261 守護者
ニナは反射的に短刀を取出して、逆手に構えていた。固く握った右手を左手で包むが、震えは抑え込めていない。ハッハッと短い呼吸を繰り返しても、息はちっとも楽にならない。
「大丈夫。大丈夫だよ。ニナ」
宥める声を耳にして、ニナは我に返った。サラドに抱き込まれていることに気付き、腕を突っ張って抜け出そうと試みる。窮屈なまでの力は加わっていないのに解けない。
サラドと目を合わせられず、俯いたニナはむず痒そうに体を捻った。
「わ…わたしはっ、そのっ、平気だ。だから、その、放してくれ」
「…ごめん。ニナ。もう少し、このままで。利用するみたいで申し訳ないけど、影の居場所を探らせてくれ」
頭上から囁かれた声は苦渋に満ち、切羽詰まった様子でもある。
闇の中は己の独壇場だと、逃げ場はないと思い知らせるかのように響いていた笑い声は先程の閃光でふつと消えた。けれども、機会を窺い、息を潜めているのがニナにはわかる。但し、あくまで感覚でしかなく、場所までは特定できない。闇の中に、とだけ。
ニナはほんの少しだけ顎を引いて了承を表した。
「…ありがとう」
ちょっとほっとしたような声がした後、サラドの魔力がニナの体に入り込んできた。害意のない、温厚篤実とした感触はニナとは縁遠いもので、逃げたくなる。拒絶してしまわないように、ニナは何も感じないように努めた。
払われたかに見えた闇と雨雲は、再びじわじわと覆い被さってくる。
想定内なのか、シルエは特に表情を崩すことなく、クルッと杖を回転させて次の準備に入った。
ノアラも着々と術を構築している。
ノアラは扱える術の種類と数ではシルエを凌ぐ。その分、あまり使うことのない術、著しく攻撃力の高い術は習熟度が伸びず、詠唱、陣を用いないと成功率が下がる。
実際、強力な魔物が跋扈していた頃でも、展開中の魔術を解析できるような敵はそう多くなかった。それでもノアラは念には念を入れて、術を気取られないようにしている。外套の襟を立てて口の動きや声を隠すのは勿論のこと、身振り手振りも意図のある動きには見えない。魔術陣に独自の工夫を凝らして安易に読み解かれないようにするのは魔術師にとって当然の措置。
なのに皮肉にも、手にした杖の三日月が呼応するように不規則に明滅するため魔力を練っているのが丸わかりだ。
余程魔術に長けているか、特殊な眼力がなければ視認できないが、様々な形が浮かんでは次々に飛び、スゥと地に落ちていっている。
次第に腕の振りは大きくなり、杖がガリリと地を引っ掻くこともあった。陣はかなりの大きさに発展している。
その間も、雨で泥濘む地から飛び出しては攻撃してくるモノとディネウは対峙していた。
ガッガッという音はすれども、打ち合いは目にも止まらぬ速さ。切り落とすことはせず、着実に弾き返しながら、湖からも、一行からも距離を取っていく。
跳ね上がった泥を被っても、麻痺状態の兵たちは避けられないし、声も上げられない。ただ、起きている事象を目に焼き付けるだけ。
王子一行を巻き添えにしかねない範囲を出ると、ディネウは大剣の切っ先を下に構えた。その一瞬の動きを合図にして、ノアラの魔術陣が地表に浮かび上がり、シルエの防御壁が中空に展開する。
完成した陣は、構成するのが文字や記号とは思えない文様で、ディネウ以外の全員が内にすっぽり収容されている。
二人により守護の空間が作られたこととは露知らず、地と空の両側から術に挾まれた一行はいよいよ顔色を悪くした。
ディネウが勢い良く大剣を地に突き立てると、ゴオオォと怒りに任せた咆哮が返った。耳をつんざく音に空がビリビリと振動する。
それにはさすがにサラドの集中もぷつりと途切れた。体がぐらりと傾ぎ、苦しげに耳を塞ぐ。
「おい、あんた、大丈夫なのか?」
大きな魔力の乱れを感じ取り、ニナはなるべく頭を動かさないようにしてサラドの顔を見上げた。
「ご、ごめん…。気持ち悪い思いをさせたのに失敗した…」
ぎゅっと眉を寄せて「捕まえられなかった」と呟いたサラドは、額に浮いた汗を袖で拭った。
「ニナは? どう? どこかおかしいところはない?」
焦り気味で気遣うサラドに首を横に振る。確かに一時的に負荷が掛かったような、痛みに似た感触があったが、どうってことはない。
特殊部隊預かりの身になってから、不調を気にかけてもらえることなどなかったため、どう返したら良いか、素直になれない。
ニナが無理をしていないのを確かめたサラドは閉じ込めるように抱いていた腕を解いた。それでも、手は背に添えている。ニナはすぐさま半歩ほど距離を取った。
「ちょっと困った状況だな…」
ツンと痛む耳を抑えたまま、サラドはゆっくり視線を上げる。釣られてその方向に顔を向けたニナは緊張にぎゅっと喉が締まるのを感じた。
地鳴りのような咆哮は止まず、地が波打つように大きく揺れて、立っているのもやっと。一面の土がひっくり返り、木々が根こそぎ倒れていく。ボタ、ボタと泥を降らせて、巨軀が姿を現した。
ディネウが舌打ちをする。シルエもノアラも目を見張った。
先細る形の頭部、細長い胴体に、強靭そうな尾。土中から飛び出して攻撃していたのは、この尾の部分だろう。前脚は体を支えるのには不十分な短さ。鋭い爪を持つ大きく平たい手は土を掻き出すのに適している。体の大きさに対して目はとても小さいが、その代わりに鼻先が自在に動き、髭も繊細。背にある小さな突起は羽の名残りか。
それは、土の最高位精霊が嘗て一度だけ見せてくれた姿に似ている。けれど、纏う気は違う。魔力の塊を感じるが、どちらかといえば、魔物に近い。
「ねぇ、これって、まさか…」
想像しうる中で最も可能性が高いのは穢れに侵された精霊の成れの果て。
三人は自然とサラドに注目する。サラドは直ぐ様「違う」と否定したが、言い知れぬ不快さに当惑していた。
「…じゃあ、遠慮なくやらせてもらうぜ」
最高位精霊と比べれば小さいが、人が立ち向かうにはとてつもなく大きい。
ディネウは手首を回して剣を構え直し、勢いづけた。周囲の岩や木々を足場に跳躍を繰り返し、その首を狙う。一閃した剣の先で、引き裂こうと振るわれた前脚がボテッと落ちた。構え直した剣に体重をのせて、脳天に深々と突き刺す。ディネウが剣の柄を放し、身を翻した頃合いで、紫雷が導かれたように落ちた。
頭を中心に焼け焦げた体がどうと倒れる。肉は泥と化し、骨がガチャリと崩れ落ちた。
「どうだっ」
「まだだよ。気を抜かないで」
「は?」
確かに仕留めたはずだが、骨が起き上がり、うぞうぞと泥が集まり外殻を形成していく。
「…んだと?!」
ディネウは今まさに再生を遂げようとするモノから剣を拾い上げて、飛び退いた。ノアラがもう一発、雷術を撃ち込むが、一瞬動きを鈍らせただけ。むしろ、魔力を啜っているようにも見える。
「どういうこった?!」
「僕に当たらないでくれる?」
シルエは杖を斜めに構え、中空を睨む。視線をキョロキョロと動かして探すのは、不完全な生き物ではない。
その様を狼狽えていると捉えたのか、笑い声が速度を上げながら近付いてきた。
「ハハハッ。素晴ラシイ。伝エ聞イタ通リダ。守護者ハ四体デアリ、且ツ、互イヲ補イ合ウ共同体。同時デナケレバ倒スノハ不可能ダト」
この結果に影の方こそが興奮している様子。高笑いが右から強く聞こえたり、急に左に移動したりする。
「深イ深イ眠リノ底カラ呼ビ起コシタ。叡智ノ結晶『守護者』ハ我ガ声二応エタ…」
成功に酔いしれ、悦に満ちた声。
「守護者?」シルエとノアラが互いに目を合わせた。
「フフ…。アト三体モ今頃出現シテイルコトダロウ。魔力ナシノ人間ハ果タシテドレダケ生キ残レルカナ?」
再生を遂げたモノが、その威を示すように再び咆哮を上げる。
しかし、そこで止まらず、今度はべチョリべチョリと肉が剥がれ落ち出した。
「…不死化」
その大きさだけでも脅威であるのに、ゆらゆらと昏い靄が立ち昇る様は不気味に尽きる。たとえ麻痺が解けたとしても、兵士たちに立ち向かう気概が残っているかは怪しい。呆けて開いた口があわあわと震えている。あまりの恐怖に目をギュッと閉じてしまっている者さえいた。
シルエが張った防御壁の内にいる一行は瘴気や毒素からも守られているが、腐臭は防げない。その感覚は、人が身を守る判断に必要だからだ。
「まずいな。この大きさじゃあ、瘴気も穢れも撒き散らす量が半端ない。狭間の歪みが誘発される」
「くそっ」
「ドウシタ? 手モ足モ出ナイカ」
挑発する声にディネウがギリリと歯軋りする。
「フフッ、不死相手二剣ナド無意味。ソノ忌々シイ光デ滅シテモ、同時二絶タネバ復活スルゾ」
勝ち誇った笑い声がぐるぐると回る。神経を逆撫でする音にシルエは小声で「ムカつく」と呟いた後、ハッと短く息を吐き出した。
「『守護者』だって? まさか、古代の遺物だろうか」
シルエのどことなく棒読みで、態とらしく大きな声にノアラは小さく首を傾げる。古書や遺跡から得た知識を総動員して「聞いたことはないが…」と口にしかけたところに「あー、まいったな」と声が被さった。
「倒すには四体同時だって? しかもアンデッド? なんて厄介なんだ」
シルエはさも大変だ、困ったと見えるよう顔を片手で覆っている。
「『守護者』はいかにも強そうだし。僕らの知識が及ばない古代の偉大な魔術師由来なんだろうか。凄いな~」
シルエの意図を瞬時に理解したノアラも俯いて首を横に振った。本人的には敗北感を表しているつもりだが、如何せん動きが小さい。
二人の胡散臭い態度を訝しんだディネウが盛大に顔を顰めた。
「守護者ハ、魔力ヲ溜メルタメノ器、ソシテ、精霊ニモ対抗シウル戦力トシテ、作ラレタ存在。
ズット眠ッタママダッタガ、我ガ声二応エタ。ソノ支配権ヲ奪ッテ見セタ。
魔力ノ質モ量モ主…我ガ君ノ方ガ遥カニ凌駕シテイルノニモ関ワラズ、傲慢ニモソノ地位ヲ譲ラナカッタ者タチ二見セテヤリタイ。ヤハリ我ガ君コソ王二相応シイ」
まんまとのせられて気を良くした影は饒舌になった。しかし、自慢と愚痴の独白が殆どを占めている。
(ふぅーん。もう少し情報が欲しいところだけど、まあ、こんなものかな…)
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ありがとうございます
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