271 決戦
一方、魔人を待ち構える魔術陣では。
サラドによって良い感じにニナの緊迫感は弛緩していた。影との直接対面が怖くないといえば嘘になる。それでも、この先に待っているのは解放だと思えて、待ち遠しい気さえする。仮令、それがどんな結果であれ。
改めて周囲を見回す。まだ『時』を感じさせる変化はない。
防御壁と魔術陣、天地両方に仄かな光源があることで、誰であるかは大体の背格好と姿勢で把握できる。
セアラが祈る様はいつも通りに見えて、怯えや張り詰めた感が窺えた。当然の反応と言えよう。
マルスェイはこんな状況にあって、『喜』の感情とおかしな精神状態。戦や魔物への恐怖がなさそうな所は、さすがというのか、ずれているというのか。
ショノアは肩に力が入り過ぎているように見える。ロングソードの柄を握る手もギュウギュウという音がしそう。
不意に強者の気配が減った。と、同時に視界が真の暗闇に覆われる。
また、魔力が逆流するような負荷を感じ、体がズンと重くなった。
ドンとした揺れ。魔術陣の外から子犬のような吠え声が聞こえた。キン…と耳が痛む。
間違いなく、今がその時だ。ニナはすぅと息を深く吸い、覚悟を決めた。
普段は無意識でしているのと逆を、『わたしを見つけてくれ』と意識する。
研ぎ澄ました神経に、広範囲から息を呑む気配やハァハァという荒い息使いが輪唱のように重なって聞こえ、気に障った。魔術陣内で守られている者たちが声を出せていたら、どんな叫喚が繰り広げられたか。そうなっては影の接近に気付けない。スリ…と指先を擦り合わせる感触に集中し、気を紛らわせる。
真っ暗闇の中でも、徐々にものの輪郭が見えてきている。見えるようになれば、その情報にも頼ってしまうもの。つい、キョロキョロと目を動かす。
黒に浮かぶ緑を帯びた白は残光のようでいて、違う。この視力は暗さに目が慣れてきたからではないとニナは直感した。
「……」
動き封じられた者たちの中に、唯一の存在がないか集中する。
(…来る!)
「ハッ、ハハハ…」
ヒタヒタと歩く気配を察知した時にはもう、笑い声がすぐに側にいた。
「ハハハ、悪足掻きに行ったか。守護者に敵うはずもないものを。邪魔者がいないうちに…さあ、始めるとしよう」
ペタリ、ペタリ。ゆっくり進む足音は真っ直ぐニナの所に――来なかった。
「我が君。もう少しの辛抱です。魔力は順調に集まってきておりますゆえ」
(え? 失敗した?)
焦ってニナは「おい」と声を発していた。普段から小声のため、雑音に掻き消されそうな声量だが、クルリとこちらを振り向く人影がある。
「なんと! ここに居たのか。愛しき娘。探したぞ」
ぼんやり浮かぶ人影は麻痺で抵抗できない第一王子をむんずと掴み、ニナ目掛けてやって来る。
「娘?」
要に配されたショノア、セアラ、マルスェイにも緊張が走った。
また一段と体にかかる重みが増す。ニナの心臓はドクンドクンと脈打ち、胸が痛いくらいだが、呼吸はできている。生命維持に問題はない。いつかの、裂け目の内側にサラドと入った際の様子を思い出し、三人の様子に目を配る。
ショノアはなんとか剣を支えにしているが、セアラとマルスェイは堪らず蹲っていた。
「娘よ」
目の前まで来たそれは、ニナの足下から立ち上がった影ではなく、実の父の顔が張り付いているわけでもなく、普通に肉体を持つ、初見の『人』だった。
小柄で、老齢で、貧相で、傷だらけ。纏う衣類は体の大きさに合っておらず、襤褸で汚れまみれ。
とにかく、みすぼらしい見目で、大それたことをやってのける『魔人』とは印象がそぐわない。
魔人は王子から手を放すと、片腕にのせていた布包みをまるで子供をあやすかのように大切に両腕で抱え直した。
「やはりお前ほどの逸材は見つからなかった」
「わたしはあんたの『娘』なんかじゃない」
「そうと知っていれば、もっと体を労れるように仕向けておくべきだった」
きっぱりと否定するニナの声が耳に入らいないのか、聞く気もないのか、魔人は好き勝手に喋る。
「ニ…ナ…」
ショノアはたった二文字を声にしただけで「んぐ」と喉を詰まらせた。体は重怠く、呼吸は浅く短く、耳鳴りは煩く、目の前に微少な星がチラつく。
そんな辿々しい音にも、魔人は注意を移した。
ペタリ、ベタ、ベタ。引き摺るような足取りでショノアの前に来る。
「…フン。これは、規格以下」
品定めするかのように睨めつけたかと思えば、すぐに興味を失くす。
ショノアが抜き身の剣を手にしていても脅威ですらないという態度。告げられた一言も何に対する評価かわからないが、本能的に自尊心が砕かれる。
魔人はまたゆっくりと歩き、マルスェイの前に。
「壮健で、魔術の心得があるのは良いが、これは変な癖がついていて矯正が面倒そうだ」
身を縮めているが、肘を突いて体を起こそうと気張っていたマルスェイの唇がはく…と動く。そんな反応も捨て置いて、セアラの方へ移動する。
「これも…魔力量はまぁ、ましと言えなくもないが…質が相容れないな」
プイと向きを変える。セアラはふるふると震え、組んだ手にぎゅっと力を込めた。
魔人は見えぬ魔術陣に導かれたかのように、左回りで一周し、またニナの元に。
「やはり、これ以上に良い素体はない。性別の違いはまぁ…慣れるしかあるまい」
再び王子を掴んで、魔人は当たり前のように中央を陣取る。
「先ずは、万全を期して我が君の魂移しを。娘よ。そこでおとなしく待っておれ」
ねっとりとした声は、間違いなくあの影と同一人物。ニナは左手で右腕を抱くように身を竦めた。
(あれが…マジン…)
治癒士が『魔人は人』だと態々告げた意味をショノアは覚った。
魔物と同じで躊躇いなど生じるはずもないのになどと思いもした。だが、いざ目にした弱々しい姿に、何も知らなければ侮ったであろうことが容易に想像できる。または、精神脆弱の状態であり、剣を向けるのは正義ではないと判断したかもしれない。
(見透かされてたんだな…きっと。俺の弱さを。しかと見極めねば。あれの正体を)
魔人の捕捉がショノアたちの役目。確かに『この場所に立ち、耐えること』と命じられたが、今のところ本当にただここに居るだけだ。望まれている時間稼ぎはできているのかと、考える。
魔術陣の外から聞こえる音はどこか遠くて、戦況は全く掴めない。小刻みで高くのタタタタ…と小太鼓を打つような律動。チャカチャカと忙しなく感じるのは耳鳴りのせいかと何度も唾を飲み込む。
(焦るな。今じゃない…はずだ)
勝機を、『合図』を待つんだ、と己に言い聞かせる。
魔人はまるでショノアたちからは自分が見えていないように振る舞い、取っ掛かりが見えない。
「さあ、お覚醒めください」
魔人は王子を足元に転がし、抱いていた御包みを掲げ持つ。その節にポロリと何かが落ちた。
「ああ…、いけない…」
拾い上げたのは子供の腕、肘から下の部分だった。掴もうとしてぼろぼろと崩れた部分も細かく丁寧に回収して、そっと包みにしまう。
「無事に済みましたら、こちらも大事に大事に飾って置きましょうね。我が君の元の体ですから」
動きも、話しも、体温もないものに、うっとりと語りかける魔人。
その様子を、取り囲んだ四人はゾッとしながら見ている。
「…おかしい。魂が移動しない。何故だ!」
はじめは本当に不思議そうに、語尾につれて怒りも露わに荒ぶれていく。
「術式は完璧なはず! 我が君は完璧な、王に相応しい魔術師でっ、間違いなど…ないっ」
苛立たしげに足を踏み鳴らす。ズドンと大きく地が揺れた。
「まさか! 魔力が絶たれた。そんなはずは」
突如、足下の土が隆起して体を跳ね上げ、同時に突風が背を押した。投げ出されるようにして大きくー歩を踏み出したショノアは『これこそが合図』だと確信した。
「ルークス!」
治癒士に教わった単語を声の限りで叫ぶ。耳元で囁かれた発音とは若干異なる気もするが、魔人は信じられない言葉を聞いたという風で、ショノアを振り仰いだ。
その隙を見逃さず、振り上げた剣で魔人を――
「…我が…君…ずっとお側に…どうか…私を…お側に…」
ショノアの剣は魔人に届くことはなかった。その前に、仰け反り倒れたから。
片腕は大事に大事に御包みを抱いたまま、もう片腕が宙に爪を立てる。
その首は針のような短剣で背後から貫かれていた。
「…汚れ役はわたしのものだ」
魔人を挟んでショノアとニナの目が合う。
「それに、わたしの敵だ」
終わった、任を果たせた、と思った。
(この結果も、見通されていたのかも。情けないが…ほっとしている)
気を抜いた瞬間、魔人の光を宿さない目がカッと見開き、上半身がガバっと跳ね起きた。
「!!」
消えていた防御壁と魔術陣の光が一瞬灯り、闇に慣れていた目には眩しくて瞑ってしまう。
ヴンと唸るような音と、抑圧から解かれた感覚。
開けた目に、役目を終えた防御壁の虹色がキラキラと散り、魔術陣の文様がスゥと収束していくのが映る。
闇も霧が晴れるように薄くなっていく。
まず、目と心に沁みたのは夕暮れの茜色。
それから、奇怪な光景。抜かれた雑草のように根ごとひっくり返された木々に、ボコボコと突起状に波打つ地面、アーチを半分描いて固まっている泥、こんもりとした土砂の山。
ワッと上がったのは歓声というよりも悲鳴で、誰も彼も状況把握ができていない模様。麻痺は解けたが、慌てて立ち上がろうにもよろけるばかり。そうしているうちに兵は幾分か冷静さを取り戻していっている。まだ気絶したままの者も大勢いるようだ。
ヒヤリとした冷気を感じて空を見上げると、湖がある方角の天に川がある。
思わず目を擦るが、幻覚ではなかった。
ゆったりとした流れでうねる川は、夕陽に照らされて黄金色に輝く水の龍。
「…水…神様…」
水龍は大きく口を開けて、一行を丸呑みにする勢いで迫り、頭上すれすれを抜けた。そしてクルリと転じ、ひとつ咆える。その鳴き声はキーンキーンと反響し、耳にした者は竦み上がったり、放心したり。
何か害があったわけではない。濡れてもいない。ただ驚愕しただけ。
残響とともに龍の姿も溶けるように掻き消える。
邂逅は瞬きほどに短かったが、畏敬と畏怖を植え付けるには十分だった。