269 風属性の守護者 vs ノアラ
地中を進む穴に落ちたノアラは、その先の気に視認よりも早く肌で感じ取った。既に瘴気が湧いているのは確実。
身構える間もなく、視界が明るく開ける。足の裏に地を踏む感触が戻ると、そこは池の淵だった。西に広がる不可侵の森の中、地の神殿に繋がる祠にほど近い場所にあたる。
夏になれば丸く大きな葉が隆盛を極め、遠目ではそこに水があるとわからなくなる池だ。
普段は静かな池が大きく波立ち、バッシャバッシャと水が打ち上げられている。疎らに残る枯れた茎は渦を巻く風に翻弄され、太く育った根までが水底から引き上げられていた。
不自然な竜巻が、柱の如く立つ。しかし、それを起こしている存在は見えない。
リン…と微かな合図がシルエから届く。開始だ。
(どの程度…、僅差であれば『同時』と見做されるだろうか)
ノアラは池の上を注視しつつ、湾曲した形の土壁を築いて盾とした。一周囲ってしまうと、空気や音の情報も遮り、変化に気付くのが遅れるし、退路も塞ぐため前方だけにしてある。
シルエと同じ時間内で決着させるには、こちらも最大威力の術を用いて一撃必殺を狙う。緊張のせいで、詠唱の入り句で声がうわずった。誰も聞いていないが、恥ずかしさに咳払いをする。
(確実に再生を止める条件を満たさねば)
魔術は奇蹟ほど不死者や死霊に効果覿面とはいかない。
しかも守護者はただのアンデッドではないため、通例通りでは倒せないと認識しておいた方がいいだろう。
僅かに焦りが生じていたのか、練り上げる魔力の膨らみを抑えきれず、風がつと止む。木漏れ陽の加減か、瘴気の靄に輪郭線が浮き出て、玻璃のような翅がギラリと照る。
片腕を前方にスッと伸ばした姿勢は風の方向を指し示しているかのよう。
揃えられた足の爪先は伸び、宙に浮いているが、背にある四枚の翅は動いていない。二股に分かれた尾はそよいでいるが、枝に残った枯葉が風にあおられているかのような生気のない動き。
一部に破れや欠損が見られるものの全体像はアンデッドとは判断しにくい。
空の色を映していた鏡面のような大きな眼が、ノアラの姿を捉えて暗く深い穴のように変じる。無機質な印象はいや増して、不気味。
ピンと伸びた背も手足もそのまま、ススス…と体ごと向きを変え、ノアラがいる方角を指し示す。
直後、風が鞭のようにしなってバシリバシリと打ちつけた。ほんの数撃で土壁は脆くも崩れ去る。魔力を吸われた土はサラサラの砂となって霧散し、視界が開ける。
「ッ!」
強打するはずの壁を失った風は真っ直ぐノアラ目掛けて飛ぶ。
防御壁が阻み直撃は免れたが、強烈な風圧を受けて後方の木に体を強かに打つ。
反射的にすっくと立てば、グラリと目眩に襲われた。唇と口中が切れていて血の味が広がる。
不覚を取った。勢いを逃すために自ら後方に飛ぶこともできず、受け身もうまく取れていない。
奇蹟の恩恵と魔術の減免が効いていなければ、ノアラの体は潰れていたかもしれない。遅れて心拍数が急上昇し、脂汗が吹き出る。
詠唱が途切れたことで魔力を感知しなくなったからか、守護者はクルッと身を翻した。姿が周囲に溶けて見えなくなり、再び池の泥水が激しく踊り出す。
治癒や魔術を担う者は攻撃対象として目をつけられやすい。戦い慣れていない初期は術が結ぶまで無防備になりやすく、特にその傾向が強かった。ノアラがここまで生き延び、魔術を究められたのも、仲間に恵まれていたからだ。
踏んだ場数の多さから並の兵よりかは動けるが、囮役を担うサラドや、前衛で攻撃兼盾役のディネウに比べると防御力が些か甘いと言わざるを得ない。
四人は義兄弟故に気心が知れている。その分遠慮もなく、意見の違いが喧嘩にも発展しやすいが、息も合いやすい。
得意分野がそれぞれ違うのも補い合うのに丁度良かった。
ノアラは攻撃魔術に適性を持ちながら戦闘を好まない。兄がその気質に配慮をしてくれたこと、またチームとして戦う上で魔術の腕を磨くのを良しとし、基本的に後衛で術に専念させてもらえた。
経験を重ねて、状況に合わせた戦術や連携の型が定まる頃には、ノアラの魔術で戦闘が決することも多くなった。
一時に相対する魔物が多数の際、かなり有利な手段である広範囲を対象とした攻撃術をノアラは行使できる。
そういった経緯もあり、いつの間にかノアラは守られる立場に慣れきっていたのだろう。
しかし今は内省している場合ではない。
(駄目だ。このままでは間に合わなくなる…)
どうするのが最適解か。悩む時間はない。
先ずは外套の内側にある衣嚢に納めた小瓶を取り出し、いつでも使えるように備える。シルエから直前に渡された特製の薬だ。
サラドの代わりに、敢えて土の術を囮にする。ここに配された守護者であれば土気の流れに引かれるはず。
ディネウの代わりに、適度に攻撃をする。守護者を強化させないためにも、なるべく魔力を奪われないようにする必要がある。やはり同じ風の術が良いだろう。正直に言えば、風単体の術は火の次に不得手。だが、初級の術ならば無詠唱で発動時間が極端に短く済むのはノアラの強み。威力としては劣るくらいが相手の目も欺ける。
そして、速度と正確さに重きを置き、習熟度も高く得意だと自認もある雷を最大出力で打ち込む。
雷は風と水の合成術であるため、吸われてしまう魔力があるが、打撃の方が上回ることに賭ける。
(四人の役割を一人でこなす。…できるだろうか?)
頭を過ぎる弱音を払う。今から別の極大術を組み上げるには時間がもう足りない。
(後には引けない)
少々大きめの土槍を撃つ傍ら、数多の風刃を放つ。
案の定、迎え撃たれる。土槍は風に砕かれて吸収され、風刃は相殺された。
間髪入れず術を発動させ続ける。もうどちらが先制しているかわからない。
周辺では枝葉が落ちたり、樹木そのものが倒壊する音が響いている。土が大きく抉られて、小石や土が降ってくることもあった。
守護者の体は透明に見えるが核は外から確認できない。目を細めて、特に魔力の濃い場所を探ろうとするが、その視線に気付いたのか、クルンと風が巻き、姿が消えた。
魔力視を以てしても、攻撃は空振りしやすくなるし、不意打ちや意表を突く攻撃を躱しきれない。
目からの情報にこれほど左右されていると痛感する。
土属性の守護者が放つ泥玉との速度差が想定以上で誤算だった。
標的に向かって飛ぶ風刃の軌道とは違い、ヒュンヒュンと飛ぶ風はそのもの自体が全て武器であり変幻自在。急に速度を上げたり、向きを急変させたり、同じ間合いではずれが生じていく。ノアラの術は風に取り込まれ、本体にひとつとして届いた様子はない。
やはり風属性に対して風で挑むのは分が悪い。
息継ぎをした一瞬の間で、暴風が一斉に襲いかかる。
風の猛攻で防御壁がガリガリと削られていく。とうとう綻びができ、その僅かな隙間からも風は侵入してきた。
それは前方からだけではなく、下から急に吹き上げて、また急旋回して背後から、ノアラを容赦なく切り刻んでいく。
ハッハッと短く呼吸をし、握っていた薬を口に含む。この程度の怪我で使用するのは勿体ない効能だが、手遅れになるよりは良い。
ポワっと光が散り、治癒ばかりでなく防御力が上がったのを感じる。防御壁の綻びもいくらか修復されたらしく、風が撥ね返っている。
(すごい…)
ノアラは素直に感嘆した。
(それに、これは…)
もうひとつ、その時になって気付いたことがあった。視界が歪むのは体を強く打ったせいか、もしくは知らず涙目になっていたのだと思っていたが、陽炎であること。土からの熱気が風を上昇させていて、防御の補助をしてくれている。
精霊による助力だ。
ノアラは一度、深く頭を下げると体勢を整えた。
(あと少し、もう少し…)
体感でシルエが詠唱を終結する時間と合うように、雷の準備をする。
(行け!)
カッと薄紫を帯びた光が炸裂し、ドンという轟きに地もジビジビと震える。紫雷は間違いなく風属性の守護者を貫いた。
(…核は)
ノアラはじっと瘴気の靄を睨みつける。その中で弱々しくもチカッと光り、粉々に散りゆくもの。それが静かに地中へ消えていくのを最後の一欠片まで見届ける。
魔道具がリンリンと呼ばわるまで、大地に頭を垂れる姿勢は続けられた。
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