは寂しそうでもあり、誇らしそうでもある。
(思念だけじゃなくて、側に居られたら…)
エテールナの口にはしていない沈痛な想いが聞こえてしまい、サラドは首を横に振った。
「ディネウは…本懐を…遂げた…と思う」
シルエも言っていたようにディネウは笑んでる。そこに苦しみや悔いは感じられない。
エテールナが近くにいることでディネウが力を揮えると、危険な場面では思い留まるだろうと、そう願った。
(オレのせいで…)
だが、逆に働いた。ディネウは不退転の覚悟をより強くした。
「彼は立派で、とても素敵だったわ。本当に。…あの、急かしたくはないのだけれど」
エテールナが遠慮がちにディネウに触れる。
まもなく日の入り、夕暮れの朱と宵闇の深く渋い青が、決して交わらない層を作るほんの少しの時間。
常世との道が繋がり易い逢魔が時。悪霊に魅入られかねない。
「彼なら決して迷わないだろうけれど…」
サラドにもわかっている。わかっていて、なお、ぐずる子供のようにディネウから離れられない。
――刻だ。こちらに渡してもらおう。其の者は永劫、水と在ることを承諾した。誓いは覆されぬ
湖から顔を出した最高位精霊が強めの語調で引き渡しを求める。
エテールナが手を添えるとディネウの体が地から浮いた。大剣がスルリと手から落ちる。
「オレの親友で…大事な家族なんです。よろしく、お願いいたします」
最高位精霊は鷹揚に頷き、ディネウの体を連れて静かに湖に身を沈めた。
サラドは結局、別れの言葉を言うことができなかった。
水の最高位精霊が去った後、さめざめと泣くかの如く、霧がかった。探しても見えなかった光の粒がふわりと浮かび上がり、霧の幕にディネウの姿が儚く映る。その顔は出会った頃のようニカッと屈託なく笑っていた。
『しみったれた顔すんな』
そんな声が聞こえてきそうだった。
「…ディネウ…」
鎮魂歌は歌わない。歌えない。
ディネウの魂は水の最高位精霊に仕えることになるのだから、命の環には還らない。
「ありがとう…。最期に会いにきてくれて」
そっと息を吹きかけて見送る。光は真っ直ぐ湖に消えていった。
サラドはディネウの大剣を拾い上げ、抱きしめるように持つと、のろのろと立ち上がった。小さな火がシュルシュルとサラドの足を登ってランタンの中に落ち着く。
後ろ髪を引かれる思いで振り返ると、空を映した湖面はディネウの目に似た色をしていて、とても静かに凪いでいた。
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